第四七話 茶畑
広葉樹が連なる、なだらかな山道──。
その前方を、青年が確かな足取りで歩いていた。
彼はふいに立ち止まり、背後の獣少年と白髪娘に頭を垂れる。
「ありがとうございますっ、まさか、そんなことになっていたなんて」
「いや、ミチユキさん……巻き込んだのは俺たちの方ですから」
ネズミも負けじと深々と頭を下げた。
本来なら、最大の被害者であるミチユキに謝罪される筋合いはない。そう思うと、居た堪れない気持ちがこみ上げる。
「ほんとに、ミチユキさんがなんともなくて良かった……」
「助かりました。そしてごめんなさい……オラなんかのためにお手間を取らせてしまって」
「頼むから謝んないでくれッ、ごめんなッ、私の妹が馬鹿なことして!」
ザクロが勢いよく言いながら、ミチユキの肩に手を添えて顔を上げさせる。
カリンの支配から解放されたあと、ミチユキはしばらく意識を失っていた。だが、朝日が昇るころには目を覚まし、こうして山道を歩けるまでに回復してくれたのだ。
ネズミとザクロは、彼が眠っている間に起きた出来事を丁寧に伝えた。その結果、今は互いに頭を下げ合う感謝と謝罪の交換会となっている。
ちなみに──。
モモ、タカオ、そして灰神と化したトオルの三人は、近くの山小屋で待機することとなった。灰神であるトオルを連れてミチユキの妻が暮らす集落へ向かえば、大騒動になるのは目に見えている。
ゆえに、タカオからの申し出により、ネズミとザクロだけでミチユキを送り届けることと相なった。
幸いなことに、タカオとトオルは長年にわたって金銭を投じ、足抜けする遊女たちのため、山中にいくつも隠れ家を建てていた。今は、その山小屋の一つに身を寄せている。
しばらく羽を休めてから、トオルを介錯する旅に出ると聞いている。海の見える場所に、トオルを埋めてやりたいそうだ。
「ネズミ様、ザクロ様、見えてきましたよ!」
しばらく、互いに労いを送りながら進んでいると、先導するミチユキが意気揚々と前方の景色を指さした。
道の先、広大な茶畑に囲まれた一軒の家屋が見える。
どうやら目的地である〈浪間村〉に辿り着いたようだ。
「あれ、嫁が経営してる茶屋なんです」
誇らしげに語るミチユキが言うには、浪間村はここから南方に位置する港町と、北東の千歳町を繋ぐ中継地点らしい。
海からも陸からも商人や観光客が通過してゆくものだから、飲食店や旅籠屋が密集する集落になっているのだとか。
「あー、ミチユキさん。ちょっと先に行っててくれる? ザクロとちょっと話があるから」
ネズミが気を利かせて、ミチユキの背を押す。
久方ぶりの妻との再会。背後に羅刹が控えていれば、気を遣わせ水を差すことになる。
それに、本当にザクロに話しておきたいこともあった。
「ありがとうございます!」
ネズミの心配りを察して、ミチユキは晴れやかに茶屋に向かって駆け出した。
その背を見送ると、ザクロの真紅の瞳がネズミを緩やかに向けられる。
「で、なんだよ」
「ああ……そうだな……」
ずっと察してくれていたのだろう。千歳町を脱してから、ネズミが妙にそわそわしているのを。
されど、いざ話すとなると少し勇気がいる。
「その……俺さ……記憶、戻ったよ」
「えッ、マジ?」
「マジ」
ザクロがぽかんと口を開けて、次の言葉を待ってる。
その美しくも間抜けな顔に笑って、ネズミは意を決する。
「それでさ、お前にありがとうが言いたくて──」
言いさして、ネズミは深々と頭を下げた。
「ザクロ、支えてくれてありがとう。人間だった頃も、今も、本当に助けられた」
「私の知ってる奴だったんだな?」
「うん。なんか、ずっと気にかけてくれてた。俺のことも、母ちゃんのことも」
思い当たる節があるのか、ザクロは「え……」と逡巡して、次のネズミの言葉を待つ。
「父ちゃんが、カリンさんの能力の被害で溺死して、ザクロがそれを看取ってくれた。それから俺と母ちゃんのことも気にかけてくれて、度々声をかけてくれたり──」
