第九話 香梨紅子
「母上が来たの」
小声でミカンが告げた瞬間だった。
姉妹達は弾かれたように中央の台座に正対し、横一列に綺麗に並び立つ。
そして、両手両膝を地につけ、顔を伏せ、綺麗に平伏の形を取る。
その姉妹の行動に何事かと少年が狼狽えていると、
コツコツコツ。
社の暗闇から心地の良い音がする。なるほど、姉妹達はこの音に反応して沈黙したのだろう。
音の正体を探し、辺りを見回していると、背後から強く手を引かれた。
「ここ、私の隣、おいで」
ミカンが少年の手を引き、隣に誘い座らせた。
流石に空気を読んだ少年は、姉妹達に倣って両手両膝を地につけ、顔を伏せてそのときを待つ。
コツコツコツ。
周りの空気がピンと張り詰め、その乾いた音だけが室内に反響する。
次第にその音は近づき大きくなり、伏したネズミの頭上で音が止んだ。
「「「おはようございます。母上」」」
「おはよう。私の娘達」
一斉に挨拶をした姉妹に応えたその声は、随分と透き通る女性の声だった。
心に直接入ってくるような、透明な声。
それを聞いた途端、少年の心臓が早鐘のように煩くなる。
姿を見てさえいないのに、畏敬の念を抱くべき存在だと、なぜだか理解できてしまっていた。
「相も変わらず、ザクロがいませんね」
「はい……。申し訳ございません、母上」
声の主が三女の不在を指摘すると、ミカンが申し訳なさそうに声を絞り出した。
「結構ですよ、ミカン。今にはじまったことではありませんから。それより──」
言いさして、次の音は少年に注がれる。
「そこの者、顔を上げなさい」
神の言葉に従って、少年はゆっくりと顔を上げた。
「よい日和です。よき縁が起こりましたね」
目の前に立つ女は、顔の上半分を白布で覆って目元を隠し、美しい紅い唇からは緩やかな笑みを湛えていた。
姉妹と同じ死装束のような純白の着物を纏い、腰まで伸ばした黒髪が灯籠の光に照らされて淡く輝いている。
その立ち姿を目にした途端、少年は思わず上げたばかりの頭を垂れたくなった。
──神様だ。品があり格がある、超常の存在だ。
広陵な土地で、堂々と雲を貫き佇む大山。
力強く谷底へと流れ、飛沫を上げる大滝。
生命の源である、視界を埋め尽くす大海。
それら圧倒的な自然物に抱く感動に似ている。
目の前に立つ香梨紅子という存在が、人の形をしているということに少年は打ち震えた。
同じ生命とは思えない。これほどの存在が、自分と同じ地面を歩く命なのか?
きっと違う。あまりに格が違う。命の価値が違いすぎる。
なぜ、一目見ただけでこのような気持ちになるのか。
なぜ、称賛の言葉が次から次へと頭の中を駆け巡るのか。
なぜだ、なぜだ、と頭を巡らす。
自分の中に湧き立つ畏敬の念は、本当に自分で考えていることなのか。
まるで自分の中にもう一人いるような、そんな感覚に支配されている。
そんな困惑で頭を満たしていると、香梨紅子が優雅な所作で膝を曲げ、少年と視線を合わせた。
「よいよい。脈動は十四、肉と膜も良好。健康的な少年ですね」
言いながら、両手をするりと少年の喉元に伸ばす。
「ふむ……」
少年の毛深い喉元に触れ、胸元を押し、大きな口を開けさせ舌の色を見る。
淀みなく肉体を触診し、念入りに検めると、満足気に口元を緩めた。
「花も骨も健康です。耳は大きくとも聴力は人よりやや良いくらい。音の響きを胸で聞き、腑に落とす子ですね。他者の感情が流れ込みやすく、また気が落ちやすい。しかし左右の骨の均整が良い。立ち直りもはやいでしょう」
まるで医者か占い師のようなことを言い、少年の頬を撫でて立ち上がった。
「心があって肉体があるのではなく、肉体という〝土〟から生じるのが、心という〝花〟である。それが我が羅神教の教えです。あなたの悩みも肉と骨から生まれる花なのです。どうかここで健やかに過ごし、良き花を育てなさい」
──認められた。
触れられた時点で絶対の人権を手に入れたような気になったが、言葉でも自分の存在を認めてくれた。
「ありがとうございますッ」
少年は喜びに打ち震えて、深く頭を垂れて感謝する。
