第四九話 嵐
それは桶をひっくり返したような豪雨だった。
稲光が瞬いて、身を竦ませるほどの轟音が轟き弾ける。
吹き荒ぶ暴風が、周囲の木々を揺らして葉を奪い去る。
頭上に渦巻く曇天は、一切の陽光を覆い隠し、森の中を暗闇に染め上げた。
そんな嵐渦巻く森の中、少年と少女はひたすらに前へ前へと泳ぎ続けていた。
「ネズミ! 大丈夫か!」
少女の声が、少年の背中を叩く。
少年はわずかに振り向いて、「大丈夫!」短く答える。
稲光が雨濡れの少女の姿を照らし出し、次には暗闇の中に轟音が響く。
自分は今、どんな顔をしているのだろうか。笑っているのか。泣いているのか。
背中を押され続け、駆け抜けて、どれほど経っただろうか?
左半身に生えた数々の花は、気がつけば全て肉体の中に引っ込んでいた。
そんな違和感さえ気にならないほどに、気分が軽やかだった。
とっくに三里の距離は走っている。走れている。
いつもは膝を折って蹲ってしまう、その向こう側に自分たちはいる。
「ははッ」
自然と笑みが漏れた。何に対して笑っているか。ネズミは自分でもよくわかっていない。
今は微塵も足を止めようと思わない。走るために生まれてきたとさえ思う。
暴風に煽られようと、飛んできた葉が頬の毛を切りつけようとも。
一切、歩を緩めることはない。
駆けて、走って、倒木を跳躍。進んで、進んで、進み続ける。
時折、心に隙間ができる。少女は付いてきているだろうか。
少年は気遣わしげに、後ろを振り向いた。
先程と変わらない、白い髪を振り乱して駆ける少女。
それが少し大きくなった気がした。
稲光が瞬くと、少女の顔が驚愕に染まっていた。
「ネズミ、お前……」
なぜ、そんな顔をするのか。なぜ自分は。
見下ろされているのか。
自分は今、どうやって走っているのか。
回らない頭で少年は〝前脚〟を見た。
ああ、前脚だ。これじゃあ、まるで──獣だ。
四つ足で駆けるなど、人の在り方ではない。獣じみた有り様だ。
手を地につけて走るなど、いっそ笑えてくる。
「人間、やめちゃったぁ」
「ネズミ……」
ほら、おかしいでしょ? と少年は少女に向けて手を広げ、同意を促した。
しかし、少女の顔は悲痛に歪むだけだった。
笑ってくれないのか。そう、少年は落胆した。
一緒に駆けていた日々は、共に笑ってくれていたというのに。
自分の花が開いてから、こんなにもおかしなことばかりだというのに。
笑え、笑え、笑え。
なぜ笑ってくれない。
笑え、笑え、笑え!
「この惨めな姿を見ろ! 笑え!」
口から衝いて出てしまった。
「あ、あ──」
初めて足が止まった。
「お、俺は、なんて──」
なんてことを言ってしまったのだろう。なぜ、そんなことを口走ったのか。
守られ、支えられ、道を作られた自分を情けなく感じたからか。
首を断たれそうになったあの時、情けなく蹲っていたからか。
自分が何もできなかったばかりに、少女に戒律を破らせてしまったからか。
花か、己か。
自責の念が溢れ出し、惨めに狼狽し、少女に八つ当たりをしてしまった。
姉妹と別れて辛いのは、少女の方だと言うのに。
自分の身から出た言葉に、思考に、少年は打ちひしがれる。
その身を起こして、二足で立つ。両の手は泥に塗れて汚れていた。
少女も足を止めて、自分を見つめていた。稲光で照らされた顔は。
やはり笑ってはない。
少年は顔を伏せた。次の言葉は謝罪だ。
「ごめんなさい」
その言葉は何に対してか。
少女の姉達を犠牲にして走っていたからか。
自分が生まれてしまったことか。
自分が支配の糸を引いてしまったからか。
項垂れ、肩を落とすと、少女は勢いよく少年の頬に叩きつけるように手を添えた。
「羅刹が簡単に謝るな! 顔を上げろ!」
激昂する少女の瞳が、熱が、少年を射抜いて縫い止める。
咎めている熱ではない。責める声音でもない。
「ここから先は、お前だ! 神に阿らないお前の道だ! 地面を見るなッ、お前が見続けるものがお前の現実だ!」
魂を叩き、前を向かせる。羅刹として生きた少女の、心からの活声だった。
「お前の頭に浮かべるすべてがお前の現実だ! 四つ足で走ろうが、前だけ見ろ! 地に両の手を着こうが、頭を垂れるな!」
少女は少年の眼を見据えて言っている。
だが──。
「自分は強き者だと粋がり、胸を張れ! 己が花を従えるのだと、もがき続けろ!」
自分自身にも言っている。自分自身を奮起している。そう少年は感じた。
花か、少女か。間違いなく後者だ。
少年の心が打ち震え、感嘆の息を吐く。
この身がいくら惨めであっても、胸を張り、粋がる。
それが花をひれ伏す、羅刹の道だ。
「俺は、どんな顔をしてる?」
聞くと、少女は瞠目し、次にはカラカラと笑った。
「面白い、良い顔してるよ」
手を握られれば、握り返したくなる。
心に火を灯されれば、異形の身であっても背筋が伸びる。
ならば、その火に応えなければ、胸を張って笑っていなければ。
「ザクロ、俺の背中に乗って。本気で駆けてみたい」




