08
なんとかウルを説得し、宿に戻ってくるころには二人ともすっかりずぶ濡れになっていた。
この地方の雨は空気中の様々な粉塵や粒子を含んで落ちてくるので、ふき取っておかないと肌に良くない。
井戸から水を汲んだ大きなカメと、清潔な布巾を何枚か持って、階段を上った。
「失礼します」
部屋に入ると、ウルは外套も長剣も身に着けたまま、何をするでもなく窓際に佇んでいた。
サンドイッチにも手をつけていない。
半ば強引にこの宿に引き戻してから、彼は少し警戒するような素振りを見せている。
彼の置かれた状況を鑑みれば、無理からぬことではあるが。
林道から庭まで戻ると、気を失って倒れていたはずの三人の姿がなかった。
よく考えてみると、連中が三人だけだったという保障はどこにもない。
いつ増援を連れて再び襲ってくるかもわからないとなると、できればここには留まって居たくなかったのかも知れない。
「私は頭だけでいい。服は大丈夫だ」
水に浸した布巾を一枚だけ受け取ると、器用に片手で髪飾りを外し、髪と首、そして顔を拭いた。
確かに彼のズボンやベストは、言葉どおり殆ど濡れていなかった。あの赤い外套のおかげのようだ。
「……」
ウルが目を閉じて髪を拭いているのをいいことに、リタは無遠慮にその顔を眺めていた。
髪飾りを外すと、より鮮明に記憶の中の「リーノ」と合致する。
男子は3日会わなければ何かが変わっているというものらしいが、7年という月日は、すっかり彼を成長させていた。
当時はリタよりも身長が低かったはずだし、外見だけでは性別が分からないような体つきだった。
それがどうだ。
相変わらず細身ではあるものの、すっかり剣の似合う一人前の男になってしまっている。
懐かしさと、蘇ってくる愛しさで、リタは胸がいっぱいになる気がした。
しかし、問題が一つ。
「まだ、汚れが残っているか?」
リタの視線に気づいて、自分の顔をもう一度入念に拭きながら、ウルが尋ねてくる。
「あ、いえ…大丈夫です」
…気づいていない。気づく気配もない。
自分自身さっきまで忘れていておいて言えることではないが、ウルはリタの顔を見ても何の反応もない。
ただの宿の娘だとしか思っていないようだ。
まあ、王宮で会った相手が、こんなうらぶれた町で娼婦まがいの真似をしているなどとは、よもや思わないだろうが…。
(…結構ショックかもしれない)
思い返してみれば、リタからは名前を名乗った記憶がなかった。
つまり、もしウルがあのときのことを覚えていたとしても、その相手は「カーナの皇女」であり、「誰」だったかは知らないことになる。
カーナの皇女…。
七年前は、そうだった。冤罪で捕らえられる、あの日までは…。
「まだ、何かあるのか?」
布巾を広げて椅子の背に干し、ようやく剣を外してベッドに腰掛けたウル。
いつまでも突っ立っているリタに少し苛立ったような言葉を飛ばしてきた。
「え?あ、い、いえ」
そうだ。
言われてみればもう部屋に案内して、鍵も届けたのだ。
自分がここにいる理由はない。
「……」
だが、このままおめおめと自分の部屋に戻る訳にも行かなかった。
「あの…もしよろしかったらなんですが」
「…何だ?」
「…どうして、あんな人たちに追われていたのか、教えていただけませんか?あの人たちは、一体何なんですか?」
「……」
匿う立場として、当然といえば当然の疑問。
それに加えて、この七年間彼がどこで何をしていたのか、できるなら聞きたかった。
カーナの王宮で囚われていた状態から、一体何がどうなって今に至っているのだろうか…?
「洗礼を受けに行くというのは、嘘…ですよね?」
沈黙を守るウルに発言を促すように、尋ねる。
しばしの逡巡の後、ウルは無言で首肯した。
こうして、黙り込んでいるウルの横顔に言葉をかけていると、妙な既視感に襲われる。
そういえば知り合ったばかりのころは無口で、ぶっきらぼうで、何を考えているか分からない子だった。
一向に口を割る気配のないウル。
リタはしばらく悩んだ後、ふと思いつく。
(昔みたいに、隣に座って話しかけたら、思い出してくれるかな…?)
