A男の場合
A男:社会人。明るく真面目で勤勉。先輩に可愛がられて後輩に尊敬されている。
電車に揺られていつも通り会社に向かう。
既に社会人になって数年経つが、いまだにこの満員となった電車に慣れることはない。
なによりも、下手をすれば痴漢という悪質であり凶悪な冤罪を吹っ掛けられる可能性があるからだ。
俺はそんな冤罪を吹っ掛けられないよう、常に利き腕はつり革もしくはドアの傍にある手すりに掴まり、もう一方の腕は手持ちのカバンを胸に抱えるようにして両腕が塞がっていますというアピールをする。
最初はスマホに触っているから痴漢できませんアピールをしていたのだが、仲良くしてくれている先輩に「お前それだと盗撮班に間違われるかもしれねーぞ」と教えてもらったため、今では電車内では絶対に触らないようにしている。
ガタン、と揺れて目的の駅に着いたことをアナウンスを聞かずとも知ると、さっとドアに体を向ける。無論、これだって冤罪防止のためだ。
その、はずなのだったが――――
「この人、痴漢です!」
スーツを引っ張られる感覚と同時に起きた悲鳴に近い声にえ、と掠れた声がこぼれ落ちる。背後には新社会人だろうか、小柄で初々しさの残る女性が涙目になって俺を睨みつけていた。
俺はその青褪めて怯えきった顔を見て、ああこの人は本当に痴漢をされたのだと悟ったが、このままでは俺の人生が終了してしまうこともあり慌てて違うと叫ぶ。
「お、俺じゃないです!」
「嘘! だって私が振り向いたときに急いで体を反対側に向けたじゃない!」
「そ、それでも俺じゃないんです!」
「まッ、逃がさないんだからッ!」
プシュウ、と独特の音を出して開いたドアに反射的に顔を向けると、逃げられると勘違いしたようでスーツを両手で掴んで逃げないようにしてきた。
そのまま動くこともできず電車内で痴漢と涙声で叫ぶ女性と、違うと同じく泣きそうになりながら叫ぶ俺。周囲には俺を痴漢だと思ったのか辺りを取り囲む乗客。視線が剣呑で背筋が寒くなる。俺じゃない。俺じゃないんだ!
「この騒ぎは何ですか」
「この人、チカンらしいです」
「なっ……ちょっとキミ、事務室で話を聞かせてもらいますよ」
異常を察知した駅員二人がやってきて、ああ俺の人生終わった。今までずっと真面目に過ごして苛めも犯罪も犯していなかったのに、まさか冤罪で社会的に死ぬことになるなんて思いもよらなかった。
眼鏡をかけた真面目そうな学生が駅員に説明してるのを横目に、勘違いを正す気力なんてなくなって項垂れる。
そのまま電車内から出て駅のホームに出ただけで足が震え始める。
「あ、あの……」
痴漢が捕まったとして騒然とした場で、恐る恐るといったような少女の声が聞こえ、その場にいた人たちは俺を含めて一斉に声の主へ視線を向ける。
視線の先には制服を着た女学生が三人いた。びくびくした様子でこちらを見ている少女がおそらく声を上げたのだろう。何度か口を開閉し言葉を探す様子だ。
対してそれを尻目にSNSかゲームでもしているのかスマホを弄っている少女が二人。
「そ、その人痴漢じゃない、です」
「えっ……?」
「なんだって?」
驚く女性と訝しむ駅員に、少女たちに促されて俺たちは駅のホームの端に移動させられた。そして今まで携帯を弄っていた少女二人がそれぞれ画面を見せてきた。
一つのスマホには痴漢現場の写真がスライドショーなのか数秒毎に写真が変わり、もう一つのスマホには動画でその痴漢現場が克明に映し出されていた。
画像には、怯えて俯いている女性と、スーツを着たエリート然とした男。そして二人の背後には両腕がつり革と鞄で塞がった俺の姿があった。
減速し始めたと同時に男はそっと女性から離れ、女性は勇気を振り絞ったのか勢いよく背後を振り向く女性。そして視線の先で素早く体を反転させる俺。
被害に遭った女性と駅員の顔を窺うと「ああー……」と今にも言い出しそうな表情だった。
「ごっ、ごごごめんなさいいいいいっっ!!」
「い、いえ、」
本当は大丈夫じゃなかったのだが、女性の罪悪感が限界に達したのか今にも泣きそうな顔でぺこぺこと頭を下げられてしまうと何も悪くないのに俺まで罪悪感が芽生えてくる。
駅員も俺が痴漢ではないことを理解してくれたようで今まで厳しかった顔つきも和らぎ、誤解したことの謝罪をしてきた。
少女たちはその写真と動画を証拠として提出されることを言われていたが渋ることはなく、むしろ「ぶ、無事で良かったです」「貴重な体験ありがとうございます」「人助けできただけじゃなくて、堂々と遅刻できるなんてラッキー」と笑ってあっさり了承し、先導する一人の駅員について行った。おそらく事務室に行くのだろう。
冤罪を着せられかけたが、何はともあれ無事に済んで良かった。
ほっと胸をなでおろすと女性に頭を下げ、疲労感と妙な高揚感を連れて仕事場へ向かった。
その光景をカメラはじっと見ていた。
◇
「君を解雇することとなった」
突然呼び出された。今までの業績からして昇進じゃないかと同僚にヤジを投げられたが、それとは正反対の言葉に言葉をなくした。
唖然とする俺を無視して上司と幹部の人によって淡々とその理由を説明される。
