第二三話 逃走
「逃げましょう」
弾かれたように少女の手を取っていた。
ザクロの返答も待たず、ネズミは強引に手を引いて駆け出すのだ。
少しでも神から距離を、少しでもこの少女と共に。
「ダメだ、ネズミ。母上からは逃げられない」
「腕を落とされたくないんでしょう!? だったら──」
逃げなきゃ。その場に項垂れそうなザクロを発奮して、ネズミは遁走する。
駆けて、走り続けて、心臓の拍動が耳を打つ。
引いて、声をかけて、ザクロを支え続ける。
竹林を泳いでいると、変わらぬ景色に気が滅入る。
方向感覚が狂わされ、真っ直ぐに走れているかも判然とせず。
疾って、逃げ続けて、どれだけ経ったのか。
どれだけ走ろうとも、竹林を抜けられる気配さえない。
自分が何処へ向かい、少女を何処へ連れてゆくかも不明なまま。
ここでようやく、手放した思考を手繰り寄せる。
がむしゃらに走りすぎた。追ってきているか?
駆けながら周囲を見渡せど、人の影も気配もない。
随分な距離を走った。追って来ていないのかもしれない。
そこでふと、手を握るザクロの重みが軽くなった気がした。
やっと自分から走る気になってくれたのか。
僅かばかり安堵して、ネズミは横目で少女の様子を伺った。
「あ」
やっと、その赤色に気がつく。
右腕だ。右腕しかないのだ。
自分の握った手の、その先が〝ない〟。
吹きつけたような鮮血が点々と散っていて、ネズミの背中を赤く汚していた。
少女の身体は何処か。
舞い散る笹葉の奥、二〇歩後方でぐったりと身体を地面に預けていた。
右腕の断面から止めどなく血潮が溢れ出し、さらさらと地に舞い落ちた笹の葉を、紅に染め上げてゆく。
「あまり、母を待たせてはなりませんよ?」
香梨紅子の声がすぐ側で聞こえる。足音はあんなに遠くにあったと言うのに。
ネズミは伏したザクロの元に駆け寄って、急ぎ少女の肉体を抱き起こそうとすると、
「なんだこれッ」
ザクロの両足に艶髪のような黒い糸が絡まっていた。
糸の先には釣針のような返しの付いた針。
それが深く深く、ザクロの下半身に何本も、何本も何本も。
皮膚に突き刺さり、鮮血を散らし、無惨に足を縫い止められている。
「えげつねえな、相変わらず……」
悲観に濡れた相貌で、ザクロとネズミが黒い糸の根本を視線で辿る。
すると、糸を携えた香梨紅子が竹林の影から姿を露わにするのだ。
「気に入りましたか? 私の髪で作った釣糸と、爪で作った釣針です。若い頃はよくこれで立ち回ったものです」
ザクロを絡め取る黒い糸は、神の両手から肌を突き破り生えている。
香梨紅子の権能『生物の変化変質』を使用すれば、肉体の中で髪の毛を作り、皮膚の下で爪を作ることは造作もないのだろう。
糸はきゅるきゅると、いっそ愛らしい音を立て、香梨紅子の肉体の中へ巻き戻って行く。
それに吊られて、ザクロの体も紅子の元に引っ張られてしまう。
──ダメだ。
ネズミは反射的にザクロを抱き止めた。
「離しなさい、ネズミ」
香梨紅子が諭すように命じる。飼犬が玩具を咥えて離さない。そんな幼稚な行為を躾けるような響きだった。
ネズミは苦悶を浮かべて首を横に振る。
幼稚な行為であろうと、神の命令だろうと。
どうしたって離す気になれはしない。
少女の腕は既に落ちているというのに。
「母上の御前だッ、頭を垂れろ痴れ者が!」
香梨紅子の背後に控えていたカリンが、噴火するように咆哮を上げた。
それに驚いて肉体を跳ねさせると、余計にネズミの腕はザクロを抱きしめて離れない。
「恐慌状態ですね。自分が何をしているのかもわからないのでしょう」
紅子が呆れたように言うと、ネズミの背中に、ニュルリと濡れた感触が纏わりつく。
「ガァ──ハッ」
モモの産み出した大蛇が背後から一気に巻き付き、ネズミの首を力強く締め上げる。
あまりの息苦しさに気が遠のき、全身を弛緩させると、抱いたザクロを手放してしまう。
ザクロが地に転がるのを見届けると、紅子は蛇に向かって指で指示を送る。
すると、大蛇はネズミからあっけなく離れて、主人であるモモの元へと這いずってゆく。
「ネズミ、私はあなたにザクロを捕まえるように命じていたはずなのですが」
息も絶え絶えに、空気を手繰り寄せているネズミに、紅子は目線を合わせて語りかける。
「どうして、この母の言うことを聞けなかったのですか?」
「ゴホッ……そ、それは」
何を言う? 何を言えば体裁が整う? ネズミは回らない頭で迷いに迷う。
「俺はザクロさんと、その……」
ネズミが朦朧とする意識の中、苦し紛れの虚偽を取り繕おうとした。
そのときだ。
「ダメだ……」
倒れているザクロが血に濡れた左手で、ネズミの顔をべっとりと撫でた。
「母上の前で嘘をつくな。戒めに触れちまう……」
ザクロが言うと、「あーあ言っちまった」とモモが心底退屈そうに溢した。
「もう少しで私とお揃いやったっとに。なぁ、ドブネズミ」
モモは大きく口を開いて、見せつけるように二つに割れた舌をネズミの前に晒した。
「ネズミには、まだ〝戒律〟のことを話さぬようにと厳命していたのですがね」
紅子の責めるような声音に、ザクロは瞳に涙を溜めて悔恨を落とす。
「あんた、やりたい放題だな。マジで嫌になる……。やはりこうなった。どう足掻いても、あんたの思い通りだ」
「まったく……行きましょう。義手の製作は既に完了しております」
地面に赤い線を引きながら、ザクロは香梨大社へと連行される。
「ああ……」
引き摺られながら、少女が落涙に濡れる瞳で失った自信の右腕に視線を移した。
「このままじゃあ、握り飯……作れないな……」
そう言った。
「ああッ、ああ!」
ネズミは鮮血に染まった両手で顔を覆う。
自分のせいで、ザクロを余計に悲しませてしまった。
自分が衝動に任せた愚行に溺れたせいで。
「この獣風情が! よくも母上を煩わせたな!」
紅子の背が見えなくなった途端、カリンが憤慨し、ネズミの顎を残忍に蹴り上げた。
その威力が酷烈で、顎が砕けて回復の火花が散る。脳が揺さぶられて意識が遠のく。
「ごめん……なさい……」
ネズミの肉体が浮き、背中を地面に強く叩きつけられた。
背中を打って肺の空気がすべて抜け、ジタバタと悶絶しているところに、
「汚物が、無様に転がってろちゃ」
侮蔑と嘲笑を落として、モモが虫を踏み潰すように下駄を振り下ろした。
ネズミの鳩尾がひしゃげて凹み、目玉が飛び出そうな激痛が蠢く。
そして、最後に顔面に放たれた拳が、ネズミの意識を闇の中へ堕落させた。




