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そこにないならないですね

作者: quiet


 どれだけ隠れられるかではなく、誰かに見つけてもらえるか、という遊びだったのだと思う。

 今にして思えば、その頃の私たちにとっての『かくれんぼ』というのは間違いなくそういうものだった。子どもたちは放課後、ランドセルを抱えたままで枯れた向日葵畑に駆けていく。誰も数えない。もういいかいなんて死んでも言わない。日が暮れていく。焦げ臭い匂いが赤黒い色の共感覚として現れる。背の高い人々が現れて、子どもたちを見つけてはその手を引いてどこかへと立ち去っていく。もういいよなんて口にする余地はなく、皆が連れ去られていく。誰かに見つけてもらえた人間は幸福だと思いながらぼんやりと土を見つめている。蟻がずっと列を組んで、気持ちが悪いくらい大勢で穴の中に入っていく。だから私は今でも夕闇を見るたび蟻臭いなと感じて、肌がぞわぞわする。やがて夜が来る。途方もない時間が経つ。もういいかいなんて死んでも言わない。もういいよなんて死んでも言わない。誰も数えない。死んでも数えない。どれだけ隠れられるかのゲームではなかった。誰からも気にされない人間は、行動を起こすまでもなくすでに隠れている。誰かに見つけてもらえるかの遊びだった。たかがゲームで、遊びで、でも生きることはほとんどゲームそのもので、ゲームの繰り返しだったから、私はどんどん途方にくれて、傷付くということを覚えかけていて、

 わん。

 顔を上げると、犬がいた。

 だからそれ以来、私はずっと、その犬と暮らしている。



i――――i――――i



 七つ目のクイズは、珍しく犬の方が外した。

「まちがえちゃったね」

 私が笑うと、しかし犬は困るでも怒るでもなくして顔を上げて私を見た。自分が何をしているのかわからない、とでも言うような顔。本当にそうなのかは知らない。私と犬の間には残念ながら言語性のコミュニケーションはほとんど成立しない。できるのは、この小さな他愛のないクイズ本の問題文を私が読み上げて、それに合わせて犬が首を縦に振ったり横に振ったりするだけ。私はイエスとノーを勝手に判断する。ここには因果関係についての誤解があるようにも思われるけれど、しかし一体本当に誤解と呼んでいいのだろうか? モンタージュは人生のあらゆる場所で現れるし、私たちはそれを誤解と認識することもないままやり過ごしている。クイズの問題文を読み上げる。そのあと、犬が一定の動作を行う。そこに回答性を見出してしまうことは、本当に一体誤解と呼べるものなのだろうか。リンゴから手を離す、リンゴが落ちる。それだって本当は……。

「じゃあ、次の問題にいこっか。気を取り直してさ。犬も、また次は当たるかもよ」

 わん、と犬が優しく鳴いたのは、ひょっとすると夜だったからかもしれない。安アパートでは声が響きやすい。どこにだっている。歌う人、口論する人、ひとりごとを言う人、インターネット回線の向こうの実在すら不確かな相手を友人と思ってずっと話しかけている人……。

 コンコン、と部屋の扉をノックする人。

「……………………」

 私は息を潜める。当たり前だ。誰だかわからない。扉にチェーンはかけてある。けれど少し鍵を開いた途端、大きな刃物がヌッと出てきて私の腹部を無理やりに引き裂いていくかもしれない。そうでなかったとしても、この真夜中に訪ねてくる人間は大抵の場合私にとって不愉快な要素を持ち合わせている。息を止めている。机の下に隠れた。カーテンが閉まっているのをよく確認する。電気は点けたままだけれど、最近は部屋の中に誰かがいるよう見せかけるためにずっとそうしている人だっている。不自然なことじゃない。大丈夫だと思う。ついさっきまでの話し声が誰にも聞こえていなければいい。

