第三八話 殺鼠
「かかったな」
絡舞紀伊からしたりと、勝ち誇るような声音が漏れた。
その一言を合図に、ネズミの膝が力なく崩れ折れ、胃の中で暴れる不快感が、まるで逆流する泥を押し出すようにこみ上げて。
「ゴボゴボォオオッ──」
盛大にその場で嘔吐した。吐瀉物が畳を下り、耳障りな音が立つ。
「貴様を捕らえることが、紅子様に課せられた我が使命。対策していないわけがないだろ?」
嘲るようなその声に、ネズミはわずかに顔を上げる。だが、またこみ上がった吐き気に屈し、膝をついたまま嘔吐を繰り返す。
なんだこれは。匂いが、この匂いが鼻に入った途端、たまらなく肉体が重くなった。
えずきを止められない。腹の底で暴れる不快感に、どうしても。
「鼠という生き物は、強い刺激臭に弱いからな。酢酸やウコンなど、いくつか適当に混ぜておいたのが功を奏したようだ。神輿、社、どちらに来ても良いように、すべての人形に仕込んでおいたのだ」
絶望の裾野が急激にネズミの胸中を満たしてゆく。
獣の肉体であることが己の最大の利点だったが、見事に逆手に取られた。人よりはるかに鋭い嗅覚を、ここで突かれてしまうとは。
「紅子様の恩恵により毒を仕込んでも回復されてしまう。ならば、常に香りを放つものであれば──」
言いさしに、無数の刃が、伏せるネズミに容赦なく降り注ぐ。
刺突が腹を貫き、袈裟斬りが胸を裂き、一文字斬りが眼球を横断する。
「ガァアアアアアアアアアアッ」
嗜虐、暴虐、残虐──三重の歓楽に酔いしれるように、ネズミの肉体は幾度となく斬り刻まれてゆく。
飛び散る鮮血が畳に、天井に、支柱に散り、赤く紅く周囲一面を染め上げるのだ。
「ほははッ、呆気ない! 紅子様に花を授けられた者であると聞き及んでいたが」
「父上ッ、おやめください!」
止まらぬ、止められぬ。娘の悲鳴が上がろうとも、刃が止まることはなく。
なおも嵐のごとく剣線が咲き乱れ、、ネズミの肉体に血糊で蜘蛛の巣を描く。
返り血で染まってゆく百足人形の顔が、喜悦を浮かべるように咲き乱れ。
「まことに肩透かしである……」
散々と斬り刻んだ後、その一言。
満足したのか、女と致し終わったかのように絡舞は熱を落とす。
地を転がり、惨痛に呻くネズミを見て、人形の肩が失笑に揺れる。
「がァ……」
全身から回復の火花を散らして、ネズミは腕を立てて起き上がろうとした。
「ネズミ様……もう……」
タカオが口元抑え、目元に涙を溜めて悲壮をこぼした。
立たなくて良い、と、そう言いたいのだろう。
「おで……諦めべないよ……」
回らぬ舌で、ネズミは吐血と共に吐き出した。
死んでいない。殺されてはいないのだ。
だから、どれほど刻まれようが、諦める理由にならない。
「どうして……そこまで……」
そう、タカオの詰まらせた喉から漏れる。
どうして立つのだ。どうしてそうまでしてくれるのかと。
ネズミは何故だか口元が綻び、笑えてくる。理由など知らない。
けれど、それでも、立たずにはいられない。
どうしても、気が進まないのだ。
成人式の日、香梨紅子に詰め寄られても太刀を手放せなかった、あの時と同じ。
一度、気が進まないと思ったら、命を賭してでも、衝動に走ってしまうのだ。
「もういいだろう」
呆れるような声を放り、、百足人形から鋭い刺突が繰り出される。
数多の刃が、ネズミの腹を、胸を、四肢を刺し貫き、床に縫い止める。
その有様は、まるで昆虫標本。床で開かれた惨劇の展示に、殊更と絡舞の嘲笑が響く。
「ほはははッ、滑稽だな、獣よ」
「がぁ、ああッ」
ネズミは全身を貫く灼熱のような痛みに苦しみ、呼吸もままならず。
回復の火花を散らすも、修復された肉が刃を呑み込み、身の内と一体となってしまった。
「紅子様には捕縛を命じられているからな。命まで──」
取らんよ。そう言って、百足こと絡舞は腕に抱えたタカオにぬらり首を向ける。
「おしまいだな。脆弱なお前が託した最後の希望は、それもまた脆弱だったのだ」
容赦なく絶望を打ち込み、タカオの心を折りにかかる。
「あぁッ……あああッ……」
タカオは止めどなく落涙で頬を濡らし、百足の腕から必死に逃れようともがく。
「ネズミ様ッ、ネズミ様ッ!」
枯れた喉から絞り出すように、自分の名前を呼んでくれている。
助けたい。そのために、立ち上がりたい。されど──
「ぐぁあッ、ああ!」
墓標のように突き立つ刀身に固定され、脱出は不可能。
極め付けは、またあの頭にかかる霞だ。
──こんなときにッ、やめろ……今は、やめてくれ!