「君が痴漢を犯したのに掴まっていないことについて連絡がたくさん寄せられてね」
「『そんな事実はない』と言っても話を聞いてくれず、もし貴方がこのままこの会社にいれば被害は免れない。わかってくれますね」
疑問符なんてないセリフに俺は何も言えず、その日のうちに会社を辞めさせられた。
勤めていた会社は美容品関連だったから女性を痴漢した――そんな事実はないが――男がのうのうと務めていたらそりゃ許せないだろう。だからといってそんな事はしていない。
なんでこうなったのかと動きの鈍くなった頭の中で考えようとする。
しかし出てくるのは、ああだから女性社員の視線が冷たくなったのか、ああだからほとんどの奴らは俺と会話しなくなったのかだとかの意味のない思考だけだった。
「痴漢なんて……痴漢?」
数日前の色濃い出来事を思い出し、はっと息をのんだ。
もしやと思いSNSを調べてみると――やはり出てきた。まるで俺が痴漢をしたような写真が。
あの時の女性が逃げようと勘違いした時の俺のスーツを両手で掴む写真。言い争う写真。駅員が二人やってきた写真。俺が頭を下げる写真。一人の駅員と俺がいなくなって、女性ともう一人の駅員が残った写真。
「なんだ、これは」
明らかに悪意のある写真のゾッとする。俺はやってない。それなのに、この写真だけ見れば俺は完全に痴漢した犯罪者だった。
しかもこの投稿者のコメントが酷い。なにが「コイツ痴漢してたんだぜwwwいい年した社会人が痴漢とかマジねーわwwww」だ。
何も知らずにその嘘だけの投稿をした悪質な投稿者に同調し、俺を変態だ犯罪者だ社会から消えろだと好き勝手に罵倒する内容。
一部の人たちは中立的な発言や調べても出てこなかったと擁護する発言があるが、写真を真実だと思っていることと攻撃的な空気にはそぐわなかったせいだろう、犯罪者を擁護する悪者として炎上してしまっていた。
震える手でスイングしていくと、ふと一つの内容に目が留まった。
同僚のアカウントがあった。
「は?」
朝、俺にヤジを投げかけた同僚が俺のことを貶していた。
いや、こいつだけじゃない。何人か俺を知っているような発言をしている奴のアカウントを見ると俺の元上司、元同僚、元後輩のアカウントがザクザクでてきた。
体の力が抜けて座り込む。それを不審者を見るような視線を向けると足早に去っていく通行人たち。その大半が携帯を手にしていた。
「ひぃっ」
また撮られるんじゃないか。何か悪意のあることを呟かれるのではないか。
そんなはずはないと思いたいが、犯罪者という言葉がどこからか聞こえた瞬間に手放していた鞄を掻っ攫うように手に持つと駆け出した。どこに行くのかもわからないが、とりあえずこの場所から逃げたかった。
青褪め震える足でどこかに駆けていく様はまさに不審者だろう。だがそんな事を気にかける余裕なんてどこにもなかった。
走って走って走って、目が覚めたようにハッとした頃には自宅の一室で座り込んでいた。
辺りは既に真っ暗で長い間座っていたのか、それとも帰ってきたばかりなのかも曖昧だった。
「スーツがぐしゃぐしゃ……ああ、もう会社に行かなくていいのか」
いや、もう会社に行けなくなったんだ。明日からどうすればいい。近所付き合いしていた人たちもこの捏造された投稿を見たのだろうか。それを信じてしまったのだろうか。
考えれば考えるほど頭が重くなっていくせいで何も考えられなくなる。
マイナス思考に陥っていることを自覚した俺は、このままでは駄目だと自分を何とか奮い立たせる。そうだ、この投稿をした奴を訴えてしまえばいい。金銭的には痛手になるだろうが勝訴して投稿を取り消させ、謝罪文を掲載させればなんとかなるはずだ。
ようやく希望が見えてきた俺はiPhoneが何かを受信したのが胸ポケットの震えで分かった。
もしかして勤めていた会社の誰かからチャットで罵倒のメッセージでも入れられたのだろうか。
「なんだ、違うのか」
ただのゲームの通知だった。嫌な汗を拭おうとして、元々自分が汗まみれだったことを自覚した。ずっと別の事に気を揉んでいたせいで気付かなかったらしい。
苦笑してまずは風呂に入るべきか、と考えながら今日のニュースを調べる。
今日こんな目に遭ったことが原因なんだろう、俺は痴漢をネット検索した。
「は、ぁ?」
ニュースを個人でまとめられるサイトで、俺のことが書かれている記事を見つけた。
あの悪意の籠った写真と投稿にあったコメント。それならまだ良い。いや全く良くないんだがまだ良いとする。
問題は、会社での俺の素行がひどく悪いとされていたのだ。
遅刻をする。口調が悪い。常に文句や不満を言う。女性社員に粘着する。男女の接し方が全く違う。仕事を押し付ける。失敗した責任を押し付ける。
「な、なんだ、これ……。ッなんだよ、これぇっ!」
数えきれないほどの捏造された内容に視界も声も揺れる。
ぐわんぐわんと耳鳴りがする中、俺はその作成者の名前を見た。
一番信頼している、同僚の名前だった。
「あ、あ、あっああぁぁああぁぁああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっっっ!!!!!」
A男:痴漢の冤罪によって会社を解雇される。