第五三話 衝動
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地に崩れ落ちた馬体に刃を突き入れながら、ザクロは涙を流していた。
「ごめんな……」
頭を優しく撫で、その命に謝罪する。
生まれてすぐに闘争に巻き込まれ、生まれてすぐに命を絶たれる。
母と自分の理不尽な行いに、少女は心の底から謝罪した。
「私が弱いせいだ……。お前の脚が怖くて、今はこうすることしか思いつかないんだ。私を、許さなくていいからな……」
震える声音を漏らし、より深く白刃を馬体に沈める。
すると、その口から悲痛に染まった慟哭が上がる。
じきにゆっくりと緞帳を降ろすように青鹿毛の眼が閉じてゆく。
掻き乱すように動いていた脚も、その動きを緩やかに停止した。
「ごめん……」
やがてザクロは立ち上がり、涙を溜めた双眸を、佇む香梨紅子に向けた。
「母上、もうやめましょう……その肉体も、満身創痍だ」
視線の先、香梨紅子の両手は老婆のように筋張り、乾いたものに変わっていた。
肉体の生命力が老化となって現れ、じきに動かなくなる兆候を見せている。
ただでさえ死体である身だ。生命力など底が知れている。
「そちらも、逃げる脚がないのでは?」
言われて、ザクロは背後を振り返る。
「きゅぅ…………」
ネズミが体当たりをした体勢をそのままに、木に頭をぶつけて気絶している。
これでは逃げるにしても、ネズミを背負いながら樹海を泳がなければならない。
「それに、毒の効果も切れていますね」
ザクロの痙攣する両手を、紅子は冷淡に指し示す。
羽虫の毒によって酷使した肉体は限界を迎えていた。
膝も震え、力も入らず、立っているのもやっとだ。
「おっしゃる通りです。なので、勝負はお預けということで如何か?」
「なりません。母はまだ戦えますよ?」
「頑固ババアが──ッ」
冷めた熱を手繰り寄せて、ザクロは地を蹴り上げた。
不意を狙った突貫。震える足を強引に動かし、香梨紅子の間合いに突入する。
「らぁあああ!」
二つの刃が重なり、桜舞い散る木下で激しく火花が散った。
更に一合、二合、三合と切り結び、視線と殺気を飛ばし合う。
「シッ」
香梨紅子の放つ一閃が鋭く喉元を狙う。
その一撃を身体を捻って避けながら、ザクロは紅子の足に目がけて下段に刀を振るった。
「──はッ?」
避けない。一切の避ける動作もなく、ザクロの刀は見事に香梨紅子の足に命中する。
だが、切り落とせない。鉄を刀で叩いたかと思わせるほど、その皮膚は硬い。
「生足じゃない!? 何だこれ!?」
「皮膚の硬質化です。母の能力を忘れましたか? 生物の変質変化でこの通りに」
次の瞬間、硬い足から鋭い蹴り放たれ、ザクロの顔面を凶襲する。
辛うじて義手で防御するも、全身に走る衝撃でザクロの肉体は後ろに大きく弾き飛ばされた。
「くっそッ!」
ザクロはなんとか猫のように身体を捻って着地する。
そして、体勢を整えて刀を構え直すも、額に焦燥の汗が滲む。
「はっ……はっ……」
短い呼吸と共に、義手と皮膚の接合部からだらりと血液を流れ出る。
毒の副作用で、次第に力が入らなくなってきた。
加速した身体能力、その清算を肉体が求めているのだ。
──このままじゃダメだ。刃が通らないんじゃ部が悪すぎる。なんとか時間稼ぎをして、あっちの肉体の限界を待つか……いや、私が動けなくなるのが先か?
