第四八話 反逆
死への覚悟を決めた後、喉奥の花から音がした。
自分の首はまだ繋がっている。獣の喉が波打ち、脈動している。
鮮花の開花の胎動だ。ひどく獣じみた高い音。それが喉奥から鳴っている。
チウチウチウチウ、と鼠が鳴くように鳴り続けている。
驚き固まり、紅子とネズミは視線を交差させた。
「これは」
紅子も呆気に取られて立ち尽くしている。
冷徹な神が、ネズミを見て驚愕を露わにしている。
ネズミはゆっくりと自身の肉体を見下ろした。
花だ。
左半身の至るところに、白い花がいくつも生えている。
皮膚を突き破り、血を滴らせ、ネズミの肉体の中から顔を出していた。
「灰神だ」
誰が言ったか。ネズミを指して言っている。
灰神──羅刹が死した姿を、人はそう呼ぶ。
では、自分は死んでいるのか? そんなわけがない。生きている。
自我がある。呼吸もしている。心臓も早鐘のように拍動している。
「ははッ」
笑ったのは誰か。モモの声だ。
「死にようとかッ!? 母上の圧にビビりすぎて心臓を止めたがか!」
「滑稽な幕切れだ」
モモとカリンの嘲笑する声を合図に、周囲で驚愕する声が飛び交った。
固唾を飲んで見守っていた信者たちが騒ぎ始め、皆で一斉に花を生やすネズミを見て動揺している。
「死んでいる!? では、早く首を断たねば!」
「灰神様になられた!? では──」
「紅子様! どうされたのです!? 早くネズミ様の首を!」
首を、首をと、口々に唱える信者たち。
その訴えを一顧だにせず、紅子は口元を朗らかに歪めていた。
「素晴らしい。まことにおもしろき花が咲きましたね」
ザクロの首を絞めながら、ネズミを心から称賛する言葉。
以前は神に褒められたならば、打ち震えるほどの高揚を感じていたはずだ。
だが今は、そんなものは微塵も感じやしない。
「ザクロを、離してください」
口から、そんな願いが衝いて出た。
静かな声音の中に、確かな怒りを帯びる色。
ネズミが香梨紅子に向けて、手を伸ばすと。
自身の手を見て、眼を見開いた。
白く輝く糸がいくつも絡み付いている。
「……これは」
ネズミの驚愕と重ねるように、手に絡みつく糸が急速にその身を蛇のようにくねらせた。
そして、一本、また一本と全長を伸ばしてゆく。
「──!」
次の瞬間には、目にも止まらぬ速度で糸は周囲にいるすべての羅刹めがけて絡みつく。
香梨紅子に一本、姉妹に一本づつと、自分にも一本、首元に鋭く巻きついた。
輝く糸に魚がかかるように、糸はピンと張り詰めている。
腕を引いて、引っ張るとどうなるのか。
ネズミは衝動的に糸を引いた。そうするべきだと思ったからだ。
すると、一瞬だけ香梨紅子が声を上げた気がした。
「見つけた。私の欲しい物」
恍惚に染め上がった甘美な声だった。
ネズミに確かに届いた。心の底から発するような、掠れた声だった。
紅子の感嘆に一瞬、唖然とした。その次の瞬間だ。
沸騰するような怒りがネズミの腹に沸く。
──離せ。ザクロを。
ネズミの足が弾かれるように前へ出ていた。
胸に抱いていた太刀を抜き放ち、気がつけば鋭く振り下ろしていた。
ザクロの首を絞めている紅子の右腕、そこに輝く白刃を容赦なく走らせる。
「──ッ」
紅の花が盛大に咲き誇った。
神の右腕は両断され、解放されたザクロと共に地面に落ちる。
その返り血を浴びながら、ネズミは息を呑む。
お返しとばかりに、紅子の左腕の手刀が振り下されようとしていた。
──ああ、殺されるんだな。
自分はどんな顔をしているか。どんな顔の生首を残すか。
きっと笑っているのだろう。
神に太刀を振るうなど、独りよがりの狂行だったかもしれない。