その心の訴えを袖にするように、ネズミの視界が白濁とした裾野に覆われてゆく。
記憶の残滓が、また空気を読まずに駆け上ってきたのだ。
これほどに酷い痛みが全身を駆けているのに、今度はなんとしてでもネズミを記憶の底に落としたいらしい。
「が……くそッ……」
視界が奪われてゆく中、なおも立ちあがろうともがき苦しむネズミを見て、
「ほはははッ、滑稽にしてこの往生際の悪さ。認めてやる、羅刹の中でも随一だろう」
絡舞の下劣な高笑いが、ねっとりと床を這う。
その態度に、涙するタカオが弾かれるように噴火した。
「ネズミ様を笑うなッ、この外道! 私の妹の声でッ、醜悪な言葉を吐き散らすな!」
怒りに任せ、タカオは両の拳を人形の腕に打ちつける。
手から鮮血を散らし、顔を歪め、着物を乱し、どれほど傷付こうが構うものかと殴り続けるのだ。
「虫唾が走るッ、こんな醜い心根を持った変態を、これまで父として慕ってきたなんて!」
「ああ……嘆かわしい。下賤の者どもの影響か、その美しい相貌からそんな汚い怨嗟が漏れるとは」
百足人形の巨大な顔面が、憂うように首を振る。
そして、暴れるタカオの首元に一本の手を伸ばす。
「これ以上、穢れる前に、もう殺してしまおう」
腰の拘束を解くと、素早く首を絞め、タカオの肉体を宙吊りに天井へと掲げられる。
地面に縫い止められたネズミの頭上から、タカオの草履が一つ二つと落下した。
「どうせ、こうする予定だった。美しい姿のまま、美しい思い出と共に──」
俺と一緒にいてくれ。歪にして卑しい渇望を声に乗せて。
打刀の一本、その切先をタカオの胸元に向けた。
今、この場で、押し込む気だ。かつてトオルの命を奪ったように。
タカオにも同じ方法で、心臓に一刺し。
傲慢なる刺突が繰り出される、その直前。
「トオル……ごめんね……お姉ちゃんを、許して……」
最後に一筋、タカオの涙が頬を伝い、顎まで渡って地に落ちる。
真下にいたネズミの顔に落涙が垂れて、しっとりと体毛を濡らした。
その刹那──。
「「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオ──ッ!!」」
ネズミの爆雷のごとき雄叫びが、絡舞の社を盛大に揺らす。
男女が同時に咆哮するような異形の大爆音が、衝撃波を発して大気が歪める。
側にいる者が気を失ってしまいそうな壮絶な慟哭、それと共に。
チウチウチウと、鮮花の胎動が響くのだ。
絶望に濡れてもなお、悲壮を拭うような開花の狼煙が。
大咆哮の中でも鮮明に、高らかに響き続けていた。
「──────」
やがて心臓の拍動八つ分の間、ネズミの叫びがピタリと止んだ。
すると次の瞬間、ネズミの全身の傷口から。
「「コロス」」
天井を貫くがごとき、紅蓮の炎が吹き上がった。
✿




