第二八話 誘惑
「ネズミ、二人きりでお話しできますか?」
問われて、ネズミは肩を跳ねさせる。
覚悟はしていた。だが、時が来れば神の社に呼び出されるものとばかり思っていた。
香梨紅子は聴力が鋭敏であるが故に、音の多い外界を嫌い、静寂に包まれた社の中を好んでいる。そう、リンゴから聞き及んでいる。
神にとって居心地の悪い外界に出てまでネズミに会いに来たということは、今日この時、この場で、それ相応の沙汰を言い渡されるのだ。
「承りました、紅子様」
ネズミが厳かな面持ちで首肯すると、リンゴとミカンは速やかにその場から退散した。『二人きり』と神が言ったのだ。見守ることは許されていない。
リンゴとミカンの背を見送って、香梨紅子は緊張で震えるネズミの前にしゃがみ込む。
「緊張せずとも良い。先日のことを気に病んでいますね? 咎めるつもりはありません」
言われて、ネズミの口から「ぇ」と間抜けな驚嘆が漏れる。
「その、お咎めにならないのですか? あれほど、俺は……紅子様に逆らったのに」
「そうですね。少々叱りたいところではありますが」
呆気に取られて口を半開いたネズミの鼻に、ツンっと紅子は茶化すように人差し指を当てた。
「羅刹の顔も三度まで。今回は許しましょう」
言われた途端、ネズミの胸中に安堵の波が濁流のように拡がった。
「ありがとうございます!」
ネズミは弾かれるように深く頭を垂れ、地面に額を擦り付ける。
──許された。また許されたッ。流石に今回ばかりはダメかと思ったぁ!
そう、溢れる歓喜を頭の中に回していると、紅子が手でネズミの額を上げさせる。
「ザクロの世話を焼いてくれているようですね」
「はい。勝手を承知で、側に置かせて頂いております」
「あの子も随分と、あなたを気に入っている様子ですからね」
紅子の指がネズミの目の下を滑らかになぞると、
「よく眠れていますか?」
体毛の下にこさえた隈に気がついたのだろう。
「あ、は──」
神に気を遣わせてしまったと慌てたネズミは、『はい』と言いそうになって、即座に押し黙る。虚偽は戒律を破る罪だ。例え世辞であってもそれは憚られるし、舌を縦に裂かれるのは恐ろしい。ネズミは急いで言葉を正す。
「その、あまり眠れてはいませんが、身体はなんともありません」
答えたネズミの瞳を見て、香梨紅子は「ふむ」と思案した。
「怯えていますね。教義戒律を読み、その禁に触れることを恐れている」
「はい……その通りです。意識すればするほどに、言葉を選んでしまって……」
「随分と驚いたかもしれませんね。私が敷いた五つの戒めは、とても苛烈ですからね」
「俺にはその、なんでなのか分からなくて。なんであんなに残酷な罰が必要なのか……」
ネズミが申し訳なさそうに目を伏せると、紅子が口元を綻ばせる。
「今からあなたの納得を得るため、昔話をしましょう」
紅子がしっとりと髪を掻き上げ、その美しい唇を動かす。その艶やかな所作を見届けていると、ネズミの緊張は何処へやら、頭は呆然と夢心地になってくる。
「はるか昔、羅刹の祖先達は『国』と言う概念を滅ぼしました。王を囲う組織を許容せず、人が人の上に立つ仕組みを、鮮花の力を行使し、尽く破壊しました。それも当然ですね。平穏を望む人々を苦しめるのは、人の上に立つ権力者の欲だったのですから」
ネズミは静かに頷いた。彩李から事前に伝え聞いたこの世の歴史だ。
「王を失った人間たちはやがて、この暮梨村のように小さな人里を形成し、その治安と安寧を羅刹に委ねました。世の理を超越する者の庇護の元にいれば、人々は安全に暮らせますから」
飢えも病も遠ざけられる香梨紅子のような存在が目の前にいれば、誰もが庇護下に入りたくなるだろう。
ネズミは「確かに」と相槌を打った。
「ですが、我ら羅刹は超常の力を使えはすれど、肉体は一つ。人と人同士の諍いなど、すべてを見張っていられるわけではないのです。それ故、苛烈も承知で、あの五つの戒めを人々に守らせております」
「……どうしてもあれほどに厳しい罰則が必要なのでしょうか?」
「間違いなく必要です。人間は明確で厳しい秩序で縛らなければ、簡単に醜悪な化け物に成り下がる。罪を自覚する機会がなければ、人の世を乱す悪辣を繰り返す。幼児が羽虫の羽をむしるような自覚なき罪悪と稚拙な悪徳が、どこまでも肥え太ってゆくのです」
今まで幾度も見てきたのだろう。香梨紅子の言葉が熱を持ってネズミに降り注いだ。
「秩序ある状態は、やがて無秩序に進んでいきます。綺麗な部屋はやがて散らかる。散らかった部屋が勝手に綺麗になることはありえません。誰かが〝支配の糸〟で縛らなければ、秩序ある状態を維持することは叶いません」
籠った熱にネズミは圧倒され、自然と首肯していた。