 カチャリ、と扉の鍵が開く音がする。

 そこでようやく、私は立ち上がって、少しだけ机に頭をぶつけて、扉の方へと向かった。

「こんばんは」

「おっす。あれ、連絡したの気付かなかった? 行くって入れといたんだけど」

「気付かなかった」

 そこにいたのは、ほとんど唯一と言っていい私の友人だった。

 彼女が来るということは金曜日なのだな、とそこで私はようやく気付く。携帯の充電は四日に一度しかしない。大して使わないから。音も出ないようにしてある。連絡が来たら怖いから。この間は知らない番号から訳の分からない留守番電話が入っていて、残りの寿命のうち二時間を無駄にした。キャリアメールは毎日スパムだらけ。こんなの契約しなきゃよかった、といつも思うけれど、彼女がよかれと思って私にくれたものだから、口が裂けても口にはしない。

 一度扉を閉じる。このまま開かなかったら彼女は何を言うだろう、と想像する。犬が私の足を叩く。チェーンを外す。扉を開く。彼女がハグしてくる。臭い。酔っぱらっている。

「今週も疲れたよ~!」

「疲れてるなら、早く家に帰って寝ればいいのに」

「冷たいこと言わないでよ」

 私の思いやりはろくに彼女に伝わらない。彼女は荷物を玄関先にドスンと下ろすと、犬に向かって「元気だったか~?」とふにゃついた赤ら顔で話しかけ始める。扉を閉める。鍵をかける。チェーンをかける。彼女が置いた荷物を物色する。がさがさと音がする。ビニール袋のなかに食べ物が入っている。これから一週間分の食料。

「あ、ねえ。聞いてよ」

 彼女は犬の耳と耳の間を人差し指で掻きながら、私を見上げた。

「さっき、スーパーに寄るついでに百均に行ったんだけどさ」

「なんで」

「収納ボックス買ってあげようと思って。だってまだ、床に直置きじゃん」

「いいって言った」

 私の部屋には、物はほとんど置いていない。どうせそのうち何もかも朽ち果てていくものだと思うと、持っていても虚しくなるだけだからだ。あらゆる物体は常にじんわりと喪失に関する悲しみを放出し続けている。キルリアン写真に映り込んでいるのは全てそれだ。だから私の部屋に置いてあるのはベッドと、古びた世界文学全集だけ。前者は特に何のこだわりもない。あった方がいいと思ったから買った。ああ、あと一応、家電もいくつかある。電子レンジとか、冷蔵庫とか……細かく挙げればハンドソープとかそういうものもあるけれど、とりあえずはいいだろう。

 全集は床の上に置かれている。私はその横で、よく犬と並んでご飯を食べる。別に置く場所があるのならどこに置いたっていいと私が思う一方で、元の一応の所有者である彼女にとってはそういうものではないらしい。彼女は犬と全集を私との繋がりの象徴だと思っている。そしてそれがあながち間違いではないということは私も認めている。でも、やっぱり収納ボックスは要らない。何でもかんでも箱に入れる必要はない。だって、本なんてそもそもが箱と同じような、四角くて、中に何かを収めていて、ぴっちりと……。

「そしたらさ、それが全っ然見つかんなくて」

「そうなんだ」

 よかった、と私は胸を撫で下ろす。その仕草は彼女の意識には映らなかったらしい。

「で、店員さんに訊いたわけ。『すみません、収納ボックスありますか』って」

「訊かなくていいのに」

「そしたらさ、なんて言ったと思う?」

「『プレゼントは相手の気持ちをよく考えて選びましょう』」

「『そこにないならないですね』って!」

 足にやわらかな感触があって、私はさらに下を向いた。いつの間にか犬は横を向き、床の上に寝そべっている。普段は丸まっているしっぽが今はゆるく伸ばされて、私の足に触れている。どういう状態なのか、私は随分この犬と長くいるけれど、いまだに見ただけではわからない。顔は笑っているように見えるが、人間的な笑顔の表情が動物にとって快を表すとも限らない。そもそも人間だって、笑顔の奥に不快を隠している場合だってある。外側から見える心は、この世に何もないのだろうか?

