第五五話 秘する花
「ああ……、こうなりましたか」
ところは香梨大社、その奥乃院。
いつも静寂である神の自室で、耳心地の悪い音が立っていた。
ぎちぎちと首の皮を締め上げる、息苦しい音が。
「「オカアサンヲ、ユルシテ」」
死した肉体を突き破って生える、無数の白い花々。
腐敗した白濁の眼球が、香梨紅子をねっとりと見据え、甘やかな花の香りを漂わせる。
「なるほど、あなたが裏でネズミを手助けしていましたか」
すっかり騙された。と香梨紅子は自身の首を締め上げる女の手を力無く撫で付けた。
そして、自身の行いを嘲笑する。自分の身から分け与えた花が、自分を枯らしにきたのだから。
『ただ殺すには惜しい』
そんな気まぐれから、紅子は三人の罪人に自分の鮮花の花弁を分け与えた。
一人目は、人間であったネズミに。
二人目は、ネズミの母親に。
三人目は、ネズミの母親を孕ませた浮気男に。
通常、鮮花を食らった人間は、三日と経たず灰神へと転化する。
現に浮気男とネズミの母親は、あっけなく灰神に転化した。
『ダッコシテ』とうわ言のように呟く浮気男の灰神は、彩李に始末するように命じておいた。
しかし、母親の方は忽然と姿をくらましていた。
どこに隠れていたか? それは──。
「あなたの鮮花は〈秘匿の花〉ですね。息子の肉体の中に……潜んでいましたか……死してもなお、息子に匿ってもらうとは……なんとも醜い花でしょうか……」
侮蔑を口にすると、一層と力強く首を締め上げられた。
「「オカアサンヲ、ユルシテ」」
この母親は、生前、息子のすべてを奪っておいて、灰神となるや否や、自身の〈秘匿の花〉を行使し、息子の肉体の中に自身の身を秘匿したのだ。
そして、せめてもの息子への贖罪だったのだろう。
新しい人生を与えるため、村にいるすべての者から自分達の記憶を秘匿。
辛い思い出を消し去れるように、息子の記憶もすべて秘匿した。
ネズミの鮮花が開かなかったのも、この母親が秘匿していたせいなのかと、紅子はわずかに考えるも、そうではない。
ネズミの鮮花は最初から開いていた。
この母親がチウチウと鳴るネズミの花の音を。
能力の発動を悟られぬように、こっそり隠していたのだ。
カリンの使役能力に抵抗して叫んでいたのも、紅子の支配の糸から自身と姉妹を解き放ったのも、ネズミの鮮花の強大な支配力のなせる技。
モモの刀が砕けてしまった現象も、炎を吸い込んだときに見せた現象も、ネズミの能力の真価が発揮された結果だ。
ネズミの能力は──〈生編の花〉
紅子と同じ類の能力であるが、行使できる場所は限定されている。
触れた生物を自在に変化させる紅子の〈生変の花〉に対し、ネズミの〈生編の花〉は、ネズミ自身の体内に限定して肉体を編集する能力だ。
恐らく、唾液や血液を介して能力を編んでいる。
モモの刀を嚙み砕いた現象は、自身の口内にサメのような幾重にも重なるノコギリ状の牙を生やし、無数の凹凸を作り上げて刀身を削り折った結果だ。
炎を喰らう生物に自身を変化させたのは、長く炎に身を晒して肉体の中で抗体を編み、炎そのものを空気か食料とする生物に、肉体を編集したのだろう。
──生命そのものですね。
生きとし生けるものは、環境に順応するために肉体を編集し続けている。
花に擬態する虫がいるように、毒を持つ生物を喰らう獣がいるように。
長く生存するための進化を、この星に生きる生命は重ね続けてきた。
恐らく獣の肉体となったのも、神の正しさに縛られる人間の有り様から自身を解き放って生き残るためだ。
ネズミは心から欲したのだろう。神から逃れるための脚を。抵抗するための牙を。
