村上さん
日が沈み、月が顔を覗かせ始める夕暮れ時の公園で、天野誠は悔いていた。
ホラーはめっぽう苦手だというのに、肝試しに参加することになったからだ。
誠は肩を落とし、ため息混じりに呟いた。
「マジで行くのか……」
事の発端は二時間前、大学のキャンパス内にて。
「今日肝試しするぞ!」
そう言いながら、三浦康太は机に手をつき勢いよく立ち上がった。
突然すぎる提案に驚き、顔を見合わせる一同をしり目に康太は言葉を続ける。
「俺たちも出会って一年になる。そろそろみんなで思い出を作りたい!」
「私は別に構わないけどどこに行くの?」
皆を置き去りに話を進める康太に歯止めをかけるべく市川詩織質問を飛ばした。
「村上さんの噂を確かめに行くぞ!」
「村上さんってあの都市伝説の?」
「知ってる知ってる、誘拐されて殺された女子高生の幽霊でしょ?」
康太が語るまでもなく話が進んでいく。
「今日はその噂を確かめに行くぞ! 全員予定は空いてるな?」
――そして現在。
「マジで行くのか……」
誠は公園のベンチに腰掛け、ため息混じりに愚痴をこぼす。
こんな事になるなら断っておくべきだったと考えもすぃたが、集団心理とは恐ろしいもので、誠もついつい流されてしまったのだ。
そんな誠のことなど知りもせず、康太は意気揚々と点呼を取り始めた。
「それじゃ点呼とるぞー、詩織! 次郎! 桜! 彩月! 誠! よし、全員いるな」
一同はこれから『村上さん』が出るという噂を確かめるため、『夜泣きの森』を目指す。
――移動を始めて十数分、康太は口を開いた。
「あそこが森の入り口だな」
一同の目的地である『夜泣きの森』が姿を見せた。その威容な雰囲気を前に、元々怯えっぱなしであった誠は更に恐怖を感じた。
「帰りたい……」
街灯りに慣れ親しんだ誠たちにとって灯りのない森の入り口は不気味でしかないだろう。
日が沈んだ今、唯一無二の光を放つ月光さえも森の木々に遮られる。人が通る道こそ確保されてはいうものの、月明りが一同を照らし出すことはないだろう。
「都市伝説だとここの奥が崖下になっててそこに現れるらしい」
「現れたらどうなるの?」
「知らない」
恐怖か緊張か、不気味な森が放つ府に気に耐えられなくなったメンバーが逃避するように会話を始める。
口は動く、声も出る。だが誰も一歩を踏み出せない。森の入り口を目の当たりにしても、誰ひとり動くことが出来なかった。恐怖が一同を支配していた。
それは誠も例外ではなく――否、誠こそが誰よりも怯えていると言える。
「お、おい康太……お前先に進めよ言い出しっぺだろ」
恐怖を誤魔化す意も兼ねて、誠は康太に先導するよう促した。
「そうよ、言い出しっぺが行くべきよ」
「そーだそーだ」
「マジかよぉ……」
誠の提案を否定するものはいなかった。それは皆が誠と同じ恐怖を感じていることの裏返しであった。
一同の不満げな眼差しに対し『怖いから嫌です』などと言えるはずもなく、康太は先陣を切って森へ進むこととなった。
鳥の羽一枚たりとも吹き飛ばせない程小さな不満を漏らしながらも、康太は懐中電灯を取り出すとその光を森へ放つ。
「うわ、こりゃ相当深いぞ……」
意を決し、一歩を踏み出す。
不気味なまでの静寂。まるですべての音が暗闇吸い込まれているかのように木々のざわめきひとつない。一同は暗く狭い道を先へと進んでいく。
「ここか……」
二十分は歩いたであろうか、奥へ奥へと進み、目的地である崖下にとうったつしたところで一同は足を止める。
「なんか気味悪いな……」
誠はそう呟いた。
先の公園に始まり現在に至るまで、誠は後悔の連続であった。こんな恐ろしい思いをするのであれば断っておけばよかった。
誠がそんな思考を展開させる矢先――。
「おい見ろ! 石碑だぞ!」
「うそ、本当にあったんだ……」
「すっげぇ!」
そこには、気を抜けば見落としてしまいそうな程周囲の闇に溶け込んだ石碑が経ててあった。成人男性の腰ほどの高さだろうか、大理石でできたその石碑は一同の放つ光を不気味に跳ね返している。
「確か、都市伝説だとここに拝むと出てくるんだよね」
気付けば、森に入る前の恐怖や静寂は消え去り、好奇心を刺激された一同の騒ぎ声が森へ拡散されている。その場において、口を閉じ恐怖と戦っているのは誠だけであった。
「おい! 早く拝め!」
「じゃんけんだ、負けた人が拝もう!」
――康太のかけ声で皆の拳が一斉に突き出される。
「うおっ、俺かよ!」
「ははは、どんまいどんまい!」
勝負の結果、石碑に拝むのは剛田次郎の役割となった。
「き、気をつけろよ」
何が起こるかわからない。誠は、不安からくる心配を次郎に向けた。
しかし次郎は怖がる素振りひとつ見せず「幽霊なんているわけないだろ! 馬鹿馬鹿しい!」と言葉を返した。そして石碑の前に立つとおもむろに両手を合わせた。
「拝むって何をやればいいんだ? とりあえず南無阿弥陀仏か」
両手を合わせて石碑に向かい、無い知識を振り絞り精一杯のお経を唱えた。死した村上さんを弔っているであろう石碑に何度も繰り返しお経を染み込ませる。
