第四五話 忠者慟哭
朧げな視界の中、カリンの目に飛び込んできたのは、ゆらり揺らめく影だった。
肌に感じる枯れた夜風の冷たさ、鼓膜を打つ木々のざわめき。鼻腔に飛び込む焚き火の焦げた香りが、意識を撫でて半身を起こさせる。
「起きましたか」
微睡むカリンの隣、敷物の上に腰を落とした母が、片手を伸ばし額を撫でてくれる。
袖から香るその甘い花の香りに、呆然としたカリンは「ハッ」と息を呑んで覚醒する。
「おはようございますっ……母上、ここは?」
「千歳町から北西に三里ほど進んだ森の中で休憩中です。ここからもうしばらく歩けば、私の枝が潜伏する集落に辿り着きます。まずはそこであなたには英気を養ってもらいます」
「なるほど……何から何までありがとうございます」
言いながら、カリンは瞼を擦ってぼやけた視界を拭い、よく晴れた夜空を見上げる。
頭上に生える広葉樹の隙間から半月が垣間見える──その位置から察すると、現在の時刻はおよそ夜八つ(深夜二時)。三刻(六時間)は寝ていたことになる。
今からあの獣物どもを追いかけても、追いつくことは不可能。夢に落とされたせいで使役にかけた千歳町の町民も解放されてしまっている。人海戦術で足取りを追う手も使えない。
「カリン様ッ」
溜息を吐いて項垂れていると、薪を両手に持ったゼイゾウが駆け寄ってくる。
「お目覚めですか!」
その老爺のやたらと大きい声が、カリンの頭に響いて痛む。
静かにしろ、と苛立ちをぶつけたいところだが、無惨に敗北するところを見られてる手前、大きな態度で接することに気が引けて、
「ああ、ゼイゾウ。お前にも世話をかけている。無様に敗北した挙句、ひどく労をかけた」
そんな労いを送って、肩に手を添えてやる。
すると、ゼイゾウは妙に芝居めいた首肯を打った。
「カリン様は立派に策を講じておいででしたッ、このゼイゾウ、あなた様の手腕に感動を禁じ得ません!」
殊更に大きな声で褒めそやす。
そのわざとらしい態度は恐らく、母が近くにいるからだろう。少しでも香梨紅子への忠義を示したいがあまり、過分な言葉でカリンを持ち上げているのだ。
「ああ……そうか……」
付き合うのもアホらしくなり、カリンは側に置かれた竹筒を持って口に水を流し込む。
目覚めたのならやることは決まっている。追いつけはしなくとも、奴らが逃走した方角を掴むことはできるかもしれない。
「母上、せっかくですが、僕はこれから奴らの足取りを探ってきます。このまま距離を離され続ければ、所在を掴むのは困難に──」
使命感に突き動かされて立ち上がると、ふらりと力無くその場に膝を折った。
カリンは思わず戦慄する。寝ぼけた拍子に転んだのではない。まるで、足の動かした方を取り落とすような感触。
「無理をしてはいけませんよ」
「す、すみません……」
紅子の手がカリンの背中に添えられ、優しくその場に娘の肉体を横にする。
「足は動かせますか?」
「ダメです。太ももから下に力が入りません」
「まあ……夢の中で暗示を植え付けられましたか」
紅子はカリンの足を触診し、感嘆するように息を吐いた。
「足に異常はありません。あなたの精神に干渉して、足の動かし方を忘れさせた……夢誘の花、侮れませんね」
「絡舞紀伊の報告では、眠りに落とすのみと聞いていましたが……」
今起こっている現象と、カリンが事前に聞いていた情報とでは大きな差異がある。
目覚めてからも後遺症を残せるとは、絡舞紀伊の口から聞いていない。
「母上……絡舞が嘘を……?」
「恐らくそれはないでしょう。考えられるのは──」
紅子が目元の白布を撫でて、面白いとばかりに笑みをこぼす。
「ネズミの鮮花による〈同期覚醒〉でしょうね」
「同期……ですか……?」
「はい。鮮花は植物の生態を色濃く受け継いだ寄生虫です。ネズミが灰神となって〈生編の花〉を肉体中に咲かせ、多くの花粉を撒いたからでしょう。タカオの花もそれに引き摺られて、一時的に能力の強化を成し遂げた──まるで桜の狂い咲きですね」
