第四一話 絡舞人業
「ヒョ──ッ」
裂帛の咆哮に気圧され、百足が小さく悲鳴を上げる。
それを使役する絡舞紀伊本人もまた、冷や汗で背中を濡らす。
──おかしい。
おかしい、おかしい。
今し方、あっけなく蹴り飛ばされて床に転がされた。
何故だ──羅神の座に君臨してから、あらゆる羅刹を跳ね除けてきた。
多くの死線を潜り抜けた経験値が、この身に深く根付いている。
にも関わらず、ここまで好き放題されてしまうとは。
「──ッ!」
床に伏した人形の身体を起こしながら、絡舞はある違和感に瞠目する。
人形の腕という腕が震えている。それを使役する神輿に乗った自分の手も、恐怖によって小刻みな震えが起こっていた。
「「グルルルルルッ!!」」
駆けるネズミの口から、獣じみた唸りがほとばしる。
瞬く間に間合いを詰められて、百足の顔面を殴りつけられる。
その凄まじい一撃と共に、ネズミの拳から炎が弾けて吹き上がるのだ。
──違う。
違う違う。
こんなはずじゃなかった。
「「オオオオオオオオ──ッ!」」
灰色の影が再び、咆哮と共に迫ってくる。
まだ殴り足らないのか。まだ燃やす気なのか。
ネズミのそれは、理性のある動きではなかった。
ただ殺意と怒りの塊となって、荒々しく跳びかかってくる。
その癖、巧みにこちらが振るう斬撃を往なしてくるのだ。
なんだ、この化け物は。
香梨紅子様の──絶対なる神の花弁の一つとは聞いていた。
だから、油断などしなかった。
だから、最終兵器をこの社に配していたのだ。
──なのに。
それなのに。万全に臨んでいたのに。
「ヒョオオオオン!」
渾身の勇気を振り絞り、百足《絡舞》はネズミに立ち向かう。
残った刃を振るい、縦横無尽の剣線を振るった。
しかし、炎を纏った拳に弾かれ、強靭な獣歯で砕かれる。
「「ガンバレッ」」
そして、そんな活声とも取れるうわ言を吐かれながら、無惨にまた殴られる。
「「ガンバレッ アキラメンナッ」」
百足の顔が砕かれて、木製の頭蓋が外に晒される。
数多の腕を一本また一本と、齧っては引きちぎられてゆく。
そして次には、唐突に腹を蹴られて壁まで吹き飛ばされるのだ。
「「イキテルカギリィ アキラメンナッ」」
──来るな……来るなッ
絡舞は恐怖し、百足は這うように後退させる。
悪夢にしても、狂気に染まりすぎている。
応援されながら、虐待を繰り返されるこの有様は。
あまりにも耐えがない、地獄そのものだ。
そう思った瞬間。
神の言葉が、絡舞の脳裏を過ぎる。
『羅神教に天国も地獄もありませんよ。全部、あなた次第』
そうだ。そうなのだ。
あの日、目玉を貰ったあの瞬間から、己を呪うことはやめた。
ふと、絡舞は視線を移して、百足の目玉でタカオとトオルを捉える。
タカオは生きた瞳で、こちらに憎しみを込めた視線を。
トオルは死した瞳で、こちらに憐れむような視線を送っている。
手塩にかけて育てた我が娘たち。
儚げで愛らしく、こちらに縋るような美がそこにある。
手に入れたいのだ。アレらを。
自らの手で産み出せない美しさが、自らの手の中に永久に存在させたい。
人形では満たされない心の充足が、あそこにあるのだ。
──手に入れるのだ。
絡舞紀伊は奮起する。絶対に手に入れるのだ。
眼前の、炎を纏う獣さえ打倒すれば、全てが手に入るのだ。
「「アキラメンナ」」
獣のうわ言に後押しされる。
諦めらめない。諦められるはずがない。
「「アキラメンナ──ッ!」」
──諦めてなるものかッ。
百足《絡舞》は心に炎を灯して、炎獣へと踊りかかる。
人形の手に残された打刀は五本──十分に勝機はある。
「ヒョオン!」
甲高い叫声を放ち、百足はネズミに刺突を放つ。
一本、二本、ひらりと躱され、腕の一つに噛みつかれた。
──馬鹿めッ、それは囮だ!