誠たち五人は次郎より数メートルほど下がった場所に立ち、その光景を瞠目する。
――南無阿弥陀仏、南無法蓮華経。浄土宗と日蓮宗の違いも知らない次郎は訳もわからず唱え続けた。
「…………」
「あれ」
しかし特に何も起こらなかった。
メンバーたちの期待とは裏腹に、しかし予想通りに、何も起こらない。
村上さんどころか虫一匹たりとも現れない。大はしゃぎであったメンバーのテンションも落ち、森は再び静寂に包まれた。
都市伝説を信じていたわけではなかったが、何も起こらなかったことは誠にとって幸いに他ならなかった。しかし、次郎やメンバーたちはそうではなく――。
「面白くねぇ」
次郎は「馬鹿にしやがって」と呟きながら、石碑に添えてあった花束を軽く蹴飛ばした。
しかし、それが手向けの花であることは事実であり、それに気付いた次郎はハッと我に返り、一同の方へ振り返った。
詩織はそんな次郎に対して、焦ったように声をかける。
「じ、次郎!」
「ごめん、ついムカっとしてしまった」
「いや、そうじゃなくて、後ろ……」
「いやいや、そんな冗談いいって! 何もいな――」
言いかけて、次郎は言葉を止めた。気を抜けば聞き逃してしまいそうな小さな声。それを背後から耳に受けたような気がした。
それと同時に、うなじにかかる生暖かい吐息のようなものも感じていた。
――おかしい、俺は今、石碑に拝んだ後、振り向いたばかりだ。
――おかしい、俺が振り向いた後、背後に誰も回り込んではいなかった。
そこまで考え、次郎はようやく理解した。自身の背後に何かがいることに。
次郎は意を決し、再び石碑のある後方へと体を向ける。
振り返った次郎の目に飛び込んできた『それ』はこの世のものとは思えなかった。否、この世のものではなかった。
「あばばぁ……」
不気味な声を発する『それ』は次郎の目の前、ほんの数十センチ先に佇んでいた。
漆黒よりも黒い髪をなびかせ、顔の半分を覆う前髪から覗く瞳は大きく見開かれ、瞬きひとつせず次郎を見つめ続ける。女子高生の制服であろうセーラー服はいたるところに穴が開き、服の隙間から見える『それ』の肉体は醜く抉れ、皮膚を突き破って肋骨が顔を覗かせていた。
そんな存在を前に、次郎はただ立ち尽くすだけだった。
「次郎! 早く逃げろ!」
康太の声を受け、次郎は停止していた思考を再開させる。
おそらく、目の前にいる『それ』が村上さんであろう。
「誰が逃げるもんか! 俺は空手全国一位の男だぞ!」
次郎は逃亡を拒否した。長年打ち込んできた武道の魂が、全国一位のプライドが、次郎に逃亡を許さなかった。
「うおおおお!」
次郎の鋭い正拳突きが村上さんの鳩尾に炸裂する。確かな手応えを感じ、次郎は勝利を確信した。
「やったか!?」
過去に次郎の攻撃を受けて倒れなかった者はひとりとしていない。その破壊力はゲームセンターのパンチングマシーンを粉砕するほどだ。
――しかし。
「あばば、あばばばばば」
渾身の一撃は村上さんには効いていなかった。それどころか、見開かれていた瞳がより激しく開かれ、次郎の瞳を覗き込む。
「お前ら……俺が時間を稼ぐ、その隙に逃げろ!」
「次郎! お前はどうするんだよ!」
「なぁに、すぐに追いつくさ! さぁ早く行くんだ!」
誠たち五人は急かされるがまま走り出した。ただただ目の前の異形の者から逃げる、それ以上の思考はなかった。
「なんなんだよ! あの化け物!」
走り始めて数分、転ばぬよう足元に光を放ちながら康太が怒鳴る。
既に体力の限界を超えて走る誠や詩織が康太の声に反応できるはずもなく、康太の怒声はすぐに森にかき消された。
後ろを振り向いても、次郎の姿は見えない。森の闇がすべてを覆い隠していた。
――そんな時だった。
「あばばばばば」
後方から聞こえてきたそれは、次郎の声ではないことは明白だった。
誠は走りながら首を後ろに向けた。それだけでは森の闇が視界を阻み、声の正体がわからない。しかし、見えずとも正体は知れている。
それでも……と、誠は懐中電灯を後方へ向けた。照らし出されたそれは言うまでもなく、村上さんだった。
光が顔面に直撃しているにも関わらず、村上さんは眩しそうな表情ひとつ見せない。目を見開き、口が裂けそうなほどに全力の笑顔で迫ってくる。
「おい! もっと急げ!」
迫りくる村上さんを見た康太は、馬に鞭打つように皆を振るい立たせる。森を抜けて少し進めば警察署がある。そこに行くとさえできればきっと守ってくれる。それが康太の考えであった。
既に森の出口は見えている。あとほんの数十秒走るだけで助かるのだ。
――だが。
「きゃああっ」
足元の木の根に躓いた詩織は、そのまま地面に崩れ落ちる。
「あばばばばばばば!」
「いやぁああああ」
地に伏した詩織の悲鳴が聞こえ、液体が飛び散るような音とともにその悲鳴は途絶えた。康太も彩月も桜も、そして誠も、その場にいた誰もが振り向かずとも詩織が襲われていると理解した。理解していながら誰も助けようとは思わなかった。ただひたすら逃げる、最初から誠たちにはそれ以外の選択肢はなかったのだ。