頭の片隅で「なぜだなぜだ」と反芻させていた言葉は跡形もなく消え去る。
この僅かな時間で、少年はすっかり心を掌握されていた。
「お待ちください、母上」
しかし、一部始終を冷ややかに見ていたカリンが、顔を上げて横槍を入れる。
「さきほど報告させて頂きましたが、その者は鮮花を開けないと言うのです。羅刹となった身で花が開けない、そんなことがありうるのでしょうか?」
「あるのでしょう。大輪を咲かせる花ほど、芽吹きが遅いことも」
香梨紅子がそれだけ言うと、カリンは深々と頭を下げ、それ以上喋ることはなかった。
娘といえど、ここでは神の意向が絶対なのだろう。釣られて少年もまた深く頭を下げた。
「名を思い出せないそうですね」
「はい。申し訳ございません。今朝起床した際、すべてが抜け落ちておりました」
「そうですか。名も記憶も肉の一部ですからね。その身を大きく変えれば、抜け落ちるのも致し方ありません。名を与えれば、あなたの花も咲くようになるかもしれませんね」
香梨紅子は改めて目の前の獣を見下ろし、
「では、これからあなたは『ネズミ』と名乗りなさい」
そう告げた。
見たままの姿、獣の形そのままの名前。
人間に『人間』と名づける者がいるだろうか。
ありえない。名前として、あってはならない。
しかし、ネズミ本人は感動し、眼球からとめどなく涙が溢れ出す。
「ありがとうッ、ございます!」
嗚咽混じりに頭を垂れて、深く地に額を擦り付ける。
なんとありがたいことだ。人は人の親から名前を貰うが、神から名前を貰える者がどれだけいようか。
居場所も貰った上に、名まで頂戴してしまった。この身は一体、どれほどに恵まれているのか。
認められた感謝が内側から全能感を沸き起こし、ネズミに痺れるほどの快楽に包み込む。
だが、そんな幸福な時間も束の間、突如として隣から怒声が響いた。
「母上ッ、その名ではあまりにも! ただの獣の分類ではありませんか!」
声を張り上げて、反感を示したのは次女ミカンだった。
「名付け直しをッ、せめて人の名を!」
香梨紅子の前に進み出て、両手をつき、頭を伏して決死の懇願。
だが、神は目の前で下げられた娘の頭を歯牙にも掛けなかった。
「ネズミには後日、してほしい仕事があります。追って仔細をお伝えします」
「母上ェ!」
ミカンの咆哮が空気を切り裂いた。
その声が社の岩壁に反響し、辺りがのしかかるような重い沈黙に包まれる。
「どうかご再考をッ、あなたの庇護下に入るということは、彼は私たちの弟に……家族になるのです! せめて私たちと同様に、果実の名をお与えください!」
血走る眼で母を睨み据えて、さらに語勢を強めて要求する。
だが、その願いは──。
「変わりはありませんよ。あなたがいくら駄々を捏ねようともね」
菓子を欲しがる子供を嗜めるような口振りで、ミカンの懇願を一蹴した。
──まずい。
焦ったのは横で見ていた渦中のネズミだ。
ミカンの相貌が激烈な怒りに染まり出し、額に木の根のような血管が次々と浮き始める。
可愛い弟が出来たと愛いらしくはしゃいでいた唇からは、獲物を前にした狼のような唸り声が漏れ出していた。
「あなたはいつもいつもいつもッ!」
そう叫ぶと、腰を浮かせて臨戦態勢に入った。
この後は手に取るようにわかる。ミカンが香梨紅子に飛び掛かる──。
その直後だ。
ぱちん、と香梨紅子が一つ柏手を打った。
乾いた音が強制的に皆の意識に瞬き、室内に駆け巡る残響が止むまで、皆が呼吸さえ控えていた。
「ミカン、母の意向に沿えますね?」
問われると、ミカンは糸が切れた人形のようにその場に膝を折った。
「失礼しました、母上。お言葉のままに……致します……」
ミカンはゆっくりと項垂れるように頭を下げ、綺麗に指を揃えて平伏した。
あれほど憤怒を露わにしていたというのに、あっけなく従うその姿勢にネズミは驚愕する。
何が起こったのだ、と頭に浮かべた疑問は、次の言葉で即座に塗りつぶされる。
「ネズミ」
香梨紅子に名を呼ばれると、胸中に悦の波紋が拡がった。
脳内に打たれた疑問符をあっけなく握り潰し、ネズミは主人の足音を聞いた犬のように顔を上げる。
