06
真夜中。
ベッドが変わったせいか、なかなか寝付けずに寝返りを打つ。
暑くもなく寒くもない。
目を閉じればかすかに、平和な夜を謳歌する虫たちの合唱が聞こえる。
一度眠りに落ちてしまえば、もう朝まで目覚めることはないのだろうが。
兄達は、どうしているだろうか。
自分のいないレーヴェモントで、何を思い暮らしているだろうか。
エーヴィッヒ以南はこれから雪が降り、厳しい季節が来る。
寒がりで病弱な母の、細く白い、だが不思議と温かかった手が、思い出されて懐かしかった。
じっとしていられずに、ウルは南向きのガラス戸を開き、半円形のテラスへと出ていた。
相変わらずの緑の香りに、夜の匂いが混じった穏やかな風。
昼間より少し冷たいが、適度に涼しく心地よかった。
星の動きを見て、真南の方向に向き直る。
エーヴィッヒの稜線が思ったよりずっと高くにあり、自分の好きな星を見つけることはできなかった。
真南。
ということはつまり、この視線の先にレーヴェモントの王城がある。
その場に膝をつき、ウルは目を閉じた。
(おやすみなさい。父上。母上。兄上)
そのまま、動けなかった。
理由はわからない。
白い大理石で作られたテラスの中央で、瞑目し跪く少年。
祈るように、眠るように。
…届きそうもない。
自分の想いは、言葉は、きっとエーヴィッヒを越えられない。
そんな気がしていた。
「何してるの?」
突然響いた、屈託のない声。
はっとして目を開く。
いつの間にか、テラスの手摺に少女が一人、腰掛けていた。
空に浮かぶ月と同じ色の髪を、静かに揺らしながら首を傾げる。
「泣いてたの?」
「…っ誰が!」
その少女が何者か、どこから来たのか、いつからそこにいたのか。
すべての疑問を保留してウルは眉を吊り上げた。
「違うの?」
「違う!」
「ごめん、だったらきっと、気のせい」
困ったような少女の表情。自分が何故こうも声を荒げているのか、ウルにもわからなかった。
「大体、何者だお前?そんな所から、無礼だろう!」
「あ、ごめん」
よいしょと声を上げながら、手摺からテラスに着地する少女。
白いドレスの裾がひらりと揺れた。
月夜に似つかわしくない、太陽のような笑みを浮かべる。
あどけなさと無防備なまでの人懐っこさ。
初対面の相手にこうも明け透けな笑顔を向けられる人間を、ウルは他に知らない。
「たまにやるんだ。夜の庭とか星が見たいときとかに、ベッドに偽者の人形を入れて、マリアの部屋のテラスに隠れて皆が寝静まるのを待つの」
聞いてもいないことを勝手に言って、右手側を指差す。
その先には確かに、ここと同じようなテラスがいくつか並んでいた。
飛び移れない距離ではないが、ここは4階だ。
落ちればひとたまりもない。
一体何を考えているのか。
「自分の部屋の窓は、開かないようにされちゃったんだ。こんなことばっかりしてたから当然なんだけど」
そう言って、舌を出してみせる。
どうやら、彼女にとってこれは日常のことらしい。
「そろそろ寒いからマリアを起こして入れてもらおうかと思ったんだけど、昼間ケンカしちゃったから…」
「……」
「どこかカギ掛け忘れてるところがないか探してたら、君が見えたの。泣いてるのかと思って急いで来たんだよ」
「…無駄足だ」
にべもなく言い放って、ウルは室内に戻る。開け放したガラス戸から、少女は無遠慮についてきた。
「何で入ってくる!」
「だって、マリアとケンカしちゃったから…いいでしょ?部屋の中通るだけだから」
「…ここからは、戻れない」
「え?どうして?」
ウルは答えず、巨大なドアを指差してみせる。
不必要に丈夫そうなその扉には、外から閂がされていて、押しても引いてもびくともしない。
しばらくその扉と格闘していた少女だったが、すぐに諦めてその場に座り込んだ。
その姿勢のまま首だけをこちらに向けて尋ねてくる。
「ねぇ、君」
「何だ」
「君、誰?どうしてこんなところに閉じ込められてるの?」
「……」
言われてみると、確かに今の自分の状況はそうだった。
テラスから隣の部屋へと逃げ出すことは不可能ではないが、そうまではしないと高をくくられている。
しかし夜になれば、必ず閂が下ろされ、「閉じ込められる」のだ。
面白いものを見つけたというような顔で、少女は答えを待っている。
彼女にしてみれば、囚われの身の人間などというのは物語の中にしか登場しないものなのだろう。
自分が締め出されている状況も忘れて、随分と楽しそうである。
「不便じゃない?夜にお腹空いたらどうするの?」
