第十七話 旅籠屋にて
ユウヒの物語──。
リンゴの愛読書であったその本は、盲目の女性が活躍する冒険活劇であったそうだ。
昼は三味線片手に町を巡り、流麗な演奏を披露して人々から投げ銭を稼ぎ、夜は悪党を次から次へと切り刻む剣客となって人々を救う女傑となる。主人公ユウヒはそんな登場人物だそうだ。
「特に決め台詞があってさ。昔、リンゴはよく真似てたよ。確か──」
『あんたら羅生界の糸へ返したるさかい、背筋正してかかってこんかい』
そんな台詞を嬉々として口にし、幼いリンゴはザクロ達とチャンバラに明け暮れたそうだ。
宿に向かう道中、ザクロが存分に語る最中、ネズミはつい口元が緩んでしまう。
あの妖艶な色香を振り撒くリンゴにも、そんな可愛らしい時期があったのかと。
──早く会いたいなぁ。
もし、万物商の店主が見たユウヒなる人物がリンゴで間違いないと仮定するのであれば、ミカンも共にいるということだろうか。
ネズミはそのミカンに関して気がかりなことがあった。
「髪の色だけで言えばリンゴさんよりミカンさんの方が人の目を引きそうだよね? 二人が一緒ならミカンさんの目撃情報があっても良くない?」
あの山吹色の艶髪を、誰が見逃すのかとネズミが疑問を口にすると、ザクロが首を回して空に浮かぶ雲に視線を移す。
「別行動を取ってるのかもしれないな。リンゴ姉もミカン姉も追手を放たれてると想定して動いてるはずだ。出来るだけ目立たないように行動してるだろうし、最悪、移動し続けてる可能性もある」
「もし、そうだとしたら大変すぎるなぁ……」
ネズミはげんなり背筋を丸める。リンゴが書いたであろう文が、カリンの用意した虚偽の情報であったと知った時点で覚悟はしていたが。
ここ千歳町で有力な情報を手に入れなければ、これから片っ端からあらゆる人里を巡り、二人の残した痕跡を血眼になって探すことになるだろう。それは想定していた以上に骨が折れる。広大な大和大陸を何処まで駆けずり回らないとならないのか。
なんとか楽できないものかとネズミもザクロも思考を回すも、即座に良い案など思いつかなかった。
そうして、二人してとぼとぼ歩いていると、ミチユキが合流場所に指定した旅籠屋に到着する。
やや古びた佇まいの三階建ての建物だ。緑明館と書かれた看板は、経年劣化でやや黒ずんでいた。
「すいませーん」
ネズミが一声かけて戸板を滑らせると、若葉色の着物に襷をかけた四十代半ばの女性が出迎えてくれる。恐らくこの旅籠屋の女将だろう。顔に吹き付けるように散ったそばかすが可愛らしい。
「あ、ああ……ミチユキさんのお連れの方?」
「はい、そうです」
ミチユキが既に話を通しておいてくれたのか、女将は即座に察して朗らかに笑んでくれた。
「三階の角部屋でミチユキさんがお待ちです。ご案内しましょう」
先導する女将の後ろに付き、ネズミとザクロは短い廊下を渡って階段に足をかける。
「話には聞いてましたが、お二人とも随分と愛らしいですね」
「えへへ、ありがとうございます」
照れくささに頭を掻きながら、ネズミは愛嬌を乗せて笑って見せる。
背後を歩くザクロを横目で確認してみれば、同じように頭を掻いていた。
「千歳町にはどれくらい滞在しますか?」
「残念ですが、明日には出立しようと思ってます」
「まあ、じゃあせめて夕餉は美味しいものを振る舞わないとですね」
そんなこと言い、女将が腕を捲るように見せてネズミ達に微笑んでくれる。
優しく愛嬌のある人だ。ミチユキが懇意にしているだけある。
「何か食べたいものはございますか?」
「うーん、何かオススメとかありますか?」
「じゃあ、こんなものはいかがでしょうか?」
ネズミが階段を上がり切った瞬間、女将が突然、転ぶようにネズミの胸に飛び込んだ。
平たい板間の上で躓くことがあるのか。あまりの突飛な行動に訳もわからず、咄嗟にネズミは女将の身体を受け止めると。
「何して──」
とつっと、いっそ可愛らしい音が立ったのは、そのときだった。
直立するネズミと女将の間に、湿り気が伝う。
赤だ。羅刹となってから見慣れた赤色だ。
自分の赤も、ザクロの赤も、暮梨村にいた頃に散々と見た。
灰色の体毛に伝う雫が、じんわりと裾野を拡げてゆく。
そして、遅れてやってくる酷烈な痛みに、ネズミは背を折り曲げる。
「ガァアッ──」
苦しむネズミを逃すまいと、女将はしかりと出刃包丁を握り、ネズミの腹に深々とその刀身を沈めている。
何故だ。何故、突然に刺突されなければならないのか。焦燥で全身が強張る。
刺された腹の肉が収縮して、刃物がいっそう食い込んでくる。
ネズミが頭を混乱させ、嗚咽を漏らして尻餅をつくと、
「ネズミ!」
事態を把握したザクロの行動は早かった。
女将を突き飛ばし、ネズミを庇うように前へ肉体を滑り込ませる。
そして太刀を抜き放って、倒れた女将に切先を鋭く向けた。
「テメエッ、どういうつもりだ!」
転倒した女将は答えない。虚な眼で床を一転に見つめるばかり。
まるで役目を終えた人形のようであった。
「大丈夫か!」
女将に刀を構えながらも、ザクロはネズミに横目を配る。