「じゃあ、なかったんだ」

「いや、そこってどこだよって思わない? 別に私、どこを見てたわけでもないし」

「じゃあ、いきなり店員さんに訊いたの? すごいね」

 私だったら、百均くらいの大きさのところでは絶対に店員に声をかけたりしない。イエローストーン国立公園くらいの大きさの場所だったら、流石に少しだけ、考えるかもしれないけれど。

「それがあの店員さー。全然顔、上げもしないし。絶対適当言ってたよ」

「大変だったね。お疲れ様」

「だからさ、今からもう一回見に行こうよ」

 いやだ、と私は言った。

 自分のご飯を買ったりするのだってとても嫌々やっていることなのだ。それなのにどうして必要もない道具を買いに外出する理由があるだろう。収納ボックスなんて何にもならない。思想やレッテルと同じだ。すでに存在して、ある程度整然としているものに対して悲哀を帯びた境界線を与えるだけ……なければない方が百倍良いに決まっている。

 でも、彼女は大抵の場合、私の意見を必要としていない。

 買ってきた食べ物を手際よく冷蔵庫に詰めていくと、犬の背中を一撫でして、靴を履いて扉を開けている。酔っ払いとは思えない機敏な動き。彼女は私がついてくることを確信している。振り向かない。

 だから私は、それを追うようにして、犬に連れられて外に出ることになる。

 案外彼女は、これが私にとっての精一杯の友情であることをすでに知っているのかもしれない。



i――――i――――i



 彼女と私の間にはほとんど全くと言っていいほど共通点がない。同じ種類の言語を喋ることくらいだろうか。それだって実際には、大部分が重なっているというだけで完全に同じというわけではない。私たちは生まれた瞬間に分厚い文法書を手渡されてそのとおりに言葉を扱うようになるわけではないし、だから当然環境や文化や脳の性質がコミュニケーション用の音声を独自にチューニングしていて、その結果の類似性によって会話が成り立っていることを期待しているに過ぎない。あまりにもその期待の根拠は儚いものだし、犬との交流よりも幾分かそれらしく見えるというだけのものだ。

 私はあまり社会に適した人間ではない。こうして息をしている以上『全く』適した人間ではないとは言い難いが、息苦しく感じる程度には適していない。一方で、彼女はかなり適した人間のように思われる。鈍感で、自信があって、環境変化に対する耐性が高い。息苦しく感じることはあるのだろうが、あまりそれを自覚していないように見える。特にここ一年ほど、正規雇用を得てからの彼女の適応力には目を見張るものがあり、その場にいない人間を悪し様に罵ること、利害敵対者に容赦のない態度を取る技能については磨きがかかった。環境は人を作る。というより、人はそもそも自分自身という環境に基づいて態度や言葉を決定するものであって、当然その立ち位置が変更されることはその人間の表出の仕方をとても深い場所で変更する。ポジショントークというのは人間の振舞いのほとんどを自覚的/無自覚的問わず支配するものであって、おそらく彼女はもう数年もしないうちに私を軽蔑するようになるし、友人でもなくなる。そして私は彼女をすっかり恐怖の対象とするようになる。

 でも、それでもいい。

 形あるものはいずれ壊れるが、形ないものも永遠ではない。それだけの話だ。

「最近夜になると涼しいよね」

「そう?」

「私はアルコール回ってるから暑いけど。あはは」

「アルコール、回ってなくても暑いよ。南の海の中にいるみたい」

 犬が振り向く。舌を出しているのはきっとその熱気を少しでも身体から逃がすためだと思われるが、彼女の後ろをびくびくしながら歩く私を馬鹿にしている可能性も否めない。誰だって、誰かから馬鹿にされている。

