弊害
「ねえねえ、シェーカーボール、知らない?」
「何それ。」
早朝五時半、お弁当を作っていたら旦那がこちらへやってきた。
……さりげなく照り焼きを一つつまむんじゃ…ない!!!
「むぐむぐ、プロテインの中に入れる、丸いボールみたいなやつだよ。」
「ボール?見た事ないな、いつからないのさ。」
「三日前にはあった。でも、それ以降見てない。捨ててない?あれ高いんだよ地味に……これなんだけど。」
差し出されたスマホに映るのは、ステンレス製のワイヤーでできたボールのようなもの。
どうやら、このボールをプロテインと牛乳の入ったシェーカーに入れて振ることで、だまができにくくなるらしい。
「あれないとめっちゃプロテインかたまっちゃってさあ。4つあったはずなんだけど、いつの間にか一つもないの。」
「プロテインと一緒に飲んじゃったんじゃないの。」
「そんなわけないじゃん!割と大きいんだよ!!…見つけたら、教えてー!」
「へいへい。」
お弁当を詰めつめ、適当な返事を返しておいた。
二三日たって、お弁当を作ろうとキッチンに向かうと、シンクの中に水の入ったプロテインシェーカーを発見した。
まあ、シェーカー以外にも、いろいろ発見しているわけなんだけれども。
……旦那は毎朝プロテインを飲んでは、時間がないと言って洗わずに仕事に行ってしまう事が多いのだな。
……旦那は私のいない日に晩御飯を大量に作っては、眠くなったと言って洗わずに寝てしまう事が多いのだな。
昨日私は旦那よりも先に家を出た&夜ご飯を家で食べなかったので、シンクに対面するのは実に一日ぶりである。
レタスの外葉、シイタケの石づき、もやしの袋にキャベツの切れ端、むいたジャガイモと玉ねぎとニンジンの皮、卵の殻に牛乳パック。
こってりカレーのこびり付いた皿が三枚に油だらけのフライパン、カレーの入っていた鍋に各種スプーン、箸その他もろもろ。
この惨状を、私は今から一人でどうにかしないといけないのだ。
朝から洗い物に必死にならなければいけない私は、かなり粗雑な動きをする。
生ごみを袋にザバザバと突っ込み、食器洗い機に入るものをずんちゃか突っ込み、怒り任せに鍋を洗う。
旦那を叩き起こして怒っていた時代もあったのだが、そんなことをしていてはお弁当を作る時間は無くなり、洗濯をする時間も掃除をする時間も足りなくなってしまう。
実に意味不明な言い訳を延々聞いている暇など、微塵もないのだ。
ただ、無心で汚れ物を片付けてゆく。
それがいちばん手っ取り早い。
シンクがきれいになったあたりで、旦那が目を覚ましてこちらにやってきた。
「あ、洗ってくれたんだ、ありがとー!今やろうと思ってきたのにー!」
私がいない時は洗い物をすることもあるのだが、大抵は洗い物が終わった頃にしれっとキッチンに現れてへらへらとした笑顔を向けてくる、実に礼儀正しい旦那である。
ずいぶん前に近所のおばさまに旦那の愚行を愚痴ったところ、世の中には感謝の言葉すら口にしない旦那が溢れていることを切々と語られ、私はそうとう恵まれていると説教されたのだなあ。
なんだかとってもめんどくさくなってしまい、この手の愚痴は一切口にしないとかたく心に誓ったのだなあ。
「あれ、シェーカーボール見なかった?昨日買ってきて、使ったんだけど。」
洗ったばかりのシェーカーにプロテインと牛乳を入れて旦那がぶつぶつ言っている。
「さあ、見てないけど。」
「そんな馬鹿な。昨日の朝はあった、シンクの中になかった?」
「シンクの中は生ごみと汚れものでいっぱいで気が付かなかったけど。」
オムレツを作りながら、フライパンから目をそらさずに言葉を返す。
旦那は動いている食器洗い機を止めて中を確認しているようだ。
あいにく、その中に探し物はない。
私はボールをその中に入れた覚えはないのだ。
オムレツをお弁当箱に入れたあと、煮こんでいた豚の角煮を詰めている私の後ろで、ゴミ箱をあさる旦那。
「あ、あった!これだよ、これ!!あのね、これ一個250円するんだよ、高いから捨てないでね!!!使い捨てじゃないから!!」
手のひらサイズのステンレスのボールを洗いながら、プンプンしている。
「大切なもんなら、使い終わったら洗って乾かしといたほうがいいんじゃないの。生ごみの中に紛れちゃったら捨てちゃうよ。」
「使ってすぐはたんぱく質がこびりついてるから水に漬けとかないといけないんだもん、洗わなくていいから、今後はそのまま置いといて!」
「わかった。」
プロテインシェーカーを洗わなくなって数週間、荷物が届いた。
旦那宛ての荷物だ。
「タイムセールやってたからさ、たくさん買っちゃった!!」
旦那はシェーカーボールを大量購入したのだ。
初めに二つ買い、追加で二つ買い。
先週さらに追加したのに、またなくなってしまったので、いよいよ堪忍袋の緒が切れたようで、まとめて6個も購入したのである。
…どうもシンクの中にてんこ盛りになってるごみと一緒に捨てちゃうみたいなんだよね。