三本、四本、間髪入れずにネズミの喉元に放つ。
流石に、鮮花が宿る位置に危機が迫るとなると、
「「グゥオッ」」
ネズミが戸惑うように呻き、齧り付いていた百足の腕から口を離す。
その途端──すぱんっ、と、肉が裂ける音がした。
「「ガアアアアアッ」」
獣の絶叫が打ち上がり、目玉を抑えて一〇歩の距離を後退する。
百足《絡舞》の企みは、見事に実を結んだ。
一から四の刀で気を逸らし、人形の巨体に隠した五本目で獣の両目を水平に刈り取ったのだ。
やはり単純にして未熟。
怒りに囚われた獣の動きなど、少し策を弄せば対処できる。
しかも、その成果は想像以上の花を開いてくれた。
獣が纏っていた炎が、徐々に小さくなってゆくのだ。
目玉の回復を優先させているのだろう。攻撃と防御は同時に行えないようだ。
──後は、目玉が回復する前に。
百足《絡舞》は大きな目玉をギョロリと剥いて、呻くネズミの喉元に狙いを定める。
香梨紅子からこの獣の捕縛を命じられていたが、最早、殺してしまっても構わぬ。
きっと許してくれる。あの慈悲深き神であるなら。
きっと褒めてくださるだろう。鮮花さえ回収してしまえば。
「ヒョオオオンッ」
百足は素早く駆けて、間合いを吹き飛ばすようにその巨体でネズミへ迫る。
残り八歩──。
二本の打刀の切先を立て、獣を刺し貫く構えを取る。
残り七歩──。
残った三本の刀を水平に寝かせ、首を刈る構えを取った。
残り六歩──。
そこまで詰めて、ふと一瞬、鼓膜を打つ低声があった。
獣の口から、呻き声とも違う、芯のある声音が漏れている。
「「唵、堕母羅尼、修羅秘理定業。恩、抱児羅尼、修羅秘儀胎蔵」」
かの響きは、まごうことなき、羅刹真言だ。
香梨紅子が信者に授ける、没頭(極限集中)を促すための呪文。
そんな祈りを、眼前の獣が唱えているのだ。
「「唵、堕母羅尼、胎殻阿我羅苦、恩、抱児羅尼、空骸波我羅苦」」
残り五歩──。
狂っているのか? 死に際に、神への祈りを捧げているのか。
そう思った瞬間、ネズミの口が大きく開く。
目元からダラダラと血を流しながら、顎が外れるほどの大口を。
──目玉を回復させていない、だとッ?!
百足《絡舞》は心内で驚愕に染まる。
なぜだ。なぜ目玉の回復に集中を回していない。
何をする気なのか。
残り四歩──。
絡舞の浮かべた疑問の、その答え合わせとばかりに。
ネズミの口から、盛大に火花が散るのだ。
「「オゴッ オゴォ──」」
嘔吐でもするように咳き込んで、獣の肉体が波打つ。
そして次には、喉に詰まった異物を取り出すかのように、口の中に手を突っ込むのだ。
残り三歩──。
ネズミの唾液に濡れた手が、引き抜かれてゆく。
その手に握られているのは、輝くような〝白色の柄頭〟
──それはッ
残り二歩──。
濡れた口腔から、ずるりと音を立てて、純白の刀身が咲き誇る。
引き抜かれたそれは、血をべったりと纏う白骨の打刀。
見紛うはずもない。それは〈生変の花〉でしか造れぬ代物。
香梨紅子の骨から作成される、二つとない神刀である。
──白骨刀〈紅雀〉
絡舞は戦慄し、全身を粟立たせる。
カリンに奪われた紅雀を、己の口から産み出すとは。
──さっさと始末しなければ。
おぞましい灰獣が、神の頂に手をかけた。
その事実が、有様が、より絡舞の身を駆り立てる。
残り一歩──。
百足《絡舞》は恐怖を払うように、全身全霊の咆哮を放つ。
「ヒョオオオッ!!」
蹂躙し、奪い、理想の美を積み上げてきた、己の人生を乗せて。
打刀を大きく振りかざし、いよいよ獣に振り下ろす。
そのとき、意識に割り込む声がするのだ。
『目ぇ開けろッ 変態野郎!』
荒々しく吠える、神の子──ザクロの声。
獣を援護するため、咆哮をぶつけてきたのだ。
無数の人形を撫で切りにし、神輿の上に手をかけてきている。
その危機感に、一瞬、気を取られてしまった。
──まずいッ。
集中が乱れ、振り下ろしかけていた打刀の軌道が鈍る。
その一瞬が、命取りだった。
白い閃光を帯びて跳ね上がる、血と唾液に濡れた紅雀。
空を裂いた一閃が、百足が振るった五本の打刀を弾き飛ばした。
金属の上げる悲鳴と共に、百足の腕も弾き飛ばされる。
ネズミの返す刀、落雷のような袈裟斬りが走った。
「ヒョ……オ……」
呻きともつかぬ声が、百足の口から漏れる。
ネズミの放った剣線は、絡舞《百足》の胴を左肩から右腰まで斬り伏せたのだ。
人形の巨体はぎしぎしと軋みながら、崩れてゆく。
巨大な頭部が下がり、眼前の獣に向かって頭を垂れる形に。
「「ココカ」」
ひと言、まるで探し物を見つけたかのように呟く。
そして、獣が荒々しく百足の長い黒髪を掴んで引き倒す。
「「シマイダ」」
「シマイダ」
絡舞の意識に、二つの声が重なった。
百足の顔面を掴む灰獣、ネズミ。
絡舞を見下ろす女羅刹、ザクロ。
少年と少女の勝利宣言が、離れた五重塔と遊郭を一つに結ぶように共鳴する。
「ま、待てッ──」
その絡舞紀伊の懇願が、物悲しく地を這った。
娘たちにそうしたように、支配の糸で縛ろうとするも、待ってはくれない。
「──ッ」
容赦なく振り下ろされる二つの刃。
異なる地で振るわれた二振りの神刀が、まるで交差するように線を描く。
その軌跡が、百足と絡舞の首を横断した。
それぞれの地で、飛沫を上げて落つる首。
その一つ、神輿の上に転がる首が、最後に口にするのだ。
「欲しかったのだ……のだ……」
何を欲したのか。その声は誰にも届かなかった。
神の首が落ちた瞬間、見物していた町民が悲鳴と怒号を上げたから。
絡舞紀伊の最後の怨嗟は、首を刎ねたザクロの耳にも届かなかった。
「手に……入れたかった……」
永久に続く、慈しみを。
よく晴れた秋の日、空気の澄んだ神祭る夜。
千歳の羅神──傲慢なる絡舞紀伊。
その人形の花が、今宵、摘み取られた。