「南の海と言えば、このあいだ水族館に行ってさ。デートだったんだけど」

「うん」

「熱帯魚って、なんか食べる気しないよね。毒ありそう」

 水槽の前で食べる魚料理は不思議な感じだった、と彼女はひとしきりその感想を口にした後、少しだけ小走りになって、「犬~!」と甘えた声を出して、屈んで、犬の頭を撫でた。犬は目を細めた。水族館の話はそれで終わった。

 正反対、あるいはねじれの位置にいる私と彼女をかつて結び付けたのは、まさにその犬だった。

 私は当時……もっと幼い頃。『一緒に住んでいる犬がかわいい人』として認識されていた。教室では長所のキャラクター化がひとつの生存術として存在している。運動ができる、成績が良い、容姿に優れている。そうした属性を仮面として磨き上げて、社会との折り合いをつける子どもたちがたくさんいる。私もそのひとりで、そして私の場合、その属性はもっぱらこの犬によってもたらされるものだった。犬さえいれば、私自身は何者でも構わなかった。

 何人かが家に来た。そのうちのひとりに、彼女もいた。それから世界文学全集のひとくだりがあって、今でも私と彼女は繋がっていて、そのうち断たれる。私はそのことに自覚的で、彼女はどうか、わからない。

 街にはほとんど音がなかった。虫の声。遠くで車のタイヤの音。そのくらい。人影はなく、人の気配もない。眠っているからか死んでいるからかは明日の朝になってみないとわからない。街灯は伸びすぎた街路樹に遮られて頼りなく、時代に合わせて撤去されていくはずの死にかけの電話ボックスが虫ばかりを集めている。足音がする。私と彼女の靴の音。犬の足音だってあるはずだけれど、意識しなければ大して耳に届きもしない。犬が私のところまでやってくる。私の顔を見ている。そっと手を伸ばすと、犬は鼻先を夜空に向けて、手のひらをくんくんと嗅いだ。そのことにどんな意味があるのかわからない。もう少し歩くと曲がり角があって、その先の四車線道路を一台の車が抜けていく。それも見えなくなると青信号が照り付けているアスファルトも遠くのビル群も田園とそれほど変わりがあるようには思えないほど静かで、何もなくて、何もない場所でも信号というシステムが存在して機能を続けていることについて、あるいはその機能が無視されていることについて、奇妙な感慨を覚えた。すでに社会は人間の手を離れている。一種の生命体で、いつ襲い掛かって来るとも限らない。あるいはすでに、襲い掛かって来ているのかもしれない。

 赤信号。

 その先を渡る必要はなく、私たちは左に曲がった。すると異様なまでに煌々とした光に出会う。スーパーマーケット。二十四時間営業。彼女が先に入っていく。犬も入っていく。私はその後にこそこそと目を伏せながら続いていく。エスカレーターがあって、それに足を乗せて、運ばれていく。電車に乗ったときも思ったけれど、奇妙な体験だった。だって、これはほとんどワープと変わらない。たまたまそれらしい理屈や記憶を植え付けられているだけだ。特定の場所に移動することで、別の場所へと自動的に移動することになる。しかもその方法は機械によって管理されている。やはりここでも、人間の手はほとんどそれを放してしまっているように思える。移動に関する新しいルールが社会に組み込まれている。異様だった。特に、自分の脚力を用いることなく空の方へと近付いていくなんて、他にイメージできるのは死んで魂が天国に上るとか、そういう御伽話の場面くらいだ。

 エスカレーターに乗るのには多少の運動神経が要るけれど、降りるときはそれほどでもない。私は少しだけ足を速めて、彼女の背中を負う。スーパーの二階が百円ショップになっている。もう一枚の自動ドアをくぐれば、清潔な店内へ入場することになる。