私も知らぬ間にいくつか捨てたと思われるが、旦那も相当捨てているに違いない。
うちは大雑把な人間しかいないのだ。
買い物をするより、飲んだら洗うを徹底した方が良さそうなもんだが、そこは好みの違いなんだろう。
私は私の常識を押し付けるつもりはない。
「これでしばらくはプロテインのだまにイラつくこともないぞ!!」
大喜びで、だまのない滑らかなプロテインを毎朝飲んでいた旦那であったが。
「カロリーオーバーですね。朝のプロテインはやめてください。間食や夜食などもってのほかです。あと塩分過多ですね、減塩に努めてください。塩は一日6グラムまでです。」
「年をとると筋肉量が減るから、毎朝プロテイン飲めってテレビでやってたけど!」
「ガリガリの虚弱体質な人ならいざ知らず、あなたみたいな過体重の人には必要ないです。」
「そんな!」
健康診断で体重過多と摂取エネルギー過多、塩分取りすぎを指摘された旦那は、6個のシェーカーボールを使う機会をなくしてしまったのである。
未開封のボールのみなさんは、ご近所のプロテイン愛飲者、スポーツクラブの顔馴染みなどに配布されることになった。
実に使い勝手がよいという好評とともに、手土産をお持ちくださる方々が連日我が家を訪れる。
まあ、旦那は手土産のお菓子は食べられないわけですけれども。
仕方がないので私が全部消費するその横で、旦那は私の作る減塩カロリーオフの食事を不味そうに食している。
真夜中のつまみぐいはもちろん外食もやめ、料理を作ることもしなくなった旦那。
こってりしたものや味の濃いもの、砂糖をたっぷり使うスイーツは作れるのだが、減塩料理の知識は一切なく、得るつもりもないらしい。
ついつい味をつけてしまうので、キッチンに立つのは危険だと判断したようで、近づこうともしなくなった。
食事の管理をする私は、実に快適な毎日を送るようになった。
朝汚れものがない毎日は、実にすがすがしい。
使いたいと思って買っておいた肉や野菜が勝手に消えない毎日が、実に満たされている。
計画的にメニューを作れる毎日が、実に過不足なくてノーストレスだ。
大喜びで自分の食べたいメニューをつくり、今までできなかったごはんのおかわりをするようになり、やけにこう、体がずいぶん……あれ、おかしいぞ。
「カロリーオーバーですね、節制してください。」
「……はい?」
まさかの、自分が、増量?!
「塩分はそうでもないけど、一週間に一キロペースはまずいです。」
大食漢が一人いなくなるということは、非常に影響が大きいらしい。
今まで食べたくても食べられなかった反動がものすごい。
今まで食べ尽くされていたものを食べられるようになった結果がエグい。
今まで食べなくても良かった余り物を食べるのは自分しかいない。
地味にシェイカーボールのお礼のお菓子やらお米やらの蓄積が!
しかも食べる癖がついてしまって、少ないごはんでは満足出来ない体に!
これはまずい!
私はあわてて、ウォーキングの距離を伸ばし、バランスボールを購入し、朝晩のストレッチを欠かさず行うようにし!
おかしいぞ、なんでなかなか体重が減っていかない。
おかしいな、なかなか筋肉痛が出てこない。
体重増は一瞬なのに、この新陳代謝の低下っぷりはどうだ!
頑張れば頑張るほどに肩が凝り、腰が痛くなるばかり。
派手に摂取カロリーを押さえれば低血糖で手が震え、実に無理のきかない老いた体!
「ねーねー、これ柴田さんからもらったから食べてね!」
「もうもらって来ないでよ!」
食べないくせになんでももらって来る旦那!
「ねーねー、買い込んであるプロテイン、捨てるのもったいないから飲んでね!」
「ねーねー、買い込んであるパスタ、捨てるのもったいないから食べてね!」
「ねーねー、買い込んである小麦粉と強力粉、捨てるのもったいないから使ってね!」
旦那の尻拭いも相まって、痩せられる気がしない!
「わーい!もう6キロも減った!なに、一キロも減ってないの?サボりすぎなんじゃない!」
もともと人の体重の2,5倍あった旦那は実にサクサク体重を落としていく。
実に腹立たしいことこの上ない。
だが、諦めてぶくぶく太っていくという選択肢は、ない!
起床後のストレッチ30分、ウォーキング30分、ヨガ30分、自重トレーニングにラジオ体操、シャドーボクシングにスクワット、ストレッチポールにバランスボール30分、もも上げ30回……終わる頃には夕方とか、私は毎日カロリーを消費するためだけに生息している……!
「ぐぬぬ、500グラムしか減ってない!」
「気持ち、体脂肪は減ってますから。筋肉ついてるんじゃない?この調子で様子見ましょう。」
肉が落ちているんだかついているんだかすらわからなくなってきた今日この頃。
地道に続けるのがコツですよという主治医の言葉を信じ、私はくたびれたウォーキングシューズを履いて、よたよたと散歩に向かうのであった。