殺されるとわかっていてもなお、衝動に身を任せてしまった。
されど、手を差し伸べてくれたザクロを、助けられた。
縮こまり泣き腫らすだけの男ではないと、自分を認められた。
窮鼠は猫を噛めるのだと、証明できた。
それがほんの少し誇らしい。
ネズミは諦めたように口元を緩めた。
眼前に迫る手刀がネズミの首に届く。
その心臓の拍動一つ分にも満たない短い刹那。
紅子とネズミの間に、黒い影が颯爽と割り込んだ。
視界を横切る、美しい黒髪。祭事用の真紅の着物。
長女リンゴの、反抗の炎が灯った獰猛な瞳。
「しゃあッ──!」
白刃が瞬いて、裂帛の気迫と共に紅子の手刀を弾く。
「ははッ、ネズミはん、ようやった! あんたはほんまに最高や!」
リンゴは返す刀で、香梨紅子の間合いに踏み込み、刃を振るう。
練り上げられた剣技が、ネズミの視界の先で花開いた。
舞うような足運び、流線を描く剣線が鋭く空を切り続ける。
「やっとッ、やっとや! 一矢報いる時が来た!」
「支配の糸を解かれましたか……やはり大輪の花……」
その怒涛の猛攻に香梨紅子は動じるそぶりもなく、残った左手で縦横無尽に放たれるリンゴの連撃を捌き続ける。
「まことにおもしろきは花。よき日和、良き縁が起こりました」
「ああッ!? 嫌になるくらい余裕やな!」
突如として始まった母と長女の死闘。
あまりの出来事にネズミは目を瞬かせ、首元に手を当てる。
自分の首は繋がっている。リンゴによって命を繋げられた。
そう驚愕していると、側で激しく咳き込む音が鳴る。
「ザクロ!」
解放されたザクロは地面に四つん這いになり、肺から失った空気を必死に手繰り寄せていた。
「ネズミッ、お前、ゲホッ、大丈夫なのか?! その花は!?」
「わからない! でも、生きてる」
ザクロは咳き込み終わると、焦りの色を浮かべてネズミの肉体に触れる。
首の脈を確かめ、瞼を捲って瞳の色を観察し、胸に手の平を当てて心臓の拍動を確認した。
そして、ネズミの肉体に生えた白い花に触れて瞠目する。
「生きてるな……でもこれは、灰神の花だ……マジで大丈夫なのか?」
「大丈夫だと、思う。痛いわけでもないし、しんどくもない」
応えながら、ネズミは自身の肉体を改めて見下ろす。
半身に生えた花は淡く発光して、その頭を少しづつネズミの肉体に引っ込めてゆく。
先ほど腕に絡み付いていた輝く糸も、うっすらとその姿を消していた。
あれはなんだったのか、香梨紅子が巻いていた支配の糸が可視化されていたのか。
自分が刀を振るえたのも、リンゴが自由に動けるのも、恐らく自分がそれを解いたから。
それとも──自分が支配の糸を結んだのか。
「ザクロ、ネズミちゃん!」
ネズミが思考を回していると、ミカンが足早に二人の元に駆けつけた。
「大丈夫なのそれ!?」
「大丈夫らしい。話もできるし、目に生気がある」
ザクロが代わりに答えると、ミカンは気遣わしげにネズミの脈を確認する。
一通り診察を終えると、安堵の息を吐き、次には二人の腕を強引に引いた。
「大丈夫なら、二人は走って! なんとかしといたから!」
「は?」
言われて、ネズミとザクロは姉妹が控えていた背後に視線を移す。
カリンとモモが力なく地面に倒れ伏していた。
首裏に力強い手刀を食らったのか、患部から激しく火花を散らしている。
「気絶させたのか!?」
「ここは私とリンゴ姉で時間を稼いでおくから! 二人はさっさと走って!」
ミカンに荒々しく背を押され、急き立てられ、ザクロは追いつかない頭を振る。
「待て待て待て! 母上に二人だけで敵うわけが──」
「いいから、早く!」