そう、思い出したこと羅列していると。
突然、ザクロの両手が伸びて、ネズミの顔を鷲掴みにした。
「お前ッ、お前! なんで私はお前のこと忘れてたんだ!」
焦燥を浮かべて上げた声音は、掠れるように震えていた。
「お前だ! 急に消えて……名前……お前の本当の名前……え……」
次には、苦悶に喘ぐような顔をする。
「思い出せない……なんでだ! 頭に靄がかかったみたいに……思い出せない……」
「わかるよ。気色悪い気分になるよね」
ネズミは頬にあてがわれたザクロの手を優しく包む。
覚えていてくれた。母が隠してしまったネズミ(少年)との思い出を、ザクロはちゃんと手元に手繰り寄せてくれたのだ。
「思い出してえな……悔しいな……お前さん、ずっとこんな思いしてきたのか……」
言いながら、ザクロが泣き出しそうな顔をして頭を抱えた。
それに同情しつつも、ネズミは苦く笑った。
「ネズミで良いよ。今は、そっちの方が自分だって、感じがするんだ」
風に揺れる茶畑を見つめて、ネズミは深く息を吸った。
やっとだ。そう、やっと過去を手繰り寄せられたのだ。
もう煩わしいから、思い出さなくても良いと思ったことも何度かあったが、いざ手元に戻ってくると安堵で全身が弛緩する。
人間だった。ちゃんと、苦しみ抜いて生きてきた、一人の少年だった。
母の犯してしまった罪を抱えて、神に背を向けた罪人でもあった。
だから、神の呪縛《正しさ》から逃れるために、獣になることを望んだ。
必死で、みっともなく、惨めな思いをしながらも、愚直に生きた少年であった。
それが少しだけ、ほんの少しだけ、今は誇らしい。
「名前は思い出せんが……お前さんの好きな食い物は覚えてるぞ」
感慨に耽っていると、ザクロが妙に嬉しそうにそんなことを言う。
「なに? 俺なんて言ってた?」
「私が握ったおにぎり、って言ってた」
言われてみれば、言ったような気がする。ただ、妙にクサイことを言ったものだ。
女子に向けてそんなことを面と向かって言えるのは、自分らしからぬキザったらしさだ。
「俺そんなこと本当に言った?……なんか恥ずかしんだけど……」
「母ちゃんの握った飯より美味いってさ」
その一言にたまらず、ネズミの腹から弾けるような笑いが込み上げる。
「ははははははっ、母ちゃん面倒くさがりだったからさ。作る飯のほとんどが美味しくなかったんだよなぁ。おにぎり握る時も、塩振らないんだよ。意味わかんないだろ? そこまでの手間じゃないのに、その一手間も手を抜くんだよ」
「知ってるわ。私も覚えてる……私がお前ら親子の様子を見に行ったとき、なんか風呂に入るのも面倒がってたよな?」
「ああ、そうそう。風呂嫌いだったんだよ。父ちゃんが死んでから、その面倒くさがりに拍車がかかってさ」
「見た目は落ち着いた大人の女って感じだったけど、ガキみたいなこと言ってたな。『お風呂から来てよ!』ってお前に駄々こねてた気がする」
「見かねたザクロが、何度か母ちゃんを風呂に入れてくれたよね」
懐かしいとばかりに、ネズミは感嘆の息を吐く。
溺死した父親をザクロが看取ってくれてから、ただの村民であったネズミとの関係も変わった。ザクロは都度、ネズミたち親子の様子を気にかけ、世話をしてくれたものだ。
ずっと、支えてくれていた恩に、ネズミが感謝を口にしかけると。
「そうそう! お前の母ちゃんのおっぱい、めちゃ綺麗だったな!」
「やめろ……母親の乳の話、聞きたくない……」
「左乳首の隣に、星型のホクロあった」
「マジやめろ……思い出さなくても良いことを意識させるな……」
「お前に母乳やってた頃に、お前に噛まれたんだと。それからそこに星のホクロが出来たって、なぜか自慢げに語ってたよ」
「……やめてくれぇ……超恥ずかしい……」
顔覆って、ネズミはその場で崩れる。頭から湯気が出そうだ。
それと同時に、先行きが不安になる。
「今後、ザクロに恥ずかしい過去を抉られるのかもしれないと思うと……めちゃくちゃイヤなんですけど……」