「誰もいねーや」

「いないね」

 深夜だからだろうか、自動ドアが背後で閉まってからも私たちは店内に他の誰の気配も感じ取ることはできなかった。私は少し不安になって振り向く。ドアの横には二十四時間営業の文字がある。定休日の記載もない。だから私たちはこうして店内に入っていても問題はない。不法侵入ではない。彼女が防犯カメラを見つけて「おーい」と笑って手を振っている。彼女はこういうことができる。いずれやらなくなると思うが、きっとずっと、一生そういうことができる。私はできない。犬は先に歩いていった。

「まあいいや。どうせ店員、使えないし。私らで探そ」

 彼女も犬を追っていく。使えない、という言葉が頭の中で響く。使えない。おそらく彼女は友人としてではない私と遭遇すれば、そのたびその言葉を頭に浮かべるし、口にすることだってあるだろう。しかし彼女は何度会っても私にそれを言わない。環境と立ち位置が人を作る。私の現在の立ち位置は、彼女が使える/使えないを判断するような間合いに存在していない。やはりその位置関係も永遠のものではないけれど、少しだけ今の私の気を楽にしてくれるものではあった。

 私も歩き出す。もし途中で彼女の目当てである収納ボックスを見つけたら、こう言うつもりだった。なかったよ。帰ろうよ。そして彼女がどれほどその発見場所に近寄ろうとしたとしても、決してそれを許さない。隠し通す。私の部屋に、これ以上朽ち果てていくものは必要ない。

 しかし、その心配は杞憂で終わった。ぐるりと店内を回って、再び彼女と顔を合わせてなお、私はその収納ボックスを見つけることができなかったからだ。

「絶対におかしい」

 そして彼女も。

「こんなに広い店なのに収納ボックスが一個もないなんてことある?」

「そこにないならないんだよ」

「そこってどこ?」

 ここ、と答えてから私は周囲を見回した。犬がいない。どこかで暇を潰しているのだろうか。

「犬、見つけたら帰ろうね。ないんだから仕方ないよ」

「うん……」

 私は再び歩き出した。ぐるりと回るように。それから再び、彼女と出会う。

「いた?」

「いなかった」

 彼女が首を横に振る。もう一度歩き出す。出会う。

「いた?」

「ううん」

 少しだけ、私は不安になった。犬がどこにもいなくなってしまったような気がしたからだ。『かくれんぼ』。古い記憶が蘇る。断片的で、もはや夢との区別も怪しく、またその区別の必要すらもさしてなくなってしまったような、昔の出来事。

 犬、と私は呼んだ。するとかたり、と店の奥で音がした。よかった、と胸を撫で下ろす。私はまた歩き出そうとする。

「あのさ、」

 その私の手を、彼女が掴んだ。

「なに?」

「…………」

 彼女は、何かを言いたげにしていた。私は悩んだけれど、その場に留まることにした。犬がこの店の中にいるということまではわかったのだ。後は焦る必要なんて何もない。彼女はずっと私の手首を握っている。段々と視線が床の方へ落ちていく。私は黙っている。店内には何の音もない。店員はみんな帰ってしまったのかもしれない。突然強盗が来たらどうするつもりなんだろう。監視カメラだって、いつ壊れるかわかったものじゃないのに。

「私さ、結婚するんだって」

 少しだけ驚いた。まず、私は彼女に交際している相手がいるということも知らなかったから。でも、それは不思議なことでは全然なかった。彼女は大抵の場合魅力的だと捉えられる人物だし、私に向かって恋愛の話をする人間なんてこの世にはいない。春の花粉だって私を避けて通る。

 けれど、ひとつだけ気になったことがあった。

「『だって』?」

「うん、そう。そうらしくて……」

「『らしくて』?」

 知らない間に、と彼女は語り始めた。

 知らない間に、そういうことになっていたと。流れで付き合い出して、何となく続いて、何となく続いているうちにいつの間にか深い関係になっていたらしくて、そういう時期も来ていたらしくて、今日はちょうどその相手と食事に行った帰りで、景色のいい場所でプロポーズをされて、それで今、ここでこうしていると。

