第五一話 羅生界を泳ぐ
目玉のような月に見つめられながら、獣が颯爽と駆け抜ける。
曇天を抜けたその先は、星々が彩る闇夜が広がっていた。
森はより一層と木々を群生させ、木の根が地面からせり出し、樹海と呼ぶにふさわしい様相を呈している。
「ザクロ! 大丈夫!?」
「大丈夫だ! 舐めんな!」
ひたすらに足場が悪い中、ネズミは四肢を躍動させて樹海を泳いでいた。
その背に跨るザクロは、なんとかネズミの首にしがみついている。
ネズミが地を踏んで肉体が弾む度、ザクロの身体は大きく揺さぶられる。
これは堪らないと、太腿でネズミの脇腹を挟んで身体を固定させ、上下に蛇行するようなネズミの背中に身体を密着させた。すると、また大きく跳躍されて肉体が剥がれ落ちそうになる。
──こいつ、容赦ねえな!
弾んで、弾けて、跳んで、飛んで。
まるで「これでも振り落とされないか?」と言われているような、無遠慮な疾走。走るの楽しくてしょうがないという、心が弾む躍動だ。
波打つネズミの筋肉を肌で感じながら、ザクロは好戦的な笑みを浮かべる。
そっちがその気ならと、より太腿でネズミの脇腹を締め上げ、下半身を固定する。
四つ足の動きに合わせて自分の腰を脱力させれば、ネズミの肉体が丸ごと自分の足になったような錯覚を起こせる。
「まだそんなもんか!? もっとはやく走れるんじゃないのか!」
「そんな無茶な!」
狼狽しつつも、ザクロの挑発にネズミはさらに速度を上げた。
すると、一気に空気の壁がザクロは後ろへ押し飛ばそうとする。
「のわぁああ!」
慌てて身体を屈めて、風の抵抗を最小限に留める。木の根がそこらに入り組んでいる足場で、視界がぼやけるほどの速度でネズミは駆けている。
四つ足だからでは説明にならない。香梨紅子の権能で身体能力が向上しているからというだけではない。
まるでどこを走ればいいのかわかっているような動きだ。
何十年もこの樹海を走っているような、そんな慣れた所作だ。
「ネズミ、お前には羅生界が見えてるのか……?」
✿
ネズミの目には〝糸〟が見えていた。
四つ足で走り始めてから、視界に映る周りの景色が一変していた。
一度、鮮花が咲いたときから、すでに兆しがあったのかもしれない。
──糸、糸、糸。
灰神の鮮花を食わされたときに見た光景。
あれが今は、以前よりはるか鮮明に見えるのだ。
己の前脚は、白い糸を束ねた人形のように見える。
背中に乗るザクロを見れば、糸が束ねて捻れて、少女の形を成していた。
周囲の木々も地面もまた、輝く細い糸が織りなす網目模様に変貌していく。
眼を開けようが、閉じようが、変わらぬ糸の交差する〝羅〟の世界。
香梨紅子は言っていた。
この世は〝羅〟で構成された蔵の世界であると。
糸を束ねて囲われた真実の世界であると。
鮮花の見ている景色を、自分には見えている。
神が悲蔵の世界と言った景色を、自分は走っている。
流れる白い糸が川のように流れて、自分に走る筋道を教えてくれている。
この白い川を走っていれば、転ぶことなく走っていられる。
夜空を仰げば、そこにもまた白い川が幾重にも渦巻いていた。
あれは恐らく、空気の流れのようなものだ。
かつては、生きている実感が希薄な、恐ろしい世界だと感じていた。
しかし今は、全能感を伴うほどに、心地の良い。
すべてが視界に捉えられる世界。
すべてが手に取れるような、色のない糸の世界。
すべてが簡単に鋏で切れてしまいそうな、脆い世界。
──ダメだ。
これではいけないとネズミは頭を振った。
すると、徐々に本来の色付く世界を取り戻した。
少し気を引き締めれば、ちゃんと元の世界を戻ってこられるようだ。
──よかった。
糸の世界に浸り続けていると、すべてが〝物〟に見えてしまう。
色のついた現実を見ていなければ、自分はきっと傲慢になる。
背中に跨るザクロの顔も、笑ってできた笑窪も、無機質な糸にしか見えなくなる。
糸の世界では、この笑顔を見ることができない──それが何より恐ろしかった。
✿
ネズミが倒木を避けるために大きく跳躍すると、ザクロもまた大きく揺さぶられた。
