第七話 さよなら三鷹村
なだらかな山間から陽光が差して、三鷹村の麦畑を黄金に染める。
北から流れる穏やかな風が、稲の香りを巻き上げ、ネズミとザクロの鼻腔をくすぐった。
「良い村だったな」
髪を風に靡かせて、ザクロがめいっぱいに伸びをした。
「そうだね……」
背後に立つネズミは思わず見惚れてしまう。いつも喧しいザクロが、輝く麦畑を哀愁漂う表情で見つめるその立姿は、絵に残しておきたいほどに幽玄で神秘的な光景だ。
ここ一ヶ月、旅路を共にしていた間、ザクロのこんな瞬間を何度となく見逃してきたのかもしれない。思う存分に白米を腹の中に詰め込んで心に余裕を持てたおかげか、今、それに気がつくことができた。
ネズミは深く肝に命じる。米の不足は心の飢餓だ。周りの景色に心を配る余裕も無くなる。これからの旅路は、常に米を供給できる地盤が必要になってくるだろう。
そんな思考をネズミが回していると、ザクロの彫刻刀で掘ったようなぱっきりと開いた眼がこちらに向けられる。
「私、マジで調子良いぞ。布団と飯ってのは偉大だな」
ザクロが肩を回し、その場で飛び跳ねて見せると、ネズミは盛大に拍手を送った。
最近、朝は特に気だるげにしていたが、現在の顔色は、快調と言って良いほどに仄かな赤みを差している。
だとしたら、鮮花の引力がどうのなど関係なく、ろくな食事と睡眠が取れなかった精神的な不調だったのかもしれない。
「元気になって何よりだよ」
追われる身の上ではあるが、寝食を疎かにしてはいけないのだ。ネズミはますますの学びを得て、自身の鼻の左右に伸びた長いヒゲを撫でつける。
「もう米俵と布団を担いで旅しようよ」
「布団はともかく、飯ならしばらく苦労しなさそうだな」
ザクロの綺麗な顎の線が、ネズミの背後を指し示す。
そこには、土で汚れた蹄を備えた太い脚が四本、それらが支える見事な肉付きの黒光りする胴体、幅広い頭蓋骨の脇に生える優雅な弧を描いた角。
そう、牛だ。名は〈ハナコ〉と言う。三鷹村で長らく可愛がれてきた立派な黒毛和種だ。
村長が二人の前にハナコを連れてきた時は、朝っぱらからなんと豪勢な献立なのかと目を輝かせたものだが、残念ながらハナコは食用じゃない。名前がついている時点で気がつくべきだった。
「お待たせしました。荷を積み終わりましたので、お二人ともよろしくお願い致します」
村長が目尻の皺を一層と濃くして呼びかけると、ネズミもザクロも膝を地に着けそうになった。
「あのババア、中々に良い根性してるな。良い村長だよ、ほんとに」
ザクロがいっそ笑えてくると、肩を揺らして積まれた荷物の山を見上げる。
ハナコの太い胴体に繋がれた大きな大八車。その荷台に乗った米俵の山。その上に申し訳程度に置かれた小さな木箱の数々。これからハナコと多くの荷物と共に千歳町に行く羽目になってしまった。
半刻前のことだ。二人が千歳町に向かって「いざ出発」と脇目も振らずに走り出そうとしたところ、
『後生ですからッ、お待ち下さいませ!』
そんな声が背後から聞こえて、つい足を止めてしまった。
致し方なし、もうどうにでもなれ。と村長に事情を聞くと、どうやら千歳町に納品する荷物の警護を二人に頼みたいと言う。
なんでも人里から人里へと荷を送るとき、羅刹が警護に付くのが世の常であるとか。
山には獰猛な獣がヨダレを垂らし、飢えた山賊が刃を研いで潜んでいる。運が悪ければ、悪道に道を踏み外した羅刹が、荷物を奪いに来るかもしれない。
故に、そんな者たちから荷物を守るため、信頼できる羅刹に警備を頼むのだとか。
『ま、仕方ない』
自分にできることがあるなら役に立ちたい。そんなネズミの心根を目敏く見据えた村長は、手の空いている村人を呼んで、荷物を次から次へと荷車に積んで行った次第だ。
昨日は捨て置くことが出来ずに灰神狩りに繰り出してしまったが、力を示したのがまずかった。頼れる者であるという信頼の証が、米俵四俵と木箱に入った陶芸品の数々になってネズミたちの眼前に聳え立っている。
「よろしくお願いしますッ、行商を営んでいるミチユキです! これからお二人様と同行させて頂きます」
威勢よくネズミたちの前で頭を下げる一人の青年に、ネズミは胸を撫で下ろす。
人が良さそうだ。おっとりと眉尻が垂れた面がどこか気弱そうに見えるが、重い荷の積み下ろしで鍛え上げられた引き締まった前腕が、なんとも頼り甲斐のある覇気を纏っている。
それに、何やら格好が洒落ている。青藍の首巻に黒い牛皮の長靴を履くその姿は、田舎でやや浮いてしまうほどに都会的な装いだ。
「よろしくお願いします、ミチユキさん」
「よろしくー」
ネズミたちがミチユキと握手を交わすのを見届けると、村長が威嚇するフグのように膨れた風呂敷を差し出してきた。
「こちら、是非ともお受け取りください」
「え、ありがとうございます!」
どうやら炎の灰神を討滅した謝礼らしい。
早速、中身を検分すれば、二人が催促した物品が詰まっていた。