ネズミは浅い呼気を繰り返し、定まらない視点を自身の腹に移す。
「ああ……これは……」
その沈み込んだ包丁の深さに驚愕する。刀身が丸ごとすっぽりとネズミの腹に埋まり、残すところは取手の部分のみだ。
躊躇いがない。凄まじい勢いだった。正常な人間であれば、燃えるような憎悪を抱こうが、糸を引くような嫉妬を抱こうが、他者を攻撃するとなれば、多少の躊躇はあるはずだ。
女将の刺突にそれがなかった。刀身がすべて埋まってしまうような刺突など、人間業じゃない。人の感情を全く感じない、無機質な殺意だ。
心当たりが一つある。人間を無機質なものに変える少女が一人いる。
「カリンだ……」
ザクロが口にしたその答えが、殊更にネズミの焦燥を起こす。
「ここに……ごっッ……いる……んだ……」
咳をしながら喋ると、余計に腹が痛んだ。その有様を見てはいられないと、ザクロは屈み込んで、ネズミの腹に生えた取手をゆっくり掴む。
「参、弍、壱で引き抜くぞ。参、弍──」
壱と、出刃包丁がネズミの腹から一気に引き抜かれる。
ネズミは燃えるような痛みに一瞬悶絶するも、傷痕が即座に回復の火花を散らすと、瞬く間に痛みも引いてゆき、混濁した思考も一気に手元に引き寄せられる。
モモに半殺しにされ、脚を奪われたはずのカリンがここにいる。
その事実に唖然としていると、ネズミは視界の端で捉える。
「まずいッ、ザクロ後ろだ!」
屈んだザクロの背後で襖が開き、小袖を纏う男が一人、打刀を大上段に振りかぶって詰めてくる。
「カッ──」
気合一発、ザクロは床に手をつき、背後に向かって踵を振り上げる。
その健脚が男の顎を打ち抜き、勢いそのままに振りかぶっていた打刀の柄に命中。弾かれた白刃がぐるりと回転して宿の天井に突き刺さった。
男は女将と同じく、床に崩れると虚な眼でぴくりとも動かなくなる。
「ミチユキ!」
ザクロは肉体を起こすネズミに肩を貸しながら、大声で呼びかける。
返事はない。三階に向かって安否を確認する他ない。
代わりにそこらの部屋の襖が開け放たれて、男が三人、虚な眼をネズミとザクロに向けてくる。
「くっそッ、宿の中にいる奴全員に能力を」
忌々しく舌を打ってザクロは着物の襟を整える。
そろりとにじり寄る男達は、皆が打刀や短刀を抜き放っていた。
「ネズミ、加減しろよ……」
ザクロが刀の峰を男達に向けながら、ネズミにぽつりと告げる。
「わかってる。痛みさえ与えれば良いんだよね」
ネズミがそう言い終わるか否か、男達はぐらりと体軸を揺らして、二人の元へ殺到する。
右から詰める男が袈裟斬りに振るった刀を、ザクロが刀を前へ掲げて受け止め、差し込むように足に蹴りを浴びせて転倒させる。
左から短刀を持って飛びかかった男に、ネズミは一気に間合いを吹き飛ばし、張り手を見舞って転がした。
「やばッ」
ザクロが一気に残った男に蹴りを浴びせていると、ネズミの背後、階段の下から男が二人、刃物を携えて駆けてくる。
「すんませーん!」
ネズミは謝罪を口にしながら、先手を打って男達の顔面に前蹴りを当ててやると、派手に階段を転げ落ちてゆく。
怪我はないか。頭を強く打ってはいないだろうか。配慮しながら立ち回るのは、戦い慣れていないネズミにとっては難しい。
「いいっ、今はミチユキだ!」
ネズミが階段を転がった男達に手を合わせていると、ザクロが背を叩いて上を指し示す。
現在地は二階の廊下だ。もう一度階段を上がればミチユキがいるであろう三階の角部屋に辿り着ける。
階段を駆け上り、三階の板間に足をつけると、荒々しく周囲の襖が開け放たれる。
計ったように姿を現した男が四人、その中の一人の顔に、ネズミは見覚えがあった。
「あんた……暮梨村の……」
矍鑠とした老爺だった。幅の広い肩に、袖を捲った太い腕。吊り上がった覇気のある双眸。
ネズミは思わず驚愕し、後退りする。自分が暮梨村で抱擁法の修行中に押し倒し、殺しかけてしまった老人だ。
何故、暮梨村の住人が千歳町にいるのか。何故、当然のように打刀を引っ提げて佇んでいるのか。
「ネズミ様にザクロ様、お久方ぶりにございます」
老爺は真っ直ぐと背筋を伸ばして一礼する。その様子を見るに、カリンに使役されているわけではない。双眸にも光が宿っている。
「カリン様がお待ちでございます」
言って、老爺がその大きな肉体を横に避けると、開け放たれた角部屋の中がよく見える。
最初に見えたのはミチユキだ。およそ八畳ほど部屋の中、使役の花に絡め取られているのか、虚な眼で座布団に正座している。
問題はその隣だ。二十代と思しき見知らぬ女が、短刀をミチユキの首に当てながら虚な眼を畳に落としていた。
「やあ、久しぶり」
部屋の端で声がした。まるで天女のような声であるのに、溢れ出すような憎悪を込めた低声であった。
襖の影からするりと姿を現した、行燈の光のような金色の髪。その下についた晴天を思わせる青い双眸が、廊下に佇む二人を睨み据える。
「驚いてもらえたかな? その間抜けな顔を見れただけで仕掛けた甲斐があったというものだ」
「カリン……」