「受けたんだ」

「受けたみたい」

 みたい、と復唱することは、私はもうしなかった。システムは人の手を離れる。立場と環境が人を作る。彼女に起こったのはそういうことだった。いつの間にか彼女はそれを受け入れるべき場所に流れ着いていて、そしてそれを受け入れるべきと考える状態になっていた。そういう仮面を着けていて、仮面の言う通りに行動をした。その結果、結婚することになった。それだけのことだとわかった。

「そうなんだ」

「うん」

「…………」

「……指環、貰ったんだけど」

「うん」

「サイズ、合わなくて。鬱血したから、外しちゃった」

「そうなんだ」

「こういうのって、あとでサイズ直ししてもらえるよね。普通は」

 知らなかった。私は生まれてこの方指環なんて嵌めたことがなかったから。でも、そうじゃなかったら困る人がたくさんいるだろうという予測はついたし、需要は埋められることを望むものだから、きっとそうだろうと思って、「そうなんじゃない」と答えた。

「私、買った人じゃないんだけど大丈夫かな。一緒についてきてもらった方がいいのかな」

「大丈夫なんじゃない。お金だけ払えば、多分……」

 そうだよね、と彼女は言った。私の手首から彼女の指が外れた。彼女は俯いたままそこにいる。私はしばらくそれを見つめている。でも、そろそろ犬がいないと何も話せなくなってきていることに気付いたから、踵を返して動き出そうとする。

「あのさ」

 けれど、まだ彼女は言った。

「収納ボックス。……もっと高いやつの方がいい?」

「…………」

 要らないって何度も言ってるのに。

「いやほら、私も、こんな風には来れなくなるかもしれないからさ。最後に……最後って言うとあれだけど。あの本、そのままあげちゃったのもどうなのかなってずっと思ってたから。プレゼントしようかなって、思ってたんだけど」

「…………要らないよ」

 そう、と彼女は言った。

 そっか、と言って顔を上げると、いつもとよく似た明るい表情で。

「元気でね」

「うん」

 彼女は立ち去っていく。私はそれを見送る。たぶん、彼女は私の家に先に戻っていくわけではない。二度と来ないのだと思う。そういうことがわかっていて、私は彼女の背中だけを見つめていた。合鍵を返してもらえばよかったと少し思ったけれど、彼女のことだから、もう数日以内に郵送か何かで送ってくれると思う。荷物の受け取りを嫌がる私のために彼女が設置してくれた宅配ボックス。その中に入れられて、それで終わりになるのだと思う。結婚式の招待状くらいは来るのかもしれない。でも、私は当然それには出席しないから、『ご出席』を消して、さらに『ご』を消して、『欠席』を丸で囲んで、『お幸せに』と余白に書き添えて、名前の後の『様』も消す。それから真夜中、こそこそ家から抜け出てポストに投函する。これからは自分で食糧調達をする頻度が増えていく。負担だけれど、いつかは慣れるし、慣れなかったら飢えて死ぬ。

 それだけの話。

 自動ドアが閉まれば、私はいよいよ踵を返した。

 犬のいる場所はわかっていた。進んでいくと、『スタッフ専用』と書かれた扉がある。私は周囲を窺う。監視カメラがある。けれど、私はもうだいぶ前から気が付いている。あれはダミーで、単なる脅し以上の効果を持たないものだ。だからその扉を開けてしまう。誰に見咎められることもない。誰からも見つけられることはない。この真夜中に、自分は隠れ切っていると確信している。

 収納ボックスが置いてある。

「犬、」

 呼びかけると、その中のひとつから覗いていた耳がピンと立った。そこは倉庫だった。収納ボックスが所狭しと置いてあって、中には商品が詰め込まれている。己の意志とは関係なくこの場所に辿り着いてしまったものたち……それらが整然と並べられていた。