冷たい汗を背中に伝わせて、ザクロは思いつく限りの策を巡らせた。
しかし、浮かんだすべてが決め手に欠ける。母はあまりに手札が多い。
「毎回、母上は新しいことしてきますね。うんざりするのでやめて頂きたい」
「秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず。芸事の基本です。新しき、珍しきを常に保有してこそ、秀でた達人となるのです」
「突貫一辺倒ですみませんね!」
「次は、こちらから」
香梨紅子は冷笑し、強化された膂力を持って地を蹴り上げて迫り来る。
瞬きも許さない一瞬、間合いが消し飛び、互いの刃圏に突入すると。
目にも止まらぬ袈裟斬りが咲き誇った。
「ガァッ!」
刃を受け止めて、ザクロは慄く。
自分と同程度の小柄な死体が、恐ろしく重い攻撃が飛んできた。
腕の痺れに呻きを上げるザクロに構わず、香梨紅子の連撃は容赦なく続く。
上、中、下段と、変則的に打ち分けてくる縦横無尽の攻撃。
その常軌を逸した剣の冴えに、たまらずザクロは後退──ならず。
いつの間にか、胸ぐらを掴まれている。
しかも逆の手で刀の切っ先を立てて。
「さようなら」
母から容赦なく放たれる、ザクロの首元を目掛けた連続の刺突。
「ヤバッ」
それを首の皮一枚で交わし続ける。
煌めく切先を避け、喉元を狙う殺意をかわす。
「オオオオオオオッ!」
かわして、避けて、かわして、避けて。
止まることを知らない母の刺突の雨あられ。
その怒涛の攻撃に、ザクロは鍛え抜かれた危機回避能力を発揮する。
異常な動体視力で刃の軌道を見切り、最低限の動きで切先を交わし続ける。
「死んでたまるかァア!」
追い詰められながらも、ザクロはカチカチと鮮花を開く。
即座に、義手から羽虫たちが勢いよく飛び出して、一斉に香梨紅子の身に殺到する。
「こざかしいですね」
舌を打った紅子は、一匹、二匹と太刀を振るって羽虫を両断して、ザクロの着物から手を離す。
「ふうッ」
解放されたザクロは弾むように五歩下がって安堵する。
何とか生き延びた。次の策に頭を回さねば。
そう、息を吐いて刀を構え直すも、
「ふふふ……」
紅子の不可解な態度に肉体が硬直する。
正対する死体が、構えを解いて緩やかに微笑しているのだ。
しもも、太刀を鞘に収め、頬に手を当てて含んで笑い続ける。
その姿はまるで、戦いは終わったとでも言っているようだった。
「何してる? 何がおかしい?」
「いえ、気づかれないものだなと、思いましてね」
「は──?」
「さきほど、一本取られたお返しです」
言うと、笑う死体は、酒宴を仕切る幹事のように手を合わせた。
「存分に、ご堪能あれ」
乾いた音を立てて鳴らされた両手。
その左手の、中指がない。
──自分で切り落とした? なぜ?
ザクロが疑問符を打って身構えると、胸元に鋭い痛みが襲う。
「な──ッ?」
血色のない白魚のような中指。
それが、ザクロの左乳房の上に突き刺さり、打ち上げられた魚のように踊っている。
一瞬、あまりのことに呆けていると──。
突き刺さった中指が身をくねらせ、ザクロの身体の奥へ奥へ入ろうとしてくる。
あまりの気色悪さに青ざめ、急いで引き抜こうとするも。
ザクロの手から逃れるように、すっぽりと、身体の中へ入ってしまった。
その次の瞬間──ザクロの胸から炎が吹き上がった。
「アアアアアアアアアアアアアアアアァ!」
身の内から吹き上がる炎に包まれて、ザクロは痛哭を打ち上げた。
胸から始まった人体発火、それは爆発的に裾野を拡げてザクロの全身を類焼させる。
胸から腹、腹から足へ、滝のように炎が下り、それらを払おうとした両手からも炎が吹き出し。
腕から肩、肩から顔を、あっという間に紅蓮の衣が包み込む。
通常の人間ならば、既に気絶して意識を閉じ、その身は焼き尽くされ死亡している。
しかし、母から与えられた回復力で、ザクロの肉体は燃えた端から火花を散らして回復する。
それは死ぬことより酷い、痛みと絶望の連鎖だった。
「アアッアアアッ、アアアアアアアア!!」
ザクロは地面をのたうち回り、悲鳴を打ち上げる。
体を擦り付けて鎮火を試みようが、その炎は肉体の内側から吹き出しているのだ。
すべての足掻きが無意味に果ててしまう。
──殺してくれ。
心が折れるのは早かった。いくらザクロの精神が強くとも、永延と続く獄炎の責苦に耐えられるはずもなく。
──頼む、殺してくれ。
「コロセエエエエエッ」
喉から、眼球から、口から、灼熱の炎を吹いて母に懇願した。
「ああ、堪え性がない。いつまでも我慢を覚えられない、仕様のない子ですね」
紅子は呆れるように嘆息して、炎を纏うザクロの顔面に鋭い蹴りを入れて転倒させる。
「流石に、人体発火は生命力を削られる。この肉体も限界ですね」
仰向けになった視界、その端で、ザクロは見てしまった。
目の前の女の肉体が、たちまちに老化して、その正体を露わにする。
