第五四話 伊紙彩李
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──紅子様。もう、充分、お戯れになったでしょう?
獄炎に焼かれるネズミとザクロの背後で、香梨紅子は身の内で響いた声に耳を傾ける。
その嗄れ、諭すような声音は、肉体の元の主、伊紙彩李の声だ。
「あなたも呆れ果てるほどにしぶといですね。死してもなお、心を枯らさないとは」
──ネズミ様の渾身の体当たり、その一撃で叩き起こされました。
「なるほど。あのとき既に、この肉体の支配をネズミに握られていましたか」
──まことに素晴らしき花です。紅子様の支配の糸を解き、自分の支配の糸を結んでしまうとは。ホホホ、あなた様が夢中になるのもわかりますな。
老婆は腹の底から快活に笑う。
思い返せば、この老婆はいつも笑っていた。
紅子が気まぐれを起こせば、いつでも潰えてしまう命だと言うのに。
それを自覚しながらも、朗らかに笑って過ごしていたのだ。
──哀れで醜い老人の最後です。最後のひとときを、譲っては頂けませんか?
老婆の切なる懇願、その響きに紅子は目を細める。
「ネズミの支配下にいるのですから、私に許可を得ずともやるのでしょう?」
──私の信仰は、あなた様に。浅ましくも、あなた様の赦しを得たいのです。
その言葉に、紅子は思わず口元を綻ばせる。
顎を太刀で割られてから、紅子の熱心な信者となった風変わりな老婆だ。
どれほど冷たくあしらおうと、執念深く働き続けていた執着の花だ。
ネズミがその花に水をやったのだろう。支配の糸によって曲げられた、神に従う狂信者ではない。出会った頃の、本来の風変わりな老婆に戻っているような気がしたのだ。
「選択の余地はなさそうですね」
燃え続ける少年と少女を視界に収めて、紅子は嘆きの呼気を漏らした。
手に入れるために労を尽くしたというのに、このまま燃え尽きてしまうなら是非もなし。
身の内から出た花弁の一枚が、大輪の花に芽吹いてくれたのだから。
どうしたって、少年の花を失うのは、あまりに惜しい。
「ネズミの花を開きなさい。なんとしてでも」
神から信者へ、最後の神命。
信者から神への、最後の忠誠。
──かしこまりました。
彩李は死した肉体を折り曲げて、最後の頭を、神に垂れた。
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「ァアアアアアッ」
業火に焼かれながら抱き合う少年と少女は、互いの命の灯火を聞いていた。
密着した肉体から伝わる互いの鼓動の音。
それが唯一、口も目も焼かれてしまった二人の最後の会話だった。
腕に力が入らないんだ──腕の神経を焼き切られたんだろう。
膝を立てるのをやめそうだ──膝の皿も燃え尽きたんだ。
口が閉じれなくて、熱い──じきに熱さも感じなくなる。
最早、意味をなさない悲痛の交換会。その最中に、背中に違和感が走った。
何か背中に当てられている──魂の出口ができたんだろう。
そして、それは突如として。
「ぁ──」
全身を襲う永久と思われた酷い痛みが、田水を引くように徐々に取り払われていくのだ。
「ネズミ様、よくお聞きなさい」
嗄れた低い声、背中に伝わる筋張った手の感触。
ネズミは即座に理解する。背後にいるのは伊紙彩李、本人だ。
「紅子様が、最後の刻を私に譲ってくださった。時間がありません。一度しか言わないので、よくお聞きなさい」
首の肉も燃えていて動かせているかどうかは定かではないが、ネズミはなんとか首肯する。
「不安は未来から、あなたの耳にしとりと囁く。怒りは過去から、あなたの腹を指で突く。では、不安と怒りの根底にある、〈祈り〉は何処か?」
わからない。痛みはなくとも全身が燃えている。
全身を焦がす焦燥で、頭が回るはずもない。
「あなたの祈りは今、ここ、現在にある。祈りとは積み重ねた過去によって編まれ、未来に手を伸ばす心でございます。すべてを変えることができる、唯一の花にございます」