「そして、最後はこの私ですか」
ネズミは祈った、ザクロの幸福を。その祈りに応じて生編の花は大きな音を立てた。
故に、花が少女の幸福を脅かす存在を排除しに来たのだ。
「流石は我が身から産まれた花です……随分と器用なこと……」
その原理は、紅子が灰神となった伊紙彩李を意のままに操っていた所業とほぼ同じだ。
ネズミの生編の花は、体内に潜むネズミの母親を自分の意のままに動く灰神へと編集し、強大な支配の糸で操って、紅子の元に刺客として送り込んだのだ。
これは見事なしっぺ返しだ。やはり素晴らしい、と紅子は感嘆する。
鮮花は強い鮮花を取り込めば、自身の花をより強大なものに成長させることができる。
だから欲しかったのだ。神をも噛み殺してしまえる、末恐ろしい窮鼠の花が。
「「ユルシテ オカアサン ヲ」」
しかし、叶わぬ願いだった。香梨紅子の意識が掠れて遠のいてゆく。
この女に首を絞められていると、花の開き方を忘れてしまう。リンゴとミカンを相手に立ち回っていたときも、秘匿の花の効能により紅子の鮮花は封じられていたが──。
「……これは……参りましたね……」
袖から衣擦れの音を立てて、紅子の腕は糸が切れた人形のように床を叩く。
秘匿の花もまた、紅子から生まれた強大な能力なのだ。故に、今は肉体の動かし方さえ忘れてしまった。指一本さえ動かすことができないのだ。
灰神の腐った相貌を見つめて、紅子は思い至る。
「ああ……そうですね……そういえば、私の花の音も、鳴ってはいませんでしたね」
ネズミの花の音が秘匿されたように、その花の親である紅子の音も秘匿されていた。
どうして気がつかなかったのか。その違和感さえ秘匿されていたのか。
「怖かったから……私の花の音も隠したのですか……?」
言うと、灰神の肉体が小刻みに震える。その反応を紅子は肯定と受け取った。
自身を灰神にした紅子の鮮花が、恐ろしくてしょうがなかったのだ。
だから、息子にも聞かせまいと秘匿していた。
「「オカアサンヲ……ユルシテ……」」
灰神は呟くと、恐怖を振り払うように頭を振った。
そして次の瞬間には、腐った肉体がみるみる変化する。
紅子の首を絞める両手から灰色の体毛が伸び、口からは火花を散らして鋭利な牙が飛び出した。
頭部から断続的に鈍く籠った音を立てながら、その形状が前へ前へと伸びてゆく。
そして次第に体毛が全身に生え揃い、大きな耳まで生えてきた。
その姿はまるで──ネズミだ。
「親子揃って、まあ」
生編の花の末恐ろしい効能だ。神への恐怖を捨てさせるために、人の肉体から解き放ってしまうとは。
この母親はネズミの体内に長く留まっていたのだ。生編の花の能力を浴び続け、既に獣と化していたのだろう。
「「オカアサン……ヲ……ユルシテ……」」
大きな口から溢れる、悲願の声。その声に紅子は緩やかに微笑む。
わずかな月日とはいえ、散々と戯れに興じていた。
最後だけは羅神らしく、ささやかな救済をしても良い。
「許されていましたよ。あなたの寂しさに気がづけなかったと、あなたの息子は最後まで後悔していました」
か細い低声を板間に這わせて、紅子の視界は暗く覆われてゆく。
かろうじて映る最後の光景は、徐々に灰となってヒビ割れてゆく獣の肉体だった。
死した肉体で陰ながら息子を支え続けていたのだ。共に潮時なのだろう。
されど、その獣の相貌はどこか安堵の色を滲ませていた。
「秘すれば花、おもしろきも花なり……」
香梨紅子の声音が透き通るように響き渡ると。
灰で汚れた二つの蓮の花が、そっと床に転がった。