「お前の母ちゃんに色々聞いてるからな。お前さんと揉めたとき、その引き出しが解放されることになる」
「くそぅっ、思い出したなんて言うんじゃなった!」
ザクロが意地悪く口元を吊り上げて笑う姿に、ネズミは嘆くも、どこか安心していた。
記憶が戻ってしまったら、二人の関係性が変わってしまうのではないかと不安を募らせたこともあったが、むしろ良い方向に深まったのかもしれない(不利を取られているが)。
そこから、ちらほらと思い出話に花を咲かせていると、
「お前の母ちゃん──」
ふと、ザクロが喉からまろび出た言葉を、押し留めた。
何を言いたかったか、ネズミにはわかる。
今、どうしてるのか。どうなっているのか。聞きたかったのだろう。
しかし、ネズミの現状を踏まえて、ザクロは察し、深く聞くことを憚ったのだろう。
恐らくもう、母はこの世にはいない。
ネズミの隣で灰神と化していたのだ。生きてるわけがない。
それに、隠された記憶が蘇ったと言うことは、母の鮮花の効力が切れているのだ。
つまりは、どこか知らない場所で、鮮花を摘まれたということだろう。
「馬鹿な母ちゃんだったよ」
ネズミは心底と呆れるように言うも、その響きは怒りと赦しが滲む声。
母親として、間違った人だった。寂しさに囚われて、息子を裏切り続けた。
されど、また母の作る不味い飯を食いたくなるのは、今まさに腹が減ってるからだろうか。
「ザクロ、飯食おう。その後、続きを話すよ。今はもう、腹が減って頭が回らないや」
ネズミが力のない笑みで言うと、ザクロは自身の白髪をバツが悪そうに掻いた。
「まあ……なんて言ったら良いか……わかんねえけどさ」
深く一息吐いて、ザクロは何を思ったのか、いきなりネズミの背後に回って背中によじ登ろうとするのだ。
「イデデ、何? 何してんの?」
「お前さん、色んなもの背負って獣になっちまたんだろ? なら──」
今は私を背負ってくれよ。と、そんなことを言って、ネズミの丸い肩に跨るのだ。
「意味がわからない……なんでまた肩車?」
「辛気臭い顔でネズミが近づいたら、ミチユキの嫁が驚くだろ? 胎の赤ん坊にもよくない。だから、こうすれば驚かれない」
「話の導線が繋がってない上に、そんなに肩車は万能じゃないぞ。むしろこっちの方がびっくりされるだろうが」
「いいや、されないし、お前さんは私を背負うべきだね」
ネズミの耳を手綱のごとく握って、ザクロはカラカラ笑う。
「もう面倒なもん背負ってしょげんなよ? ごちゃごちゃと気を回して肩も落とすな。羅刹になっちまった以上、馬鹿みたいに図々しく生きるしかねえんだから」
「いや、今、まさに喧しい女を背負わされて、背中を曲げそうなんですけど?」
「じゃあ、どうしても煩わしいなら振り落とせ。そうしたいならな」
言われて、ネズミは深く、魂を揺さぶられるような感覚を覚える。
その戸惑いがなんなのか、はっきりと正体が掴めない。
「何を言いたいか……よくわからない。振り落とすわけないだろ……」
「記憶が蘇った今、背負うもんを自分で選び取れるってことだ」
遠回しに、これからどうするか聞いているのか。それともまったく別のことか。
ネズミは察することができず、首を傾げていると──
「できることなら、私も選べよ? お前さんが生きる理由のひとつに、私を選んで背負ってくれ」
そんなことを言う。縋るような響きもなく、命令するような傲慢さでもない。
ただそこにある花が、ゆらり揺れるような、そんな静けさだった。
「……選んでるだろ」
「そうか。そりゃ重畳」
ネズミの短く不器用なひと言に、ザクロも多くは語らず。
ただ前を向いて歩むネズミのゆっくりとした足音が、緑風に穏やかに溶けてゆく。
眼前の茶屋から腹の虫を誘うような湯気が、静かに立ち昇っていた。
これから二人の間で、たくさんの思い出話に花が咲くのだろう。
それはそれは、大変に、重畳なことだ。
第二部はあと一話だけ続きます。
次はモモとタカオのエピローグ。




