第二八話 酒樽
四半刻後──。
大きな酒樽の蓋を開けて、タカオが言うのだ。
「これで、ネズミ様と私で社内部へ潜入しましょう」
土蔵の地下道から帰還し、モモと打ち合わせを終えた一向は、早速それぞれの持ち場についていた。
今頃、ザクロとモモは人目を憚りながら、神輿に乗ってくる絡舞紀伊を迎え撃つため、とある妓楼の屋根の上で待機しているはずだ。
別行動を取るネズミとタカオはというと、とある品々に紛れて絡舞の大社へと潜入する算段となっている。
「俺の身体入るかな……」
飛燕楼の敷地内、その土蔵の前に一台の牛車が停まっていた。
前方にはたくましい雄牛が鼻息を鳴らし、荷台にはたんまりと積まれた貢物の数々。
なんでも千歳祭の祝宴のため、飛燕楼は絡舞紀伊に献上する品々を用意していたとのこと。
それら貢物の中に紛れ、タカオと通じている協力者と共に大社に潜入し、灰神トオルの討滅を果たすのがネズミとタカオの役割だ。
「ぉぉぉぉぉぉッ」
「ネズミ様、もう少し息をお吐きになられて!」
「ぐうううう!」
ネズミは大きな酒樽の中にぐいぐいと押し込まれてゆく。足を小さく折りたたみ、背中もできるだけ丸く丸く団子にし、タカオが上からのしかかって樽の中にネズミの全身をなんとか収納する。
「ど、どうでしょうか?」
「早くしてくれないと頭おかしくなって死んじゃいます……」
最悪な居心地にネズミは焦燥に駆られた。肉体を深く曲げているせいか、腹が圧迫されて息苦しい。このまま長く時を過ごせば、閉所恐怖症となってもおかしくはない。もっと大きな酒樽はなかったものか。
「すみません……くっ……これ以上に大きい樽は……流石に怪しまれてしまうので……」
「笑ってません?」
「そんなぁ……まさかぁ……」
タカオの震える声音に、ネズミはじとりと抗議の視線を送った。
酒樽を見下ろすタカオからは、さぞ面白い光景が広がっているのだろう。
樽の中で灰色の毛玉がびっしりと埋まっているのだから。
「タカオ」
そこで、一つ声がかけられる。初老の男性と思しき低い声音だった。
「ああ、お父さん」
タカオがしとりとそう呼んだ。樽の中に収まるネズミには見えないが、察するに飛燕楼の楼主だろう。此度のの潜入計画の協力者であると聞かされている。
「死ぬんじゃねえぞ? トオルがいなくなって、お前までいなくなっちまったら、俺は……」
「心配しないで。死ぬつもりはないよ。ネズミ様も一緒だから」
「そうか……羅刹の覚悟に口出しするほど野暮じゃねえが……」
一つ間をおいて、樽の中で団子と化したネズミに声がかけられる。
「ネズミ様。俺ぁ、こいつらを絡舞様に預けたのを後悔してんだ。長年、あれを神として崇めてきたが、娘同然のトオルの命を奪われたんじゃ話は別よ」
「え、今? この状態の俺に話しかけてます?」
「羅刹同士の諍いに、人間は口を挟めねえ。けれど、俺は悔しくてしょうがねえよ。トオルが灰神になっちまったのも、このまま絡舞様がのうのうと生きてんのも」
「で、ですよね」
後にしてくれとも言えない話に、ネズミはたまらず樽の中から這い出る。すると、ネズミの視界に壮年の男がおさまる。
歳の頃は六〇代ほど。黒髪と白髪に彩られた頭部に、緩やかな目尻の皺。温和な雰囲気であるが、眼光はどこか鋭く、歴戦の商人としての風格を纏っていた。
「あんたは、立派な羅刹様なんだろ? そうであってくれねえと困んだよ」
その場で直立するネズミを見てどう思ったのか。珍妙な出立を頼りないとでも思われたか。楼主は縋るようにネズミの両肩に手を乗せた。
ゴツゴツとした男の大きな手に威圧され、ネズミは緊張のあまり硬直する。
「すごいかどうかは……なんともアレなんですが……頑張らせて頂こうかと」
「また生きてタカオをと会わせてくれよ。じゃねえと俺はこいつらの母親に申し訳ねえよ」
楼主の双眸が悲壮を込めてネズミの心を打つ。
タカオとトオルを産んだ母親は、飛燕楼で一番の遊女であり、病でこの世を去ったと聞いている。助けてやれなかったのを今でも悔やんでいるのか、楼主のタカオとトオルに対する思い入れは相当なものだ。お父さんと呼ばせているのを見ると、第二の保護者のような存在なのだろう。
「お父さん、安心して。ネズミ様はすごい羅刹なんだから。モモ様と同じ香梨の里、暮梨村からきたんだよ」
タカオが言うと、楼主は「そうか」と少し安堵したような顔をする。
「香梨紅子……悪道に堕ちた羅刹百人を切り伏せた伝説の羅神様だ。その養子となれば、安心してタカオを預けられるか……」
千歳町の大門の前でもそんなウワサを耳にした。
あの神は若い頃、外界でとんでもない活躍をしていたようで、この町でも語種のようだ。
「が、がんばります……」
なんとか楼主を安心させようとネズミは口にするも、ひどく看板が重い。
安易に香梨とか言わないでほしい。過剰な期待をされてしまう。
何より、その香梨から逃走している身であるというのに。
「ネズミ様よ、どんだけ暴れても良い。尻拭いは俺がする。だから、タカオだけは頼むぞ」
「はいぃ……」
絞り出すような息を吐きながら、ネズミは精一杯首肯した。
すると、楼主が気合を入れるように、ネズミの丸い肩を強く叩いて喝を入れる。
その気持ちを汲み取って、ネズミは言葉を重ねず、ただただ強く頷いて見せた。
「十分だ。よし、それじゃ行くか」
楼主の掛け声に弾かれて、ネズミはタカオの助力を得て酒樽の闇へと押し戻る。タカオも急いでネズミの隣に置かれた酒樽の中に身を隠すと、間もなく牛車が動き出した。
狭苦しい暗闇の中、コトリコトリと車輪の回る音が響き、断続的にネズミの尻が浮く。
楼主の思いを受け取ったせいか、壁越しに聞こえる千歳町の喧騒が、炙りたてるような緊張を呼び起こす。心臓の拍動が内側から耳を打ち、じんじんとネズミの肉体を小さく揺らした。
──きっとなんとかなる。
心からそう呟き、ネズミは手の中に収まる翁火九乱の鮮花をそっと両手で包み込んだ。
ザクロも楼主も、随分と自分に大きなものを託してくれる。鮮花を使いこなせてもいないこの未熟者に。
されど、思いに応えると誓ってしまったのだ。
──なんとかするんだ。
そう、酒樽の暗闇の中で覚悟を決めていると、外からドンッと轟音が響く。
次には、パラパラと大豆を床に落としたような心地良い音が。
こっそり樽の蓋に隙間を作って外を伺えば、夜空いっぱいに鮮やかな光の花が咲いていた。
はじまったようだ。絡舞紀伊を祀る、花々しい祝祭が。