「犬、」

 もう一度呼びながら近付けば、犬は顔を出した。けれど、そのまま出てくる素振りを見せもしない。だから私はもっと近付く。近付いて、嫌がる素振りがないと思い込んで、犬に触る。犬が目を細める。犬を持ち上げる。犬は抵抗しない。抱き締める。犬は私の肩に頬を擦りつけてくる。この瞬間だったんだ、と私は思った。



i――――i――――i



 鍵を開けると、犬が先に入っていく。私が続く。扉を閉める。鍵を閉める。靴を脱ぐ。チェーンをかける。それから歩き出す。キッチンを抜けてリビングに行く。もう犬は定位置に寝そべっている。その横に座る。目の前には世界文学全集がある。

 彼女から貰ったものだった。彼女の父が高い金を出して買ったもの。一ページも読まなかったらしく、彼女の母はそれを責め立てた。本当はもっと大きな原因があったはずだったけれど、当時の彼女はその高い金を出して買ったよくわからない本が不和の原因であってくれればと願った。だから、どこか遠くに行ってほしかった。それで何もかもが解決してくれると夢を見た。燃やすのは勿体なかった。高い金を出して買ったのだ。誰かに貰ってほしかった。誰か、これの価値がわかる人間に引き取ってほしかった。『一緒に住んでいる犬がかわいい人』。その日からきっと、彼女にとっての私は『本が好きな人』になったのだと思う。たったそれだけの違いが、たったひとりの長い友人を私に与えた。

 それも今日終わり、収めるべき箱もないまま、本は床の上に散らばっている。

「クイズの続き、しよっか」

 私が手に取った本は、やはり彼女が私にくれたものだった。出張に行く新幹線で暇になると思って買ったらしい。結局、彼女には一ページも読まれないまま、これは私と犬の遊び道具になっている。

「第八問……」

 読み上げている途中で、私は気付く。犬はもう寝息を立てていた。瞼を下ろして、くうくうと。散歩の後だから気持ち良く眠れるのかもしれない。私は立ち上がる。部屋の電気を消す。犬がよく眠れるように。元の位置に戻る。カーテンは閉まっているけれど、少しだけ窓から浮いた部分、青白い月光が差し込んでいる。でも、やっぱり本を読めるほどの明るさじゃない。暗がりの中、大人しくベッドに横たわる。

 私は今日一日のことを考えた。システム。位置。立場。仮面。かくれんぼ。どれだけ隠れられるかではなく、誰かに見つけてもらえるかという遊び。数は数えず、もういいかいも、もういいよも、決して口にすることはない。後は、他には……。

 かつん、と足の爪が何かに当たった。私は身を起こす。それから、そこに何があるのかを手探りで確かめる。冷たくて、四角い。携帯電話だった。読み損ねていたメッセージがあることを思い出す。彼女が家に来るまでに入れたと言っていたもの。今日のうちに処理してしまおうと思ったから、それさえ終えればいつ解約したって構わないと思えたから、私はそれを開く。

 未読、二件。


『今からさ』

『家行ったら、いるよね?』


 私の指先はしばらくの躊躇いの後、通話のボタンを押した。

 コール音が静かな部屋に流れている。私はそれを聞いている。思い出している。夕闇。蟻の群れ。誰かが迎えに来て、それに従って歩いていったこと。整頓された箱。箱の中に収められるべきもの。でも、私の部屋にはそれがない。箱から取り出されたのは、一体誰だったのか。

 コール音が響いている。安アパートだから、どの部屋にも響いているかもしれない。でも、私はそれを気にしない。気にしないと思い込もうとしている。何コール目かなんて数えない。もういいかいなんて言わない。もういいよなんて死んでも言わない。

 ベッドから降りる。犬の隣に座る。犬の背中を撫でる。コール音がする。どれだけ隠れられるかではなく、誰かに見つけてもらえるか、という遊び。私の部屋には箱がない。ここにないなら、なくていい。ここにあるものは、あってもいい。

 コール音がする。犬の背中を撫でる。夏の夜には温かすぎる。



 わん、と声がする。



(了)

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