第十七話 奥之院①
香梨紅子の社の内部は、蟻塚のように枝分かれした構造だった。天井は高く、道幅も広く確保されている。壁に設置された吊り灯籠が廊下を暖色に照らし、歩く者を誘ってくれていた。
ネズミが香梨紅子の背後に追従していると、いくつか紅殻の格子窓が付いた部屋が目につく。
「それらの部屋は、羅神教の歴代の教祖達が集めた書物庫です」
つい足を止めて部屋を覗き見ようとしたネズミに、紅子が言う。
「いずれ、あなたにも必要になるかもしれませんね」
「御息女の皆さんも、ここでお勉強を?」
「幼き頃は筆を取っていたこともありますね。ですが、今は役目を与えていますから」
「役目? ですか」
「フフ、いずれあなたにも手伝ってもらいますからね」
どこか期待を滲ませるように言って、香梨紅子は再び歩き出す。
しばらく回廊を進んでいると、突き当たりに紅殻の冠木門が姿を現した。
「ようこそ、香梨大社、奥之院へ」
「お邪魔します……、ッ!」
紅子が開け放った門を潜ってすぐに、ネズミは言葉を失った。
広大な空洞に豪奢な神明造の社が鎮座しており、趣のある前庭を構えている。それだけなら圧倒されるだけで済んだのだが、庭を飛び交う数々の生物があまりに異様であった。
羽から炎が揺らめく紅の蝶々がそこらを飛び回り。
光り輝く七色の鯉が、庭池ではなく空中を優雅に泳いでいる。
嘴に提灯を咥えた白色のカラスが、ネズミの前を通り過ぎ。
そのカラスが羽を休めるのは、黄金の葉が生い茂る松の木であった。
この世のものとは思えない幻想的な光景に、ネズミの頭の中に『神域』の二文字が浮かんで焼きつく。自分が踏み入って良い領域に思えず、つい立ち尽くしていると。
「これらを見て驚いてくれる者は、もうあなたくらいかもしれませんね」
紅子は一羽の蝶を指に止め、ネズミの眼前に掲げて見せると、蝶からバチバチと激しく火花が散る。
ネズミが驚いて身を引くと、次には紅子の手の平に、艶やかな青色のトカゲが収まっていた。
「新鮮ですね。そこまで良い反応を示されると、つい揶揄ってしまいます」
いたずらに口元を綻ばせて、ネズミの頭頂部にトカゲを放す。トカゲは一歩二歩、ネズミの頭髪を踏み締めると、居心地良さそうに寝息を立てはじめた。
「凄すぎて……頭が回りません……」
「フフフ、愛いですねぇ。娘達はもう驚いてくれませんから。楽しみが増えました」
なるほどとネズミは思う。病にならない村人と枯れない食物、おまけに常軌を逸した生命の創造を自在に行える。となれば、多くの信者を魅了して止まないだろう。
すっかり香梨紅子の魅力に沈められたネズミは、奥の院の中へと誘われる。庭と違い、室内は荘厳にして単純な造りだった。二十畳ほどの板の間の中央に文机が一つと座布団が二枚。漆器や陶器、掛け軸などの飾り物は一切なく、偶像の一つさえ飾っていない簡素な出来であった。
ネズミが「失礼します」と座布団の一つに腰掛けると、紅子は文机の下から檜の木箱を取り出した。まるで鎧兜でも収まっていそうな大きさと佇まいをしている。
「さてさて。少々驚くかもしれませんが、どうか目を背けず刮目してください」
あれほどの神秘的な光景を見せられて、今さら驚くことがあるのかとネズミが不思議に思っていると、紅子が木箱の蓋をそっと開く。
「へ? え?」
ネズミの口から間抜けな声音が漏れた。むせ返るような甘い花の香りと共に広げられた、信じられない光景を前に、思わず叫び出しそうになる。
血の気のない、青白い皮膚。
乱れて、黄ばんだ髪。
閉じた瞼の下には、長く伸びる乾いた血涙。
男の生首だ。
男の死体の生首。
それが白い花に飾られ、木箱の中に収められていた。
「ええええええッ」
理解が遅れ、やっと頭を回したネズミは反射的に仰け反る。
「な、ななな、なん──」
頭に駆け上る混乱と、激しく波打つ心臓の拍動と共に、ネズミの瞳から涙が溢れそうになる。
──なんちゅうもんを!