ネズミは首を横に振った。
わからない。この状況を打破する手があるなら、早く教えてほしい。
「あなたの花は、苦しみを超えた先、今の有様に縛られない、幸福を祈る花にございます。あなたは何を祈りますか?」
「なに……を……」
この身を獣に変えてから、人並みの幸福を。
どうか惨めな思いをしないようにと願った。
ザクロと心から語らったとき、強く望んだ。
自分を誇れる明日が欲しいと。
しかし、今は。
手を握ってくれた人が、言葉かけてくれた人が、どうか幸福でありますように。
思い、想い、念う。彩李の言葉に従って、思考の花をネズミは咲かせる。
──ザクロがどうか、生きて、幸福でありますように。
少女を優しく抱き寄せて、少年は強く祈った。
「この身が朽ちようと、どうかこの少女だけは。ザクロだけは……。泣いている俺の背に手を差し伸べてくれたこの子が、幸福でありますように」
そう口にすると、とんっと背中を一つ、押された気がした。
「美しい祈りでございます。美しい祈りには、花も咲かずにはおれますまい」
その声に応えるように、ネズミの喉から音が鳴る。
チウチウチウ、と花開く。
途端、ネズミの視界は糸の世界──羅生界に包まれた。
炎がゆらり揺らめいて、その身を細い糸に変えてゆく。
身を焦がす炎が、視界を覆う熱が、手で掴めてしまいそうな糸束になる。
「ああ……誠に美しき……花の音でございました……」
彩李の溢れるような感嘆。
それに応えるように、ザクロとネズミの肉体から炎が渦を巻いて剥がれてゆく。
肉を焼く紅蓮が、臓腑を焼く獄炎が、唸りを上げて、ある一点を目指した。
口だ。ネズミの口の中に、炎が渦巻いて吸い込まれてゆくのだ。
「素晴らしい……炎を食らう獣になられた……流石は紅子様から生まれた至高の花。生物としての在り方にさえ縛られないとは……」
彩李の言葉を証明するように、紅蓮は蛇のようにその身を細く長く捻って、螺旋を描く炎の渦となり、一気にネズミの喉奥に収束する。
そして、すべての炎を身の内に収めると、ネズミの鼓膜に痛いほどの夜の静寂が鳴る。
「──ッ」
瞑目する少女の健全な心臓の拍動が、少年の身体に伝わってくる。
少女の掠れた声が響き、火傷一つない白き美しい手が瞠目する少年の頬に触れる。
「ネズミ……」
「ザクロ……」
意識を朦朧とさせながら、互いに呼び合い、その無事を確認し合った。
頬に触れ、額に触れ、残り火はないか、背中を摩る。
二人でホっと安堵の息をついて、老婆に視線を移した。
「彩李さん……ありがとう……」
ネズミが礼を言うと、背後で老婆が微笑む。
「他者の幸福を望むとき、自らの幸福を手放してはなりませんよ」
ネズミの祈り、それを少しだけ咎めるような響き。
そして、彩李の肉体はぽろぽろと黒い灰となって崩れてゆく。
「ザクロ様に、お伝えください。使命に捉われるあまり、あなたの気持ちを蔑ろにしたと」
「彩李……私は……ここにいるぞ……」
ネズミに抱かれながら、ザクロは彩李の手を握った。
ここにいる。ここにいるからと、声をかけるも──。
彩李の耳はすでに、灰となって崩れ去ってしまっていた。
「あなたを愛していた。彩李は、ザクロ様と共に過ごせて、幸福であったと」
「ぁぁ──」
ザクロの頬に透明な涙が溢れた。
「私も、お前といれて──」
口にすると、彩李の手が崩れて、ザクロの手を黒く汚した。
少女の唇が震え、次の言葉が音にならなかった。
「どうか、ネズミ様。お伝えください……」
「絶対に……お伝え……いたします」
ネズミが声にならない声で答えると、老婆の形をした灰は崩れ去った。
ひらひらと地面に降り積もり、一輪の白い花を残して、沈黙する。
「あぁ……彩李……」
聞いたことは、何度かあった。
楽しいか、幸せかと。
最後に答えてくれた。
私も、楽しかった。お前が笑うと、幸せだった。
少女の泣く声が、彩李の花をゆらり揺らした。