「はいッ 何ででしょうか!?」
「あなたに教育係を手配します。気になったことがあればその者にお聞きなさい」
「はいッ、ご配慮、感謝致します!」
「良い子ですね。ネズミ」
神にまた名を呼ばれて、ネズミは更に胸を高鳴らせる。
──ネズミ。憤慨するような名前ではない。輝くような、誇らしい名前だ。
なぜミカンはあんなに憤っていたのか? 不思議でならない。
神から名を貰えた。それだけでネズミは踊り出したいほど歓喜しているというのに。
──ネズミ、ネズミ、ネズミ。愛嬌のある、愛される名前だ。
与えられた名の響きを頭の中で反芻し、ネズミは余韻に浸って悦に沈み続ける。
神の立ち姿を思い描き、自分を抱擁してくれている妄想で頭を満たす。
今しがた起きた剣呑とした出来事が、霞のようにネズミの中から消えてゆく。
「それでは、私はこれより瞑想に入ります。決して奥ノ院に立ち入らぬように」
そうして香梨紅子がネズミの横を通り過ぎ、社の奥へと向かう途中だった。
やってしまった。ネズミは失敗した。
香梨紅子の足元にふわりと自身の長い尻尾が滑り込み、神の左足に絡みついたのだ。
「はて?」
時間が停止した。ネズミの尻尾に捕まって、香梨紅子は首を傾げる。
「ネズミ、これはどういうことでしょうか?」
咎めているのか、単純に聞いているだけなのか、なんとも読み取れない声音だった。
「も、も、申し訳ありませんッ、紅子様! まだ尻尾の扱いに慣れていなく!」
緊張を解くのが早かったのだろうか? 筋肉の痙攣だろうか?
名を授かった喜びで気が緩んでしまい、尻尾を動かしてしまったのだろうか?
頭を混乱させながらも、ネズミの尻尾はより強く、ぐるりと香梨紅子の足に巻き付いた。
神が目の前から立ち去るのを名残惜しいと、潜在意識で思ったのだろうか?
すぐに尻尾を解かなくてはと、立ち上がりかけたそのとき。
「ふむ。そうですか」
香梨紅子が袖口を整える程度に腕を払った。
すると一陣の風と共に、ぷつり。ネズミの尻の先から嫌な音が鳴った。
「ァ──ッ」
それが自分の尻尾が切り飛ばされた音だと気がついたのは、生暖かい赤い飛沫が顔に噴きつけてからだった。
空中をくるくる舞う尻尾を目で追って、ネズミは感嘆の呼気を漏らした。
自分に名を与えた神は、腕を払うだけで骨と肉を切り飛ばせるのかと。
どさりと重々しく、地に打ち付けられた尻尾を見届け、ネズミは神に深く頭を垂れる。
「本当に、申し訳ございませんでした」
今日、この姿になったばかりだ。自分の尻に生える尻尾なんて特に思い入れもない。
悲しいなんて気持ちにはならない。むしろこれで贖罪になるのだろうかと不安になった。
「あなたは『失う』という尊さをその身で知りました。ネズミ、より良い精進を」
「はい。感謝致します……」
口から謝辞が衝いて出たが、『失う尊さ』という意味に理解が及ばない。
自分は名も居場所も与えられたじゃないか。むしろ、得たものの尊さの方が勝っている。
コツコツと神が暗闇へと歩み出す。その音と一緒に、尻の根元がズキズキと痛んだ。
そうして、立ち去る神の背中に向かって深く首を垂れていると、隣でミカンの歯噛みする音が聞こえた。
──自分の血が付いてしまったのだろうか? 不快な思いさせてしまった。
「ごめんなさい」
絞り出すような声で謝ったのはミカンの方だった。
それを聞いて、慌ててネズミも謝ろうと立ち上がると、視界がぐらりと歪に曲がる。
「はれ? あれれ?」
血を流したせいだろうか、今日一日中気を張り続けたせいだろうか。
ひどく頭が重くなり膝が崩れ折れる。冷たい床が頬に当たり、自分が倒れているのだと自覚した。
「──丈夫!?──!」
「──かん──、─血──たん──」
「──、──母上の──」
慌てふためく姉妹たちが何やら言い合っている。
『───ズミ─ん、 手──』
鼓膜まで動きが鈍くなっている。目も、瞬きをする度に瞼が重く閉じていく。
「大丈……ぶ……眠い……だけ……です」
口の筋肉をなんとか動かしてそれだけ言うと、ネズミはゆっくりと意識を閉じた。