悪魔の囁き
『悪魔の囁き』 作……風 天空
歴史を振り返ると、大業を成し遂げた人物でさえ、人生の選択時において致命的な過ちを犯し、延々と築き上げて来た栄光に幕を下ろし、歴史の表舞台から消えている事実が判る。
日本中がバブルに浮かれた一時代が過ぎ、1億5千万円の損切りをするのか、含み損のまま株価が戻るのを待つのか! その選択に頭を抱える人物がいた。
「金運 大吉」は、彼女の友人に誘われて、中華料理の円形テーブルを囲んでいた。
大吉は、少しだが株の知識がある。
雑談しながらの食事が終り、お茶を飲みながら話しているのだが、彼女の表情が暗い事に気が付いた。
彼女は、5人の女性を使う高級スナックのオーナーである。
大吉も友人に連れられて、何度か行った事があるので、良く知ってはいた。
「大さんは、株に詳しいらしいですね?」
彼女は、友人をチラッと見て話を切り出して来た。
どうやら友人が話していたらしい。
「そんなに、詳しくはないけど……どうかした?」
「電話会社の株だけどね……また、騰がると思う?」
話を聞いた大吉は、日本中で話題になった通信会社の株であろう事は察しが付いた。
1次放出で売り出された株は、短期間で1株が300万円を超えた。
日本中を巻き込んだ株騒動である。
その株の2次放出から、かなりの月日が経ち、今は1株が110万円位にまで下がっていた。
「ママ、2次放出で買ったの? 確か、255万円ではなかったかなぁ、2次は?」
大吉が想像で聞くと、一瞬目を閉じて、コクッと頭を下げた。
大吉は、10株位買ったのだろうと思い、
「1500万円位の含み損か! 高い授業料だったと思って諦めれば……多分、下がっても騰がる事は無いと思うから!」
大吉は他人事だと思って、軽く言った。
「それ位だったら、諦めるけどね!」
ママは友人を見ながら、呟くように言う。
「えっ、100株買ったの!」
驚いた大吉が聞き直した。
彼女は小さく頷いて、
「大さん! どうしたら良いと思う?」
聞かれた大吉は、暫く考えた末に、
「ママ、僕だったら他の株に乗り換えるけどね! バブルが弾けて、殆どの株が下がっているから……この電気株なんかは、普通700円から1200円位していたのが、120円だからね! 市場が落ち着いてくれば、早い時期に300円には成ると思うけど!」
大吉は、置いてあった新聞の株式欄を見せながら説明した。
だが、損切りとなると、直ちに損失の金額が出る。
含み損のまま騰がるのを待っていれば、少なくとも損失は出ない。
大吉の言葉は、彼女にとって非情に聞えていた筈である。
幸い、自己資金で買ったと言う事で、大吉は驚きもしたが安心もしていた。
しかし彼女は、1億5千万近い損失が決定する事に、ためらいも有り考え込んでいる。
暫く考え込んでいた彼女は、決心が付いたのか、ためらいながらも、
「それが良いかも知れないね! 大さんの言うようにしょうか!」
友人を見ながら、そう言った。
それまで、黙って聞いていた友人が、重い口を開いた。
「ママ、今まで持っていたのだから、売らずに持っていれば!……政府が売る株だから、絶対に騰がるから……」
彼女に優しく言った。
彼女は、この言葉に勇気付けられたのか、大吉の意見を押さえて、
「そうね! 此処で損を決定付ける事も無いしね!」
嬉しそうな表情で言い、席を立った。
その後、電話会社の株は30万円前後にまで下落し、その後も、大吉が売りを勧めた時の株価にも届いていない。
一方、大吉が勧めていた電気株は、3ヵ月後に350円に騰がり1000円を越えた。
暫くして会った時に、笑いながら言った……「株は二度としない!」とっ。
たった一言の甘言によって、正解への道程が閉ざされた事は事実である。
歴史上の人物とは比べ様も無いが、決断を迫られる場面では、時として、甘い甘い悪魔の囁きが聞えて来るようである。
手を変え、品を変えての囁きが…………