ミカンは張り裂けんばかりに叫び、二人の胸ぐらを掴んで引きよせる。
次には凄まじい腕力で二人の身を宙に浮かせ、勢いよく空中に投げ飛ばした。
「ネズミちゃん、ありがとう。母上をなんとかしたら、私たちも逃げるから」
そう言って、宙を舞う二人に親指を立てると、ミカンは鮮花を「コココココ」と起こして義手を振るった。
「ミカンさん!?」
ザクロとネズミの肉体が地面に叩きつけられた直後、縦揺れの地震が起こり、低く大きな音が鳴る。二人が慌てて身を起こす頃には、ミカンとの間に巨大な桜が聳え立っていた。
それはザクロの住居の前にあった、頭上を覆うほどの桜の大木だ。それが地面から次々と生えて巨大な壁を形作った。リンゴとミカン、そして香梨紅子の周囲を囲う形で、球状にその身をくねらせて巨壁を組み上げてゆく。
「ふざけんなッ、逃げるならリンゴ姉とミカン姉も一緒に! これじゃあ二人は出れないだろうが!」
ザクロが大木を叩いて抗議すると、壁の向こうからミカンの大声が飛ぶ。
「私たちが母上に逆らえる、それがどういうことかわかる!? ネズミちゃんの鮮花が母上を超える花なの!」
それは、ザクロも心の底で察していたことだ。強い花に平伏するのが鮮花の特性だ。
ネズミが現れてから、姉妹は香梨紅子に異を唱えられるようになった。それはネズミの鮮花が、香梨紅子より強力な花であるという可能性を秘めているということだった。
「母上がネズミちゃんを見て、『欲しい』と言ったの! このままここに留まれば、ネズミちゃんの首は──」
落とされる。落とされ、鮮花を回収されて食われる。
「だから、早く逃げて!」
「ミカン姉たちはどうすんだよ!?」
「隙を見て逃げるわよ!」
「母上に隙なんて」
「いいから、行けェ! 走れェ──!」
ミカンの咆哮と共に、ザクロ達の足元から唸るような轟音が鳴り響く。すると、次から次へと桜の大木が地面を突き破って顕現する。
壁の向こうから頭上めがけて、次々とミカンの作成した植物の種が放り込まれているのだ。
「ザクロ!」
放られた種はザクロ達の身体に降り注ぎ、地面に落ちて芽を出し始める。
このままで巻き込まれると、慌ててネズミはザクロの身体を抱えて後退した。
背後でけたたましい破裂音を響かせて、巨木が二人の前に生え続ける。それは最早、二人の声が届かないほどに、ミカン達との距離を大きく開けさせた。
「ふざけ──」
ザクロは激昂しかける。目の前を遮り続ける巨木に、自分を抱えて後退するネズミに。
されど、突如として自分のやることはそうではないと、氷水を被ったように思考が冷える。
いつも神の足元に擦り寄ろうとしていたザクロの鮮花が、今はネズミと共に走れと耳打ちするのだ。
ネズミを生かし、逃げ延びる。それが今取れる最善であると。
「……ネズミ」
歯噛みした後、ザクロはネズミから身を引き剥がし、地面に自身の足を着けた。
「行こう。二人が時間を稼いでくれてる」
ザクロが迷いを払うように胸を叩くと、ネズミは一つ息を吐いて目元を拭う。
「二人は……大丈夫だよね……」
「リンゴ姉もミカン姉も、姉妹で一位と二位の実力だ。絶対にまた生きて会える。だから」
行こう。ザクロはネズミの背を押して歩かせた。
「大丈夫だから」
言い聞かせるように溢して、ネズミの抱えた太刀を引き剥がし、自身の腰に差す。
次第にザクロが足を早めると、ネズミも倣うように足を早めた。
「行こう。今は、それしかできない」
それが正しいのだと、ザクロは自分に言い聞かせるように何度も繰り返す。
南の空から裾野を広げる曇天、その先へ。
二人は悲痛を拭って駆け出した。