「フゥー! あっぶねえ!」
着地の衝撃で掛かった負荷にザクロが呻きを上げると、ネズミが僅かに視線を背後に移した。
「少しこの辺りで休もうか?」
「なんだ? 疲れたか?」
「いや、ザクロがさっきから疲れてそうだから」
「ああッ!? 疲れてねえし! 舐めんな!」
強がって見よせたが、ザクロの肉体には疲労の色が滲んでいた。
ネズミの背に跨って一刻は経過している。四足獣に跨るというのは、自分の足で走るより体力と神経が削られる。
慣れない動きへの対応に追われ続ければ、気力だって底をついてくる。
ネズミの言葉に甘えて少し休憩したいところだが、自身の負けん気と勝ち気な性根が邪魔をして、「休憩しよう」の一言が言えない。
何より、ネズミがあまりに楽しそうに走るものだから、止めるに忍びない。
ザクロが一層と気を引き締めて、ネズミの身体にしがみ付いていると──。
突如、背後で馬が嘶く音がした。
「野生の馬? かな?」
「いや、あり得ない。馬がこんな入り組んだ樹海に生息するなんてのは……」
二人が疑問を漂わせるなか、今度はずしりと重い低音が響く。
何かを踏みしだく音と、木々が折れる乾いた音。
それらが混じり合い、じわじわと、近づいてくるのだ。
「何の音──」
「やばいッ。もっと速度を上げろ。やばいのが来る」
ザクロはネズミの言葉を遮り、警戒の色を強くした。
その様子に何事かと、ネズミが背後を窺い見ると──。
何もいない。視界の限り、異変は見えず。
だが、鈍く、低い音が、確実に迫ってくる。
「何もいないけど!? 何の音これ!?」
「上だ……」
ザクロの言葉に、ネズミは後方の頭上へと視線を上げた。
その瞬間、影が見えた。巨大な、黒々とした影が。
枝の上を駆けている。荒々しく息を吐いて。
「──ッ‼︎」
馬だった。
馬が、馬が木の上を、枝を踏みしだき、駆けていた。
幹を蹴り、枝を蹴り、葉を落として跳躍している。
艶やかな青鹿毛の馬体が、まるで重力を無視するかのように、枝上を飛び移り、駆け回っていた。
その信じがたい光景に絶句し、二人は激しく狼狽した。
「ちょっと何あれぇええ!? 馬って木を渡る生き物だった?!」
「そんなわけあるか!」
荒々しく蹄を動かして、木の上を跳ねて弾ける黒い馬体。
その背中には── 一人の女が騎乗していた。
「誰だ……あれ……」
年の頃は十代後半、肩まで伸びた黒髪に死体のような白い肌。
その素肌からいくつもの花が、肌を突き破るように生えている。
周囲には黒い灰を舞い散らせ、むせ返るほどの甘い花の香りを放つ。
その異様な姿、間違いなく羅刹の死体──灰神だ。
「とんでもないもんが追ってきたな……」
ザクロは焦燥を露わにして口元に手を当てる。先程のネズミの状態は別にして、ザクロが見てきた灰神は、全身に蛆が沸き、頭部や肩の骨が見えるほどに全身を腐らせている者が大半だった。
しかし、それと比べると、騎乗している女の死体は綺麗なものだった。血痕一つ付着していない着物に、傷一つない生気のない肌。
恐らく、何者かに殺された後に着物を着せられ、馬に騎乗したことになる。
「灰神って、馬に乗れるくらい器用なの!?」
「無理だ。そんな器用な灰神は見たことも聞いたこともない」
「じゃあ──」
「絶対に、母上の能力だ。母上なら、灰神一つ動かしても不思議じゃない。あの馬だって、きっと母上が生み出した生物だ。そうじゃなきゃ、説明がつかない」
ネズミが蒼白になり、ザクロが息を呑んだ、その刹那――。
ひときわ低く、重く、圧し潰すような音が頭上から鳴り響いた。
「まずい! 避けろネズミ!」
ザクロの叫声に反応し、ネズミは本能ままに左に飛び退いた。
その瞬間、右隣で地を揺らすような衝撃が地面を盛大に抉り取る。
頭上を跳ねていた馬が突如として地上を落下。ネズミの肉体を狙って蹄を振り下ろしたのだ。
「「──ッ!」」
馬上の女と目が合った。
頬の肉だけを吊り上げた、怖気が走る歪な笑顔だ。
死体、間違いなく死体。生きている色を、温度を感じない。