桜という植物は、激しい寒暖差に晒された真冬の夜、まれに季節を誤って咲くことがある。その開花は春の祝福とは違う。どこか儚く、不吉な美しさを纏うもの。
カリンは思わず息を呑む。
あまりにも危険な現象だ。自分もその影響を受けてしまうのだろうか。
「奴が能力を振い続けると、ザクロなどにも影響が? 僕も……奴と対峙し続ければ、能力が変質してしまうのでしょうか?」
「そういうこともあるでしょうね。しかし──」
紅子は人差し指を立てて補足する。
「私の娘たちはすでに、私の〈生変の花〉と同期覚醒を成していますから。並大抵の影響力では変質をもたらさないかと。近くにいるザクロはともかく、あなたは今のところは心配する必要はないでしょうね」
その紅子の言葉に、カリンは驚いて目を見開く。
「知りませんでした……僕たちも母上の影響で能力が変質していたのですね」
「リンゴが良い例でしょう。彼女は赤子の頃は〝風を操る羅刹〟でした。しかし、私と共に過ごすうちに、ツバメを生み出す能力に変質してゆきました」
そうだったのか、とカリンは喉元に指を添える。
己の〈使役の花〉も、元は違った能力だったのだろうか。母の影響下で変質したのならこれ以上になく光栄なことだ。
そんな感嘆に、口を開きかけると──。
「ああ……刻限ですね……」
母が無念そうに呟く。
仮初の肉体──その指が小刻みに震えていた。
「この肉体は借り物ですから、私が動かし続けるのも限度を迎えたようです」
今動かしている肉体は、元は弥内千子なる羅神のものであると聞く。
流石に香梨紅子といえど、永久に他者の肉体を乗っ取っていられるわけではないらしい。
「カリン、あなたはこのまま北西へ。予定通り、そこにいる枝と合流し、次の一手を練りなさい」
「はい、畏まりました。ゼイゾウと共にそちらに向かわせて頂きます。その肉体はどうなるのでしょう?」
「あなたとは別行動になるでしょう。弥内千子にも成し遂げたい目的がありますから」
言いながら、カリンの頬を撫で付けて、紅子/弥内千子が立ち上がった。
「ああ、そうそう。最後に──」
言いさして、母は背後に控えるゼイゾウに手招きする。
「ゼイゾウ、こちらへ」
呼ばれたゼイゾウ、まるで犬ように駆け寄ってその場に膝を折る。
「よく働きました。これまでの忠義に、私から感謝を」
「ああ……ッ、身に余る光栄! あなた様にその様なお言葉を頂戴できるとはッ」
感涙に瞳を濡らしたゼイゾウに、紅子は立ち上がるように指示を送る。
そして、母がその恰幅の良い老体に抱きつくのだ。
「ありがとう。私と、カリンを支えてくれて」
「べ、べ、紅子様ッ、このような──下賤なわしのような男に、ほ、ほ、抱擁を!?」
ゼイゾウは慌てふためきながら謝辞を口にし、傍で身守るカリンも思わず驚嘆する。
破格の待遇だ。香梨紅子が娘以外と抱擁を交わすなんて。
「あなたはよくやってくれました」
「こ、こ、このゼイゾウ、これからも粉骨砕身の働きをしたいと……へ?……」
突如として、ゼイゾウの言葉が途中で切れた。
間抜けな呼気が漏らして、枯れるような疑問符を打つ。
「ゼイゾウ?」
声が思わず漏れた。何が起こったのか。
地面に横になっていたカリンも、思わず半身を起こして見ると──。
老爺の体が、ほんの少しだけ後ろに揺れた気がした。
その瞬間、赤い雫が、地面を歩くのだ。
ポタリ、ポタリと、彼の足元に円を描くように、四方に拡がって。
「ぶぇ……にこ……しゃま……?」
ゼイゾウがたまらず、腹を抑えて二歩ほど後退り。
「な……んずぇ……ですか……」
手を添える腹部から、ダラダラと止めどなく血流が流れ落ちた。
ゼイゾウが荒い息を吐くたびに、地面に出来た赤い池がちゃぷんと揺れる。
「母上……」
カリンは揺れる瞳が、母の手元を捉える。
母の片手に──血に塗られた紅雀が握られていた。




