第十話 それから
「おや、珍しい。ザクロ様が社の近くまで来られるとは……」
「うるせーな」
「どういう気の変わりようで?」
古い刀傷が刻まれた顎を手で触れながら、彩李が訝しげな声音で伺うと、ザクロは頭に乗った笹の葉を払って素っ気なく言う。
「ほっておけ。何処にいようが私の自由だ」
少年が香梨紅子に謁見していた頃、川でカリンの能力の被害者を救出して回っていたザクロは、一通り見回りを済ました後、母の住する社の門前へと足を運んでいた。
訳あって、母を避けている身の上にも関わらず、どうしても少年のことが気になりだし、社を囲う竹林から恐る恐る様子を伺うと、目ざとい老婆に見つかった次第だ。
「そんなことより、あいつはどうなった? 無事か?」
「ええ。今は気絶……否、熟睡しておいでです」
「は? なんで?」
「紅子様に尻尾を切断されてしまったと」
彩李が指差す方向、社の裏手に大の字で寝ている毛玉がいた。次女のミカンの膝枕に頭を預け、呑気に鼻から提灯を膨らませ、丸い腹を上下させている。
ますます珍妙で愉快だと、ザクロは嬉々として歩き出す。
そこでふと、彩李がザクロの肩を突くのだ。
「せっかくですから、紅子様に会って行かれますか?」
余計な提案であり、煩わしい問いだ。
「会う……わけねえだろ……」
歯切れを悪くしてザクロが先を進むと、彩李から深い溜息が一つ漏れる。
「気持ちはわかります。ですが、紅子様もあなたを思っての──」
「黙れババア。どうせ母上は社から出てこない。なら、好きにさせてもらう。これでこの話は終いだ。お前がどんなに言葉尽くそうと、母上の信者である限りは狂信者の戯言だ。私の問題に口を出すな」
振り向きもせずに、ザクロは眉尻を吊り上げてそんなことを言う。
ザクロにとって香梨紅子との軋轢を突かれるのは虫の居所が悪い。あの母親の話題に触れて、気分が良くなった試しがない。老婆に懇々《こんこん》と言われなくとも、いつか母との関係に結論が出る。
自分が、香梨紅子に逆らえないという結論が。
ヘソを曲げたザクロと肩を落とす彩李。会話もなくとぼとぼ歩き、横になった少年の傍に膝をつくと、ミカンが呆れるように笑う。
「また喧嘩したの?」
「した。口うるさいババアが悪い」
「懲りないね」
「人のこと言えんのかよ? ミカン姉だっていっつも──」
言葉を切って、ザクロは首を振る。この次女と口論している場合ではない。眼前に面白い存在が転がっているのだから。
「んなことより、こいつの名前は?」
ザクロが聞くと、ミカンの表情が曇る。
そして、わずかに顔を伏せてその名を口にする。
「ネズミ……だって」
名を聞いて、ザクロはあんぐり口を開いて絶句する。
「マジかよ……母上が名付けたのか? そのまんまじゃん……」
「……うん」
歯に衣着せぬ物言いをするザクロであるが、そのあまりの名付けに、流石に答えを窮した。
ミカンが『ネズミ』などという名前を許容できるはずはないと、ザクロは知っている。その優しさを知っているからこそ、ミカンを傷つけないように言葉を選んでしまう。
「そうか。まぁ……なんだ……その、耳馴染みは良いんじゃね?」
「そうだね」
ザクロの苦し紛れに出した言葉に、ミカンは力なく同意し目元を伏せた。
この土地で、神として君臨する香梨紅子に異を唱えるということは不可能なことだ。それを幼い頃から姉妹達は痛感している。いくら神が理不尽でも、受け入れるしかない。あれに抗えるほど、誰も強くない。この環境に順応するしかないのだ。
されど、惨めな名であっても、不幸と思うか否かは名付けられた本人次第だ。
「こいついくつ?」
「十四だって。ザクロと同じだね」
「そうか」
目の前で大の字で寝ているネズミの呑気な寝顔を見て、ザクロに笑みが溢れる。
「同い年だってよ、ネズミ」
ザクロは屈んで、ネズミの顔を覗き込む。見れば見るほどに面白い顔をしていた。
「お前さんも不憫だな。こんなやべえとこで羅刹になっちまうなんて」
言うと、「むにゃり」とネズミの大口が開いた。
そこから見えた光景に一同は首を傾げる。
「あ? 何じゃこりゃ? 鼠? じゃなくね?」
「ちょいと失礼」
閉じかけたネズミの口に強引に指を滑り込ませた彩李が、興味深そうに検分し始める。
「齧歯類の歯の並びではありえません。まるで狼や犬のような形です」
鼠に類する齧歯類は硬い物を砕いて食すため、長く平たい前歯(門歯)が生えているはずだ。しかし、ネズミのそれは長い前歯など存在しない。草食動物の喉笛を噛みちぎれそうな、鋭い犬歯が生え揃っていた。
「ますます面白いな。お前さん何者なんだ?」
おもしろきことは花である。
ザクロは笑って、ネズミの額を撫でつける。
「お前の寝床、用意しないとな」
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