トレーをエプロンドレスの胸に抱きしめたまま、リタはそっとウルの座るベッドに近づいた。
一歩、二歩…三歩目を踏み出した瞬間、ウルは弾かれた様に、壁に立てかけていた剣を掴む。
「あ…え、えっと、ごめんなさい。椅子に、座ってもよろしいでしょうか…?」
「……ああ」
…どうやら、思い出すどころか、無理に宿に引き戻したせいですっかり怪しまれているようだ。
こんな女の子相手に、そこまで警戒することはないではないか。
あのまま近づいたら切り捨てるつもりだったのだろうか?
まあ、「お前に話す義理はない。さっさと出て行け」、と言われなかっただけマシか、と思い直してリタは椅子に腰掛けた。
どうも少し距離感を掴みかねている。
相手がリーノだと分かっただけでもう、勝手にかなり親密になった気がしてしまっていたが、彼にとってみればリタはただの宿の娘だ。
警戒どころか、本来なら無視されても文句は言えない。
「連中は、ファルシアの手先だ」
両膝の上に左右の肘を乗せて、項垂れたままぽつりと漏らす。
「ファルシア?」
「…レーヴェモントのことは知っているか?」
オウム返しに聞くリタに、ウルは少しこちらの常識を探るような聞き方をしてきた。
レーヴェモント。
もちろん知っている。ウルの故郷であり、カーナと唯一国交のあった国だ。
リタが頷くと、ウルは重い口調で続けた。
「私は、レーヴェモントの者だ。ここ数年、祖国は危機的な状況にあった。国交の拗れから後ろ盾を失い、オーアの噴火で貿易の要だった鉱物も採りづらくなり…」
「……」
「…知っているかもしれないが、それまで祖国は百戦錬磨の勇名を馳せた武の大国だったのだ。まともにやりあえる力は、カーナくらいにしかなかっただろう」
ウルの話を聞きながら、自分の世間知らずを自覚する。
自分の住む大陸にある国と、その力関係がどうなっているのか。
言われてみれば興味を持ったこともなかった。
「…だが、それが仇になってしまった。状況はどうあれ、それだけの力を誇っていた国を倒した事実があれば、どんな小国でも一躍大陸の戦局に乱入することができる。周辺諸国はそう考えた」
ウルの顔が忌々しげに歪む。
「祖国の庇護下にあったはずの国々まで、反旗を翻した。多勢に無勢、四面楚歌というやつだ。さしものレーヴェモントも、そう長くはもたなかった」
額の前で組み合わせた両手が、微かに震えている…。
「最終的に、王城を攻め落としたのはファルシアという、レーヴェモントの南西にある小国だった。連中はそのままそこを新たな拠点として、各国が祖国を侵略して得た領土を奪い返している。事実上、レーヴェモントはファルシアの手中に落ちたと言える。さっきの連中はそこの残党狩りのようなものだ」
重々しい口調は、その吐露が決して楽なものではないことをリタに悟らせて余りあった。
一度はその身を国のために捧げようとさえしていたウルだからこそ、母国の現状は受け入れがたいものなのかもしれない。
しかし、事実彼の国は失われつつある。
「それで…」
「ん?」
「貴方は…ウル様はその追っ手から、その、逃げてらっしゃるんですか?」
「…ああ、そういうことになるな」
逃げる、という言葉を口にするのは憚られた。
それを肯定するウルの言葉も、どことなく自嘲するような響きがあった。
「無様だろう?だかまだ、死ぬわけにはいかない」
リタには、是とも非とも言えない。
彼の両手には、リタには到底計り知れない決意が握り締められているように思えた。
「宿を紹介してもらって、しかもこんな騒動を持ち込んでおいて今更だが、これ以上は迷惑をかけないつもりだ。明日の朝には発つ。私のことも、今の話も忘れて、普段の生活に戻ってくれ」
そこまで話したのも、匿ってもらったことに恩義を感じてのことなのだろう。
どうやら話はこれで終わりということらしい。
再び黙り込むウル。
こんな山中まで刺客をよこすというのは、やはり彼が王族の生き残りだからなのだろうか?
追っ手から逃げるにしても、宛はあるのだろうか…?
そして、逃げ遂せたとしても、その後彼はどうするつもりなのか?