「五戒は本当に執行されなければ効力を失います。それはこの村の安寧を崩す災いとなる。ネズミ、あなたは〝幸福〟を考えるとき、自分のみの幸福を考えますか? それとも他者を含めた幸福を?」
「幸福ですか……。自分のことしか、考えられていないかもしれません」
「それでいい。本来はそれでいいのです。ですが、神である私はこの村のすべての幸福に尽力しなければなりません」
寂しげに声を落として、香梨紅子はネズミの手を取った。
その手つきがあまりに優しく暖かく、ネズミを心まで包み込まれるような心地にしてくれる。
「故に、涙を呑んで五戒の罰則を執行しなければならないのです。いずれ、あなたにも、わかってくれる日が来ることを願います」
「はい……」
神の嘆きをネズミは完全には推し量ることはできなかった。
そんな自分がむしろ悔しく感じるのは、花か自分か、どちらの思いなのか。
「私を、怖い女だと思ったでしょうか?」
「いえ! そんなことは──」
ある。あった。ネズミは慌ててまた口をつぐんだ。
ザクロの腕が斬り飛ばされた光景に、恐怖を抱いたのは否定できない。
五戒の厳しい罰則を知って、発言に気を払わなければならないと恐怖した。
それに、ザクロの忠告通り、神を眼前に据えるだけで服従してしまう自身の心根に、頭の片隅で恐怖し、今もなお戸惑い続けている。
そんなネズミの表情を読み取ってか、香梨紅子の唇からポトリと悲哀が漏れる。
「いずれ、わかってくれる日を……願っております」
しまった! 悲しませてしまった。自分の未熟さで神の御心を傷つけてしまった。
ネズミは反射的に、香梨紅子に握られている手を握り返した。
「俺、馬鹿だから、まだ、知らないことが多くて! あなたの近くで、その……もっと多くを知れれば、きっと理解できると思います。だから、待っていてください。近くで、きっと……」
言って、ネズミはふと我に帰る。
ザクロの忠告は何処へ行った? 鮮花は強い鮮花に惹かれる性質がある。
だからこれは、鮮花がネズミの口を借りて都合の良いように舌を回しているのだ。
ネズミが逡巡して言葉を止めると、次の瞬間、視界が白く覆われた。
「べ、べ、べ、紅子様!?」
ネズミの太い首に腕が回され、肉体が密着された。
紅子の豊かな双丘がネズミの顔に押し付けられ、甘い花の香りが脳を満たし、思考力を奪われる。
「フフフ、嬉しい。私の近くにいてくれるのですね」
「こ、これは、ほ、抱擁法ですよね?」
「いえ、これは私の欲望です。あなたをこの腕の中に抱きたいという、言い逃れようのない欲望です」
母のように諭したかと思えば、少女のように微笑む。
そして、恋人のような情熱的な抱擁。
──ああ、これは魔性だ。
その所作に、ネズミの心は深くのめり込んだ。
白布に隠れた相貌はきっと美しいのだろう。むしろ隠れているからこそ神秘を帯びている。
唯一見える紅の唇が悲しみに歪まないように、自分がずっと付き従えたらと切に願ってしまう。
魔性とわかっていてもなお、その近くで振り回されたいと願ってしまう。
ザクロの言葉を忘れていたわけではない。
近くにいればいるほど危険な存在であると、胸に刻んだはずだ。
なのに、どうしても、ネズミは衝動に身を任せてしまう。
抗おうという発想そのものが、頭の隅に追いやられる。
「紅子様……」
ネズミは紅子の腰に手を回して抱き返した。
ゆっくり、痛くならないよう、優しく、細い腰を支えるように。
すると、温い吐息に混じって、紅子がネズミの耳元に唇をよせた。
「ありがとう。愛しい我が子」
その一言、言われた途端に──ネズミの胸に全能感が拡がった。
神に承認された。〝子〟であると。我が生の一部であると、認められた。
愛しい我が子。甘い響きを頭で反芻するたびに、異常なまでの高揚感が胸を満たした。
「あぁ……あぁッ」
なぜだ。なぜこれほど泣けてくる。なぜこれほど、癒やされるのだ。
花か己か。どちらだ。どちらが感動しているのか。
どちらが香梨紅子を求めてやまないのか。
そんな疑念も一瞬で終わる。紅子がより強く、ネズミを抱き寄せたからだ。
強く抱きしめられるほどに、香梨紅子の一部になりたくなった。
神の肉体の一部になりたくてしょうがない。
そうすれば、この時間が永遠のものになると思ったからだ。
どうすれば、神と一体になれるのか。
答えは、香梨紅子の口からしとりと溢れた。
「いずれ、この母に、花を捧げられますか?」
確信した。我が命の在り方、目的、最終地点。自分の生まれた理由を得た。
鮮花を、この首を差し出せば、神の一部になれる。
この暖かい抱擁が、永久に続くものになるのだ。
「──はい。俺の花は、あなたのために」
ネズミの返事に、神は口元を綻ばせた。
「良い子です。真っ直ぐ素直な、愛しい子。いつか、そのときが来たら──」
一つになりましょう。