ひどく動揺して腰を抜かすネズミに、紅子は諭すように言う。
「我ら羅刹の成れの果て、灰神の生首にございます。よく刮目してご覧なさい」
「ご、ご覧なさいって……ッ!」
遠くからなら見たことはある。この首はまさにザクロが川岸で落としていた首だ。
間近で見ると迫力が違う。血で汚れたその有様と、悲痛に歪んだ相貌が、強い恐怖心を植え付けてくる。
されど、刮目しろと言われた手前、ネズミは恐る恐る薄目で生首と目を合わせた。
「これが、お、贈り物ですか?」
「そうです。まあ、生首そのものではなく。用があるのは中身なのですが。良い機会です、死者と向き合うこともあなたには必要なことです」
紅子は言うと、箱から生首を手に取ってネズミによく見えるように掲げ始めた。
「よく見なさい。羅刹となった人間が死亡するともれなく灰神と呼ばれる、動く屍に成り果てる。それは知っていますね?」
「はい……聞き及んでいます」
「灰神というのはこうして顔の辺りから花を生やし始めます。これが灰神であるという何よりの証になりますので、よく見て覚えておきなさい」
ネズミはなんとか頷いて、指し示された花を視界に収める。
男の左頬、口元、右の瞼から、皮膚を突き破るように白い花が生えていた。
「鮮花は宿主が生きている間は喉の奥に潜んでいますが、宿主が命を落とすと全身に根を張り巡らせ、死体を乗っ取ります。その根から花粉を撒くために生えるのがこれらの花ですね」
「花粉? ですか?」
「鮮花の蒔く花粉というのは生殖行為ではなく、生物の探知を行います。殺すために探しているのか、次なる宿主の候補を探しているのか、その鮮花によって目的は異なります」
「恐ろしいですね……」
ネズミが苦い顔で応えると、紅子は満足げに頷く。
「羅刹が死すれば、顔から花が生えてくる。覚えておいてくださいね」
「承知しました」
「もしそんな者を見かけたら、誰であろうと容赦なく首を落としなさい。羅刹の流儀ですから、覚悟なさいね」
そう言われても、とネズミは困惑する。今のところ鮮花を開けないのだから、異能の力を振り撒く死体なんて見かけた日には、逃げる以外の選択肢を取れそうにない。
「心配しなくとも、いずれあなたも戦えるようになりますから」
表情を読んだのか、紅子は安心させるようにネズミの額を撫でつける。
「それに、あなたの花は今日、開花するかもしれませんからね」
言うと、おもむろに紅子は懐から手巾を取り出し、生首の切断面を覆った。
そしてそのまま手巾に二本指を当てると、ずぶりと生首の断面に指を侵入させる。
「紅子様……? 何を」
「贈り物があると言ったでしょう?」
ぐにゅり、と肉を掻き分ける嫌な音を立ててから、突然、紅子は指を勢いよく引き抜く。
すると、赤黒い血で汚れた手巾越しに、同じ赤で濡れた〝花〟が摘まれていた。
「これが我ら羅刹の能力の根源、〈羅生界鮮花〉です」
紅子は花を綺麗に拭き取って、呆気に取られるネズミの手に乗せる。
血を拭われたその花は、白く澄んだツツジの形。
「普通の花に見えるでしょう?」
あ、はい、とネズミはなんとか応えて鮮花に触れて感触を検める。
どこからどう見ても、ただの花だ。なんの変哲もなく、そこらに転がっていればなんの感慨もなく見落としてしまうだろう。異能を司る花にしては、その見目はあまりにも普通だった。
異なる点と言えば、柔らかそうな見目に反して表面はとても硬い。花弁を折り曲げようと力を加えてもビクリともしない。
「カチコチですね」
「鮮花は外気に晒せば、金剛の如き硬さになります。ですが、羅刹の喉の中に生えている間は、花のように柔らかくなるのです」
「そうなんですね。不思議だなぁ、これが俺の喉の中にも……」
「では、どうぞお食べなさい」