「醤油に塩。お、これ味噌か。米も四日分くらいあるな」
ザクロがほっこりと相貌を輝かせ、麻袋に入った塩に指を突っ込む。
その傍で、ネズミは風呂敷の端に寝ている分厚い封筒を手に取った。
「これって……」
「少しばかりですが、どうかお納め下さい」
村長が申し訳なさそうにするその品は、長方形の札束と、銅と銀で出来た円形の物体。これは紛うことなき、貨幣というものだ。
人間社会に悪しき煩悩を招くとして、暮梨村では禁止されていた。
その禁忌物が今、ネズミの手に握られている。
ネズミは息を呑んで札束を観察すると、行書体で書かれた漢字の羅列の中央に一万圓と表記してある。それが、五〇枚の束になっているということは、五〇万圓の大金を手にしたことになる。
「おいおい、マジかよ……触っていいのか? 具合悪くなったりしてないか?」
ザクロがネズミの肩越しから恐る恐る顔を覗かせて、指先でつんっと札束に触れる。
まるで生まれて初めて炎を見る猿のような反応だ。
「いや、これは物々交換券だ。呪物じゃないよ」
つるっとネズミは舌を転がすと、途端に頭に霞がかかる。
「ネズミ、お前、金を知ってるのか?」
知っている。自分はこの物体を知っているし、使った覚えがある気がした。
「知ってる……なんか知ってる気がしてる……」
「じゃあ、お前は元は暮梨村の生まれじゃないのか? 外からやってきたのか?」
「わからない……」
なんとも名状し難い感触が胸の中に吹き溜まる。この金というものは、良い気分にも嫌な気分にもさせてくる、噛み癖の激しい猫のようなものだとネズミは曖昧にも認識している。
何にしても、自分が金を知っているということは、ザクロの言うとおり、暮梨村の外からやってきた人間なのかもしれない。
──ああ、相変わらず、思い出そうとすると気色悪くなる。
ネズミは掌底で自身の頭部を叩く。暮梨村で目覚めてからずっとそうだ。相も変わらず思い出せもしない。見たことがあるものは何となく認識出来るが、それに繋がる過去の導線を辿ろうとすると、途端に頭の中に霞がかかる。
そんな自分に腹が煮え、苛立ちでつい歯噛みする。生きたまま狭い棺桶に閉じ込められている気分だ。
「だ、大丈夫でしょうか? 何か気に触るようなことでも……」
「あッ、いえいえ、大丈夫ですよ」
心配する村長に、ネズミは面を上げ、努めて朗らかに応える。
「ありがとうございます。大事に使わせていただきます」
言って、ネズミは風呂敷の中に封筒を仕舞い込む。
そうですか、と村長は納得しかねる顔をした後、何かを噛み締めるように首肯した。
「事情がお有りであることは、初めてお会いした時から察しておりました。何の荷物も持たず、太刀の一本を引っ提げて訪れてきたのです。止むに止まれぬ事情があると」
「わお、ちゃっかり怪しまれてた」
わざとらしくネズミが驚いて見せると、村長は口元を手で抑えて微笑む。
「そんなあなた方に甘えて、灰神様の討滅に、荷物の警護と、押し付けるだけ押し付けてしまいました」
至らぬ私めをお笑い下さい。と村長が肩を竦めると、ザクロは相貌が引き締めて村長の下がった肩を掴んだ。
「いいや、押し付けるだけ押し付けろ。私ら羅刹がどんなに迷惑そうな面をしてても、当然のように押し付けていけ。羅刹は降りかかる困難を乗りこなす者だ。全てを背負って悠然と立つのが羅刹の矜持だ」
それが羅刹に生まれた責務だと、ザクロは胸を張って言う。
その思考は己か彩李か。どちらにせよ村長の心を軽くしようと努める、優しい言の葉だ。
「あ、でもな──」
言いさして、ザクロは村長の眼前に人差し指を立てた。
「やばい羅刹もいる。ぶっちゃけ、私らはそのやばいもんに追われてる」
「なんと……」
「金髪と桃髪の女どもが来たら、私らは千歳町に向かったと伝えてくれ。嘘をついて庇う必要はない。それと、何かを要求されたら素直に差し出せ、反抗すれば余計に厄介だからな?」
ザクロは村長の視線を真芯に捉え、慎重に念押しする。
「要求されると言っても、恐らく微々たるものだ。そいつらは私らを追っているだけだから、村の物を根こそぎ奪われるなんてことはない。元から他者の財産に興味のない奴らだから」
「左様でございますか。わかりました。もし、その様な羅刹様がお見えになった時は、言う通りに対応させて頂きます」
村長が了承すると、ザクロは満足気に頷く。
伝えるべきことは伝えたと、ネズミの背を叩いて歩き出すと、行商人ミチユキが準備してくれていたのか、牛車の荷台の後方、わずかに余った空間に座布団が二枚、綺麗に並べられていた。
二人がその座布団に腰をかけると、ミチユキがハナコの背を叩き、ゆっくりと車輪が回ってゆく。
「お世話になりました!」
ネズミが快活に礼を言うと、見送りに来た村民が惜しむように手を振ってくれた。
「また来ような」
右手でザクロがそんなことを呟くと、ネズミは丸い背中を伸ばして深く息を吸う。
そんな日が来ると良い。ネズミは心からそう願うのだった。




