第一話 獣となった少年
花の羅刹とは──
心軋ませ、涙する者に、
一輪の花を差し出すような心根。
苦痛を乗り越えた者だけが、
真に届きうる境地でございます。
覚悟はできていますか?
他者の心に寄り添う、美しき花となる覚悟が。
──伊紙彩李
✿
この目は、やけに周囲を見通し、この耳は、ひどく川のせせらぎを鮮明に拾う。
鼻の両脇から伸びる長い髭が、夏風に靡なびいてゆらり揺れていた。
人の身ではあり得ないその感覚に、心臓だけが外へ駆け出してしまいそうで。
「どうしよう……」
ときは盟示七五〇年、七月。
ところは大和大陸が東北の地、暮梨村。
豊かな森林に囲まれた村外れの川岸。春は過ぎ去り、夏の日差しが照っていた。
穏やかな水の調べと共に、優しく鳥がぴちゅんぴちゅんと囀っている。
昼寝でもしたくなる陽気だが、川縁で屈んだ少年は、それどころではない。
少年は自身の肉体を見下ろした。
日差しに照らされた肉体は、隙間なく灰色の体毛が生え揃っている。
手足の形も人間ではあり得ないほど歪で、やたらと爪が長い。
体格も丸く、背骨も老人のように曲がっている。
極め付けは、尻から生える長い尻尾だ。
こんなものが生えているならば、認めるしかない。
──鼠だ。
水面に映る自身の姿を確認して目眩を覚える。
なぜ自分がこのような獣の姿に。何が起こっている。
途方に暮れ、絶望に伏し、困惑に身を浸していると、
「どこ行った!?」
背後から怒声が響く。
しまった、追ってきたのか。捕まればどんな目に合うかわからない。
少年は怖気に駆られ、急ぎ近くの茂みに飛び込んだ。
「ほんとうに見たのか? 喋る鼠なんて」
「見たッ、信じられねえかもしれねえが、俺とさほど背丈の変わらない大きな鼠が喋ったのだ。ありゃ何か化け物の類に違いねぇ」
鈍い光を放つ鉈をたずさえ、二人の男達が、物々しくが近くを駆け抜けた。
少年は茂みの中で息を潜め、それをやり過ごすと、安堵の息を吐いて全身を弛緩させる。
それと同時に、自身の先行きを案じて、丸い肩がさらに下がった。
「ああ……ほんとにどうすればいいんだ……」
起きたらこうなっていた。起きたら既に、獣の姿に成り果てていた。
そんなことを一体、誰が信じてくれるだろう。
少年は体毛で満たされた相貌を腕で覆って地面に崩れる。
身を寄せる場所や頼れる人物に心当たりがあれば、わずかに救いがあった。
心に一粒の希望を持てただろう。
しかし、さらに困ったことに──記憶がない。
自身の名前、家族の顔、友人の有無。そのすべてがごっそり抜け落ちている。
目覚めた場所も身に覚えのない狭い住居だった。
寝具や箪笥、玄関に置いていた草履でさえ他人の物に見えた。
今振り返れば、他所様の家に侵入し、勝手に布団を広げて寝ていたのかもしれない。
──ない、ない、ない。
人間ではない。記憶もない。寄る辺もない。自分の持ち物さえない。
唯一、頭の片隅に残されているものは、自分は比較的に年若い男であることだった。
まだ結婚も煙草も許されぬ年齢であるという肌感だけが、手元にぽつんと残っていた。
その霞のような手がかりのみで、どうにか自身の記憶を探るも、頭を巡らせれば巡らせるほどに途方に暮れる羽目に。
このままではダメだ、と寝ていた住居から外へ赴き、顔でも洗おうと水場を探して彷徨っていたところ、幸か不幸か、第一村人を発見した。
思わず縋るように話しかけると、少年の顔を見た村人は途端に相貌を恐怖に歪ませ、
『化け物ぉおおッ』
などと喚き散らし、一目散に逃げてしまった。
二足で歩く大きな鼠が人間のように喋りかけてきたのだ。無理もないのはわかっているが、少年の心を存分に抉る出来事だった。
そして、悲しみに暮れながら川岸を探り当て、水面に自身の姿を写していると、ぎらりと光る鉈や鎌を片手に、村人数人に追いかけられる始末。
「ハハ……ほんとうに、ひどい有り様だ……」
少年が茂みから這い出て視線を落とすと、足元でレンゲショウマの花が静かに咲いていた。
この花は夏に差し掛かってくると、群を成して木陰に咲くものだが、『生まれてきてごめんなさい』とでも言うように、花弁を下に向けて開くのだ。
そんな有様を見て、自分も頭を下げて生きていくことになるかもしれないと、少年はどうしたって思ってしまう。
「うぁ……助けてくれぇい……」
人であるなら何処ぞの村で暮らしていける。記憶は無くとも仕事はできる。
人並みの生活を送り、人並みの幸福を享受できる。
しかし、人の形を成さない喋る獣はどうなるか。
殺されて終いか、見せ物小屋にでも幽閉され、惨めな生涯を過ごすことになるか。
そんな痛ましい自分の行末を存分に巡らせていると──。
「だぁッ、煩わしい!」
荒々しい怒号と足音が、川の向こう岸から鳴り響く。
少年は瞬時に、近くに生えた針葉樹の木陰に身を潜めた。
まずい、追加の追手か。
緊張に身を硬くし、少年は固唾を呑んで声がする方を凝視する。
すると──
少年の視界に、白髪の美少女が飛び込んだ。
「せっかく昼寝してたってのによ」
そう呟いた少女は、少年からおよそ三〇歩離れた河川、そこに横たわる大岩の上に立っている。
歳の頃は十代前半、首筋に掛かる透き通るような白髪と、死装束のような純白の着物。
目を奪われるほどの端正な相貌に、鋭い真紅の瞳がおさまっている。ひと目で気の強そうな性根が垣間見える。
少年がその少女の姿を捉えていると、なぜだか心に一筋の光が差し込んだ。
──話してみるか?
わずかな勇気をもって、木陰から一歩踏み出す。
男たちには容赦なく追われてしまったが、あの少女は、どこか違う気がする。
ぶっきらぼうでありながら、神秘的かつ理知的な空気を感じさせる。
話を聞いてくれそうな予感を、なぜだか感じ取れてしまう。
──逃げ続けても、変わらない。今、賭けなければ。
渾身の勇気を振り絞り、少年が片手を上げて、声を発しようとした。
そのとき──。
花の羅刹を見つけて頂き、ありがとう御座います。
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