刻み込まれたような顔の皺、猫のように曲がった背筋。
そして、経年で黒くなった、顎に刻まれた古い刀傷。
伊紙彩李だ。
灰神となった伊神彩李が、梅干しのような相貌を凶暴に歪めて、ザクロを見下ろし笑っている。
「こういう時のために生かしておいたのですから、存分に役に立ってもらいましたよ」
彩李は香梨紅子に敗れてもなお、首と胴を繋げたまま気まぐれに生かされていた存在だ。
その命の灯火は、神の匙加減でいつでも自由に吹き消せた。
しかし、それでも紅子を深く崇拝し、神の娘達の教育係を熱心に行ってきた。
そんな粉骨砕身の働きを見せていたのにも関わらず、その献身を一顧だにされていなかった。
「散り際は実に哀れでした。あなたを許してくれと、泣いて懇願しておりました。見るに耐えない、汚らしい老婆でしたね」
「外道ガアアアアアアアッ!」
全身を覆う炎をそのままに、ザクロは怒りの咆哮を上げた。
──最後に、せめて彩李を楽に。
腹から沸き起こる爆発的な憎悪で奮い立ち、眼前の肉体に掴み掛かる。
しかし、いとも簡単に手を払われ、膝裏に鋭い蹴りをもらい、あえなく地に崩れ落ちてしまった。
「惜しいですね。私を羽虫で刺した時点で勝負は決していたというのに。もう少し逃走を続けられていれば、崩れていたのはこの肉体の方であったのに」
吐いた言葉を証明するように、彩李の左手が徐々に黒い灰となって崩れてゆく。
「私に一矢報いたかったですか? 欲をかいて、追い詰められましたねぇ」
笑う、笑う、死した老婆の肉体を借りて、香梨紅子が咲って、嗤う。
ひとしきり肩を揺らし、眼前に咲き続ける紅蓮の炎を見据え、紅子は太刀を上段に構えた。
「最後に、鮮花を摘出しておきましょうか。村に来られても迷惑ですから」
永遠と思われるザクロの焼失と復元の連鎖。その無間地獄にも果てはある。
炎が血液を焼き尽くしてしまえば、ザクロは灰神に成り果て、歩く屍となってこの世に厄災となる。
「では──」
香梨紅子は崩れる肉体に最後の力を込めて、ザクロの首に狙いを定めた。
「さようなら、我が娘よ」
素早く振るった太刀が、吹き付けるように赤い雫を散らした。
周囲の草木が紅に染まり、次には娘の生首が転がる。
母と子の決定的な決別。
そうは、ならなかった。
「ぐぅうううううううううッ」
鳴り響くのはネズミの苦悶の喘ぎ。
母が振るった白刃は、少年の背中を切り裂き、娘の首には届かなかった。
ネズミが燃えるザクロに覆いかぶさり、その懐に抱え込むのだ。
「アァアアア──ッ!!」
ザクロが纏う炎がネズミの体毛に燃え移ってしまう。
それは間もなく、全身を覆う火柱となって、ネズミを地獄へ引き摺り込んだ。
「がぁあああああああっ‼︎」
だが離さない。
少女の身を必死に抱き寄せ、少年は離さない。
「何をしているのですか?」
神に問われるも、答える余裕もなく。
全身から火花を散らしながら、ネズミもまた焼失と回復の地獄にその身を沈める。
「ザクロッ──!」
灰色の毛のすべてが焼き尽くされては生えてくる。
眼球の水分が焼け飛ばされては、体の内側から補充されてゆく。
少女の焼けた皮膚と自分の焼けた皮膚がへばり付き、一体化しては回復し分離する。
「離れなさい、ネズミ。そのままであなたまで」
「うるせぇえええ!」
あまりの痛みに、神を敬う念も燃やし尽くされ。
ザクロから噴き出す惨痛の責め苦が、ネズミを咆哮させる。
「こいつと共に逃げたんだッ、あんたに背を向けて、こいつと一緒に走ったんだ!」
幸福だった。
共に駆ける日々が何よりも。
少女が喚く言葉が、何よりも。
心地よかったのだ。
「なら最後までッ、走るときめたなら、最後まで!」
返したいのだ。受けた恩を、貰った真心を。
例え、この身が燃やし尽くされようと。
握られた手を、耳を打った言葉を、その気持ちを返したい。
願うことなら、返し続けたかったのだ。
少年がより強く少女を抱きしめると、炎が自身の内側を焼く。
臓腑を焼かれて絶叫し、口から止めどなく血が流れ落ちる。
こんなことに何の意味があるのか。ないのだろう。
ただの心中に他ならない。
それでも少年は動いてしまった。抱き寄せてしまった。
少女の悲鳴が、少年を暴挙に走らせた。
花の開き方など、まだ掴めていないというのに、無謀に手を染めてしまった。
また命の危機に自分の花が開いてなんとかなる。そんな期待を僅かに抱いてしまった。
当然、都合の良い期待は叶わなかった。
結果、ただ燃え尽きて死ぬ、哀れな末路だ。
だがしかし、後悔はない。地獄の責苦を受けようと、微塵もだ。
自身の弱さに、神に、頭を垂れ続ける自分が許せなかった。
傍観し続けることを、自身の花が許さなかった。
自分はどうしたって、自分の衝動から逃げられないのだ。
「アアアアアアアアッ!」
身の内から膨れ上がる業火に、ネズミの視界が奪われた。