しかも、よく見れば、腰に太刀を佩いている。
「唵、堕母羅尼、修羅秘理定業、恩、抱児羅尼、修羅秘儀胎蔵」
「な──!」
「ヒッ──!」
ザクロは仰天、ネズミは動転。
死体が朗々と羅神教の真言を唱えている。
「香梨花是諸法、羅蔵香律、不正不弱、不垢不浄、不増不減──」
「うわああああああッ」
ネズミは馬と真反対に飛び退き、全力で逃走する。
背に乗るザクロに気遣う余裕もなく、がむしゃらに、泣き叫ぶように地を蹴る。
「座石碑切来、宇羅忌娑婆訶、法花司切木、天羅日娑婆訶」
「怖いッ、怖すぎる!」
全身を粟立たせ、ネズミは地を蹴り続ける。
走って、跳んで、駆けて、ただただ逃げる。
しかし、逃げれど逃げれど、灰神との距離は一向に開かない。
むしろ、乾いた木々の悲鳴が、背後に這い寄る呪詛が、背後からじりじりと、確実に迫ってくる。
「ネズミ、落ち着け!」
「無理! 無理だ! 落ち着けるわけが──」
混乱するネズミが叫ぶのと同時に、馬の鋭い慟哭が真上で轟く。
身体中に悪寒が走り、ネズミは身を捩らせ、九十度の方向転換を試みた。
次の瞬間──。
馬の蹄が地面に落ちる。
ネズミの進もうとしていた、その先に。
「──ッ!」
大きな岩が落下したような衝撃と共に、土煙が盛大に立ち上がる。
パラパラと粉塵が降り積もる中、漆黒の馬体と騎乗する女が、悠然と進路を塞ぐ。
「おしいですね。もう少しで踏み砕けたものを」
喋った。呪詛ではない、明確な人の言葉。
その丁寧な口調に、透明な声音に、香梨紅子の影を見る。
「ネズミッ、動け!」
ザクロの一喝に、ネズミは弾かれたように動き出す。
塞がれた進路から飛び退き、身を翻して疾走する。
その背後──地面に降り立った馬体は、火花を散らしながら再び跳躍。
木を駆け上り、枝葉を渡り、懲りずにネズミを追走してくるのだ。
「ザザザザ、ザクロ!? あれあれって、べにべに──」
「母上だな。死体に自分の心を宿せたのか……ホントに、やりたい放題だ。心底嫌になる」
「そんな……」
ネズミが焦燥で身を焦がす中、ザクロは携えた刀を抜き放った。
「戦う気なの!?」
「向こうがやる気なら、やるしかない」
ザクロが背後を見やると、その視線に応えるように女も太刀を抜き放っていた。
そして、広葉樹の枝葉を利用して、ふいに視界から姿を消す。
その直後──乾いた音が、頭上で鳴り響いた。
「左に曲がれ!」
ザクロの指示通り、即座にネズミは左に進路を変更した。
次の瞬間、走るネズミの右側面で地面が爆ぜた。
派手に飛散した木片が吹き飛び、ネズミの顔とザクロの腕を切り裂く。
「ズア──ッ」
二人の傷は火花を散らして瞬時に回復する
だが、ネズミの体勢は大きく崩れてよろめいてしまう。
「オラァア!」
転倒しかけたネズミの背中を掴みながら、ザクロは近くの木を蹴ってその身を捻る。
傾いたネズミの身体に真反対の衝撃を加えることで、無理矢理に肉体の均整を取り戻させたのだ。
「ありがとう!」
「礼は後、気を抜く暇は」
なかった。
木の上を駆けていた馬体が大きく跳躍し、砲弾のようにザクロ目掛けて迫り狂う。
馬の体重を丸ごと乗せた香梨紅子の一刀が、ザクロの脳天を強襲。
「がァああああああ―――‼︎」
ザクロは咄嗟に刀を頭上に掲げ、その渾身の一撃を受け止めた。
下にいるネズミの四肢も、凄まじい衝撃で地にめり込む。
凄まじい圧力に崩れかけた寸前──。
ネズミは咆哮を上げて我が身を奮い立たせる。
「ッォオオオオオオ!」
自分の心と四肢に鞭を打ち、衝撃を押し返すように地を蹴り上げる。
全身が痛み、思考が朦朧とする。だが、ネズミはまだ走れる。
「今のやばかった! ザクロ、大丈夫!?」
「……大丈夫だ。あぶねえ、気絶しかけた」
ザクロは震える声で言いながら肩を回した。どうやら関節は無事なようだ。
太刀も折れてはない。あの凄烈な一撃を受けてもなお、刃こぼれ一つなく鋭利な輝きを保っている。流石は香梨紅子の愛刀だ。
だが、何度もあれを食らえば、いずれ崩れるのはこちらの方だ。
「次は、こっちから仕掛ける」




