第二五話 着物
満ちた月が東南に浮かび、鈴虫が鳴きはじめる頃。リンゴとミカンは帰宅した。
二人はネズミに粥を振る舞って、一緒に夕餉を過ごしてくれたのだが、ネズミの頭の中ではザクロの安否と羅神教の戒めのことばかりが駆け巡り、会話を振られても右から左に流すばかりであった。
今もその懊悩は、変わることなくネズミに纏わりついていた。
「はぁ……」
リンゴとミカンの背を見送った後、ネズミは布団に倒れ込む。
ここで暮らす限り、あの戒律に従わなければならない。差し当たってネズミが注意しなければならないのは嘘を禁ずる不妄語戒だ。もし罰則を受けたとなれば、肉体は鼠、舌は蛇のように二枚に分かれた化け物が完成してしまう。
危ないところだった。もし、あの時ザクロが止めてくれなかったら、香梨紅子の前で体裁の良い嘘を並べていただろう。
リンゴいわく。
『あんま神経質にならんでもええけどね。世辞や虚勢は見過ごされるんやけど、嘘偽り、虚偽はあかんね。舌がパッカーンされるわ』
世辞、虚勢、虚偽、嘘偽り。考えれば考えるほどその境界が曖昧になり、ネズミはこれから先、すべての言葉に気を遣わないとならない。
もし、咄嗟に嘘が口から転がってしまったらと思うと、日常会話でさえ気が重い。
「リンゴさんとミカンさんは、見過ごしてくれるかもしれない。でも──」
ネズミを敵視しているモモとカリン、五戒の懲罰を管理する香梨紅子の前では口を開くのも憚られる。
よくよく思い返せば、村人たちのあの視線、ネズミに猜疑心を抱いていたのかもしれない。ネズミがいつ戒律に触れるか、巻き込まれはしないかと、忌避の念を抱いていた者もいるだろう。同時に、嘘を吐いて戒めに触れるのを待っていた者もいるはずだ。
そんなことを悶々と考えていると、ずんと全身の体重が重くなり、気分をさらに沈んでゆく。
そうして、辿り着くのは自分への嫌悪感だ。腕を落とされたザクロを見てもなお、自分の身の上に心を割いている。なんと浅ましい心根か。
どす黒い渦を頭の中に回し、やがて悩むことに疲れる。
しばらく眠気を待って布団の上で呼吸だけに専念するものの。
──無理だ。
眠れるはずもなく。夜桜でも見て気分を落ち着けようと思い立つ。
ネズミはゆっくりと立ち上がり、鈍い足取りで玄関まで歩く。
そして手を板戸にかけて、スウっと開くと。
「「────」」
戸を開けた瞬間、その光景。
眼前に、瞠目する桃髪の女。
三白眼と蛇の二枚舌を持つ、凶悪な四女モモ。
それが、今まさに外から戸を開けようとしていたのか。
互いに接吻してしまいそうな至近距離で、顔面を見合わせる。
二人の認識が音速で追いつく。このままでは、唇を重ねてしまう。
「「わぁあああああ──ッ!」」
ネズミとモモ、唾と絶叫をぶつけ合う。
「も、ももももも、モモさん!」
「ドブネズミィイイイイイイ‼︎」
叫ぶやいなや、モモは体を捻って強烈な前蹴りをネズミの腹にお見舞いする。
強い衝撃と共に、ネズミの肉体は後ろへ勢いよく吹き飛んだ。
土間を転がり、木壁に激しく背中を打ち、腹部に這い回る鈍い痛みにネズミは悶絶。
──まただ! また腹をッ。
痛みを消化してる暇もなく、モモが相貌を憤怒に染め上げて、土間に上がり込んできた。
「キサン! 今、私に接吻しようとしたちゃろうがァ!」
「えええ!? 誤解です! 戸を開けたらいきなり顔面で!」
「さっきの腹いせか!? ぶち殺すぞ、ドブネズミがァアアアッ!」
がなりたてて、モモは射殺すような目つきでネズミに詰め寄る。
「待って! 本当に違うんですって!」
「オラァアアアアア‼︎」
弁明を述べるも聞く耳持たず、後ろ手に持った〝何か〟をネズミに向けて投げつけた。
「グエッ! エ!?」
ネズミにぶつかったそれは──。
先ほど連行されて行ったザクロであった。
着物は竹林で大立ち回りをしていた時より酷くなっている。
斬撃と刺突による破穴が至る所に散り、着物自体も血と土で赤黒く汚れていた。
肉体に傷はなさそうだが、憔悴からか、力なく項垂れて小さく呻き声を漏らしている。
何より、ネズミの視線は少女の右腕に吸い寄せられた。
「あ……」
夕刻には生身だった。
今は、ミカンと同じ無機質な黒い義手が取り付けられている。
「そのゴミカスの世話は、キサンがしろ」
それだけ言うと、モモは踵を返して玄関へ歩き出す。
「次、接吻しようとしちゃら、噛み千切るッ」
そして捨て台詞を吐き、荒々しく板戸を閉められた。
戸の向こうから過ぎ去る低い足音を聞き届けて、ネズミは胸を撫で下ろす。
「おかえりなさい」
ネズミは項垂れているザクロを抱きかかえ、ゆっくり布団まで運ぶ。
腕を切り飛ばされた時より少し重くなった少女の体重に、涙が溢れそうになった。
「ちょっと俺の体毛が散りばめられていますが、我慢してくださいね」
大事に慎重に、ザクロを寝具の上に横たえ、その身に布団をかけようとして、ある事を失念していたことに気がつく。
「ああ、どうしよう。着替えさせた方が……良い……か」
女子を汚れた衣服のままにしておくのは、あまりにも不憫だ。
ネズミは意を決して、箪笥の上に乱雑にかけてある一枚の白い着物を手に取った。
「なるべく、見ないようにするんで……」
眠る少女に深々と頭を下げ、ネズミはザクロの汚れた着物に手をかけた──。




