07
月明かりが照らす赤い絨毯の部屋。
ガラス戸の桟が格子状の影を落とす。
遊ぶ道具など何もなかったが、二人はただそこに腰掛けて飽きもせずに話をしていた。
「私は、兄上が目を覚ます前に、衣装棚の中に隠れたんだ」
「そ、それで?」
「ここで見つかったら、剣を折った犯人は間違いなく私ということになってしまう。私は息を殺した」
「うんうん」
「すると、突然、衣装棚に向けて槍が突き立てられたんだ。刃が私の鼻先で寸止めされた」
「……」
身振り手振りを加えて熱弁するウルと、その度に息を呑む少女。
「兄上は私がそこに潜んでいることをお見通しだったんだろう。私はこの人には敵わないなと、改めて思ったよ」
「…ほんとに、リーノだってわかってたのかな?お兄さん」
「当たり前だろう?」
「もしかして、寝ぼけてただけだったりして」
「まさか…」
「それで?どうなったの?折っちゃった剣、高かったんでしょ?」
「ああ、父上に言いつけられてこっぴどく叱られたが、最後には褒めてくれたよ」
「褒められたの?どうして?」
「男子たるもの、身の回りのものを壊すくらい元気でなければ、タイセイしないんだそうだ」
「タイセイ?それってどういうこと?」
「大きくなるとか、強くなるってことだ」
「へぇ、リーノは色んな事知ってるんだね」
「兄上ほどじゃない」
「マリアほどでもないね」
ウルの左眉が、不服そうに持ち上がる。
「二言目にはマリアマリアと」
「リーノだって、兄上兄上って」
「マリアマリアマリアマリア」
少女の口調を真似てからかうウル。だが、少女も負けじとやり返す。
「兄上兄上兄上兄上」
しばらくにらみ合った後、どちらからともなく脱力する。
「…お互い様か」
「…そうかもね。ねぇ?」
不意に、少女が新しい話題を切り出す。
「ん?」
「私たちは、まだ子供だよね?」
「私はお前ほど幼稚じゃないがな」
「そうじゃなくて、まだ、大人じゃないよね?」
「そうだな」
「リーノは、大人になったら何がしたい?」
「何?」
「子供のうちは、できることなんて少ないでしょ?夜遅くまで起きてることもできないし」
「眠くなったら、ちゃんと部屋に戻れよ?寝こけたお前を抱えてテラスを飛び移るのは、もうごめんだ」
「わかってるってば!話を聞いて!」
「何だよ」
「私たちが眠っていて、大人たちが起きてる夜の世界は、どうなってるのかな?私、まずそれが知りたい」
「起きていればいいじゃないか」
「それじゃつまんないよ」
「何だ、それは」
「堂々と起きてられなきゃ意味がないの。ベッドで寝た振りして起きてるんじゃ退屈だし…気がつくと寝ちゃってるし」
「あははは」
「きっと、夜にはすごい秘密があるんだよ…。子供に内緒で大人が何か楽しいことしてるかもしれない!おいしいものを食べてたり、難しい話をしたり…そのうちに、今日が終わって、明日が来る。その瞬間を感じてみたいの」
夢見るように天井を仰いで、小さな手を組み合わせる少女。
「…お前らしいかもな」
「きっと楽しいと思うんだよ。そう思わない?」
「……そうなのかもな」
「リーノはないの?そういう、夢みたいなの」
少女を見つめて、微笑んでいたウルの表情が翳る。
「……」
「リーノ?」
「私は、そんな希望を抱くことはできない」
「どうして?」
「私は、私の未来を知っている。ここで自由を奪われているように、これからもずっとこういう立場にいるはずだ」
「そんな」
「不幸だと思うか?もちろん、お前のように自由に外を走り回ったりはできない。それでも私は、そこに私の生きる意味があると信じている」
その言葉に込められていたのは、弱弱しく危ういながらも、ウルが下した一つの決意だった。少女は少し考え込んでから、急に明るい声で尋ねた。
「ねぇ」
「ん?」
「正直に答えてね?」
「何だ」
「…ここから、出たい?」
「何?」
「ここから出て、私みたいに自由に走り回ってみたいんじゃない?本当は」
「…わからない」
「わからない…ってことは、出たいかもしれないんだよね?」
「私は、国のために生きるべきなんだ。それが私の幸せだ」
少女は、「全然違う」と言いたげに、頭を振る。
「幸せって言うのは、選べるから幸せなんだよ。自由に生きることを知らないのにこんなのが幸せだなんて決め付けちゃ駄目」
「…だからって、私にはどうしようもない」
「ほら、それが本音でしょ?自分ではどうにもできないから今の状態を無理矢理幸せだって思おうとしてるだけじゃない」
「違う!」
声を荒げたウルに、一瞬だけ怯む少女。だが、問い掛けるのをやめない。
「何が違うの?」
「……」
「もし、ウルがここから出たいって本気で思ってるなら…」
「すまない。今日はもう戻ってくれ」
「でも」
「すまない」
愛国心。
王族としての責務。
そんな言葉で必死に覆い隠していたタブーに、少女は近づいてしまった。
ウルの敬愛する父母が、結果として彼を外交の道具として手放した事実。
幼い彼は、まだそこから逃げ出すことでしか心の安定を保てない。
ウルは並んで座っていた窓際の床から立ち上がり、少女に背を向けた。
「大丈夫」
「え?」
その背中に投げかけられる、穏やかな言葉。
「私が、助けてあげる」
振り返ると、大きな金色の満月が、窓の外に浮かんでいた。
そのおぼろげながら優しい光を背に、少女は立ち上がる。
「私がリーノを、自由にしてあげるから」
「……」
どうやって?とは聞けなかった。
優艶に微笑む少女の持つ、不可思議な神々しさ。
不覚にも、彼女がカーナの皇女だということを思い知らされた。
「だから、もう泣かないで。私が、あなたの力になるから」
舞うように純白のドレスを翻して、少女はゆっくりとテラスへ出て行った。
「約束するから。待っていて」
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その光景があまりに印象強かったせいか、その後どうやってベッドに入ったのか覚えていなかった。
ただ、目覚めるとガラス戸が開け放されていた。
窓から吹き込む朝の風に誘われて、テラスに出る。
中庭にも、右のテラスにも少女の姿はなかった。
…こんなにも暖かな気持ちで、朝を迎えるのは久しぶりだった。
今夜、少女の名前を聞こう。
そう思った。
いつまでも「お前」呼ばわりでは悪い。
少女がもう二度と、テラスから訪れることがないと知ったのは、しばらく後のことだった。