聞きたいことはまだあったが、答えてもらえそうな雰囲気ではなかった。
自分は、どうするべきなのか。
例えば、この相手がウルではなかったとして、ただ命を狙われ追われている立場の人間を目の前にしたとき、「宿の娘」としてはどう接するのが自然なのか。
慰めや励ましの言葉を掛けるのか、それともそっとしておくべきなのか。歯がゆいが、リタには見当もつかなかった。
ただ、そこにいるのは、酷く疲れた様子の少年。
ここにたどり着くまで、一体何度さっきのような大立ち回りを繰り返してきたのだろうか?
外套と衣服の綻びが、その凄絶さの一端を物語っているようだった。
俯いたままゆっくりと肩を上下しているだけのウル。
追っ手の前に躍り出て、声高らかに挑発の文句を言い放った不遜さはもはや、欠片も見当たらない。
どれだけ剣が上達していても、どれだけ非情な戦いを経験してきたとしても。
彼は「リーノ」なのだ。
悲しみ、寂しさ、孤独、不安。そういうものに押しつぶされそうになって涙を流す彼を、リタは知っている。
力になりたい。
なると約束した。
目の前にいるのは、そういう相手だ。
ならば自分に今できることは?
「……」
リタはゆっくりと立ち上がり、ウルの前に膝をつく。
がっちりと組み合わされた彼の両手の上に、自分の右手を重ねる。
…どうするのが自然かなんて知らない。
分からない。だから、したいようにする。
不自然でも何でも、少しでも彼を癒せるのなら。
ウルの表情は分からない。だが拒絶する気配もない。
左手でゆっくりと、項垂れた頭を撫でる。
慈しむように、だが、閉ざされた彼の心の深くには触れないように…
「…お辛かったでしょう?」
できるだけ静かに声をかけた。
知っていた。
その両手が、その心が震えていることを。
今ならば分かる気がする。
戦っていたときの彼の余裕と冷徹さは、虚勢のようなものだ。
あんなことを平然としていられるほど、彼の本性は凶暴でも残忍でもない。
きっと今、その反動が彼を蝕んでいる。
何もできなくても、せめてその震えが収まるまでそばにいたい。
そう切望した。
「…っ!」
突然、何かに気づいたようにウルの肩がぴくりと跳ねる。
自分が子供のように扱われていることに、今やっと気付いたように、
「無礼なっ!」
リタの手を振り解き、憤然と立ち上がるウル。
「私が誰か、知っての愚弄か?!」
左手で長剣を持ち上げ、今にも切り捨てかねない気迫で怒鳴りつけられても、しかしリタは眉一つ動かさなかった。
「…ウル様。私は貴方が誰なのか、どういった立場のお方なのかをお聞きした覚えがございません。御無礼があったならお許しください。知らぬが故のことです」
「何をっ」
今まで散々敬称を付けて敬語で話をしておきながら、リタはウルの口から聞かされなかったという言い訳を盾にした。
詭弁かもしれないが、それも事実だった。
「…今日はもうお休みください。不肖ながらここで番をさせていただきます」
「……」
「不審な者がこの宿に侵入してきたらすぐにお知らせしますので、どうぞご安心ください」
立ち上がり、何事もなかったように膝を払う。
気位が高いのも、気難しいのも変わっていない。
だとすれば、その優しさと信念も変わっていないはずだ。
彼はこんなことで女子に手を上げるような男ではない。
そう分かっていると、どれだけ凄まれても効果はなかった。
拒絶され、手を振り解かれてしまったのは残念としか言いようがないが、彼が自分の知るリーノのままだと確認できただけでも収穫だったかもしれない。
「…リタ、だったか?」
やがて、毒気を抜かれたように、一転して静かな声が彼女の名を呼ぶ。
「はい」
「…私の寝首をかこうなどとは、考えてくれるなよ?確かに私の首はファルシアには高く売れるだろうが…もしお前が私を殺そうと近づけば、例え私の意識は眠っていても、この手と剣はお前を斬るだろう」
その妙な言い分に、思わずリタは噴き出してしまった。
「…お優しいのですね。自分の命を狙っているかも知れない相手の心配だなんて、おかしいとは思われませんか?」
「全くだ。だが、そうはしたくない。もしお前が私の敵だったとしても、私はお前を斬りたくない」
リタは目を細め、満足そうに答えた。それでこそ自分の知るリーノだ。
「私は、貴方の味方です。神とこの身に誓って」