第五〇話 贈り物
──なぜ、不閑却を破ったのか?
『戒めを破って、初めて俺は『生きている』という感触を味わうことができたのです』
──その心は?
『この村で過ごして、ひたすらに他者に与えるように教え込まれてきました。与えられない者は人間じゃない、神に愛されないと言われ続けました。だから、与えて、与えて、互いに与え続けた先、気がつけば自分だけのものが何もなかった。自分だけの、誇れるものが何もなかった。正しさの奴隷に過ぎないって、思ってしまったのです』
──あなたにはあなただけの肉体がある。思考の花がある。それで満足ではなかったと?
『できていたらよかったんです。満足していればよかった。でも、求めてしまった。他者に譲ることのできない自分だけの〝何か〟を。罪を背負って初めて自分だけの〝何か〟を手に入れた気がしたんです。それが……間違ったものだとわかっていても、手放すには惜しく感じました。だから、母をあなたの元に突き出すのは、気が進みませんでした』
──あなたを裏切った母に、怒りを感じたことは?
『この村には寂しさがあります。人と人とが会話をしているようでしていない。心を通わせている感触がないのです。他者を通して、神である紅子様……あなたを見ている。みんながあなただけを見ているんだ。あなたならどう考えるか、なにを思うか。みんながあなたの足元に近づきたくて、自分の足元が見えていない。頭上のあなたを追うばかりで、近くにいる者と芯から心を通わせていない。その寂しさに、母は囚われていたんです』
──それが、息子であるあなたを裏切る理由になると?
『父が川で溺死してから、俺が母の心の支えになるべきだった。父に託されていたにも関わらず、母の寂しさに気がつけなかった。俺も皆と同様に頭上ばかりを見上げていたのです。だから、裏切っていたのは俺の方なんです』
──母の裏切りに怨嗟を吐かず、罪を背負って生を実感し、私を前にして自我を手放さない。大変稀な思考の花です。あなたのような信者は初めてです。
『……ああ……なぜ、目玉を失った者がよく笑うのか、今、わかりました』
──その心は?
『あなたとの〝繋がり〟ができるからだ。あなたと自分だけの縁ができる。罪と罰という名の縁が……それが誇らしいからだ。あぁ……結局俺は、自分だけのものを手に入れた気になって、ずっと頭上を見上げていただけだ。罪を胸に抱いていると、あなたと深く繋がれている気がしていただけなんだ。なんて惨めなことか……』
──フフフ、おもしろき子ですね。鮮花も生えていないのに二つの心を彷徨わせている。
『とんだ勘違いだった……結局俺は何も手にしてなんかいない。足元が見えていないのは俺の方だ。これじゃあただの、餌を求めて穴に落ちた……惨めな窮鼠だ』
──良い日和です。良い縁が起こりました。あなただけの花《何か》を引き寄せる、良縁を起こしましょうね。
『紅子様……何を……』
──私もまた、手放すのを惜しく感じたのです。
『それは……』
──私の鮮花、その花弁です。これをあなたに移植します。
『……羅刹になれと、おっしゃるのですか?』
──さあ、あなたはどんな花を見せてくれますか?
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少年がまだ人間だった最後のひととき、その記憶を辿って紅子は微笑を浮かべた。
彼の思考の糸と糸、それが繋がっていく様がとても愉快で、思い出してはまた口元が緩む。
頭上の神を見上げて苦しんでいた少年が、神を崇める必要がなく、信仰に囚われる必要もなくなった〝獣〟に姿を変えたときは、どう楽しませてくれるか胸が高鳴ったものだが。
「まことに良き縁が起こりました。私の鮮花が伸ばしていた支配の糸を、見事に解いて見せた。自分だけではなく、他者の心根も獣に変えてしまうとは。誠に見事な花ですね」
天に雷鳴が轟く暮梨村の中央広場。そこは惨憺なる有様だった。
桜の大木がそこかしこに聳え立ち、雨風と共に花弁を辺りに振り巻いている。地面には数多くの凹凸と赤い血痕。リンゴとミカンとの戦闘の残滓が凄烈なまでに刻まれていた。
二人の姿はすでになく、代わりに香梨紅子の目の前には下げられた頭が二つ。
「申し訳ございません、母上。まさかこれほどの謀反を起こすとは……」
信者達が蜘蛛の子を散らすように立ち去った村の広間で、カリンとモモは憔悴しきった相貌を引っ提げ、香梨紅子に平伏していた。
それもそのはず、二人はネズミの鮮花の開花音が鳴り響いた後、ミカンに凄まじい一撃を貰って気絶していたのだ。
不意な襲撃に対応できなかった醜態、今の今ままで無様にノビていた恥辱で、頭を上げられずに項垂れているのだ。
「二人とも、顔を上げなさい。あなたちに非はありません。むしろ、その変わらぬ忠誠は、見事なものです」
香梨紅子の鮮花が結んでいた支配の糸。それをネズミに解かれてもなお、かろうじてモモとカリンの身に残っていたのだろう。故にこうして、以前と変わらず頭を垂れているのだ。
「それに、これは私自身が起こした戯れの結果です。責める気持ちなど微塵もありませんよ」
言うと、紅子は失った自身の右腕を見つめて、穏やかに口元を緩める。
次の瞬間には、バチバチと、激しく火花を散らして瞬時に右腕が復元し始めた。
「距離が離れたおかげか、私の鮮花もようやく開き方を思い出しましたね」
紅子は労わるように自身の首元に触れる。ネズミの花が開いてから、紅子の花は機能しなかった。故にリンゴとミカンの逃亡をあっけなく許してしまった。
ネズミの鮮花の支配力によるものなのか、それとも能力そのものの特性なのか。
やはり欲しい、と紅子は凶悪に唇を歪める。
「これを使って追わせましょう」
紅子は完全に復元した左腕で、地面に転がる〝これ〟を拾い上げた。
リンゴに斬り飛ばされた自身の右腕だ。それを宙に放ると、虚空に激しく火花が散る。
一本の神の左腕、それが徐々にその身を膨らませた。
「──!」
まるで紙風船に息を吹き込むように膨れ続ける。
次第に指は顔を形作り、手首は首を、肘の断面からは流麗な尾が生え揃った。
太く長い四肢、光を弾く蹄、白濁した鋭利な眼、究極に引き絞られた流線を描く背中の筋骨。
馬だ。一頭の馬が、神の腕から生まれ出で、ヒヒンと一つ嘶いた。
闇夜に溶ける青鹿毛、磨き抜かれた艶やかな馬体が稲光と共に地に足を着く。
走るために生まれたその生命に、神の起こした奇跡に、モモとカリンは瞠目した。
「なんでもできおる神と、そう思っちょったが……」
「まさか、これほど……」
馬は一つ身を震わせると、香梨紅子の元に歩んで甘えるように頭を下げる。
「さて、お次は……そうですね」
下げられた頭を撫で付けて、紅子は顎に手を当てて思考する。
次には柏手を打って視線を南方へ移した。
「今日まで生かしておいたのです。存分に役に立ってもらいましょうね」