「…卑しいヤツだな」
「私は、みんなに内緒で料理長にお菓子もらうの。おいしいんだよ?」
「……」
「見つかるとマリアは怒るけど、マリアの部屋にもお菓子隠してるんだよ。たぶんこっそり食べてるんじゃないかな?」
…この少女には、戻る場所がある。
マリアとやらに叱られるのかもしれないが、扉をノックすれば必ずそこを開けてもらえる。
「で?君は、誰なの?」
もう一度尋ねてくる。
濁りのない表情と好奇心をぶつけられて、一瞬何かが熱くなり、そして急激に冷めていく。
「私は…」
「うんうん?」
身を乗り出して頷く、自分と同い年くらいの少女。
その無邪気さが、何故だか、とても…。
「私には、戻る場所などない…」
「え?」
「もう、戻ることなど許されない。迎えてくれる人もいない…」
「え?ちょっと…」
「私は…。ぼく、は…帰るところなんて…」
「嘘、どうしたの?ねぇ、大丈夫?」
しゃくりあげるような声。それさえも隠すように、ウルは両膝を抱えその上に顔を埋める。
何故こんなときに。
こんな訳のわからない女の子の前で…。そう思うほど、止められなかった。
「兄上…母上ぇ」
「……」
「リーノは、寂しいです。泣き虫で、弱虫で、ごめんなさい…」
…どのくらいそうしていたのか。
もう一度顔を上げたときには、開け放したガラス戸の外から朝日が差し込んでいた。
少女の姿もなかった。
ベッドに戻る気力もなく、そこでそのまま眠った。
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泣き腫らした目を気遣ってくるメイドを適当にあしらって、部屋から追い出す。
気が付くとテラスのほうを見ている自分が不思議だった。
朝食の味も、それどころか何を食べたのかさえも覚えていない。
不覚だったと思う。
まさかあんな相手に失態を晒すことになろうとは。
何も言わずに出て行ってくれたのは、幸いだったかもしれない。
適当な慰めの声などかけられたりしていたら、きっともっと惨めだった。
…あれは、自分の本心だろうか?
それとも、緊張の糸が切れただけだろうか?
きっと、後者だ。
国のために尽力することこそ使命。
そこに悔いなどあるはずもない。
ただ、あの娘の妙な馴れ馴れしさに戸惑ってしまっただけだ。
「リぃーノぉ!」
「?!」
『あの娘』の声が聞こえる。
最初は聞き間違えかと思った。
そう呼ぶことを許されているのは、彼の家族だけだったはずだ。
「リーノぉ!まだ寝てるー?」
あわててテラスへ飛び出す。
薄暗い室内から日差しの中に突然出たせいか、眉間の辺りがずきずきと痛んだ。
「あ、起きてた。おはよう」
眩しさに目が慣れてくると、二つ右のテラスに、ひらひらと手を振っている昨日の少女の姿が見えた。
後ろに控えるように立っている黒髪の女性が、どうやらマリアという人物らしい。
「お、お前!どこで私の名前…」
問い詰めようとして、昨夜のことを思い出す。
不覚。
よりにもよってあんな変なヤツにその名で呼ばれるとは。しかもなぜか当然のように呼び捨てで。
「え?何?」
「…なんでもない」
「なんでもなくないでしょ?よく聞こえなかったの。何て言ったの?」
「なんでもない!」
「待ってね、いまそっち行くから」
ドレス姿にもお構いなしで、慣れた様子で手摺によじ登ろうとする少女。
が、あわてて駆け寄ったマリアに襟首を掴まれた。
「あ、離してよ、マリア!リーノのとこ行くの!」
「姫様。そのようなことは慎むようにと申し上げませんでしたか?」
「申し上げてません!」
「いいえ、何度もお願い申し上げました。姫様はこのマリアめのお願いを、お忘れになってしまったのですか?」
少女の両肩を掴んで顔を突き合わせ、マリアは問い詰める。
「…申したかも、しれない」
お願いという言葉を挟むだけで、姫君の答えは幾分か素直になっていた。
彼女はこのじゃじゃ馬の扱いに慣れているようだ。
「では、お部屋にお戻りください。今日はお勉強が終わるまではお外に出ない約束です」
「えーーーー」
不満たらたらの少女を部屋の中に押し戻してから、マリアはウルに向けて一つ礼をしてみせた。
「お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。レイスティア様。失礼いたします」
「……」
なんと答えていいのかも分からず、軽く手を上げてみせる。
(姫様、ということは、彼女が皇妃の後継者?カーナの王族に対する教育はどうなっているんだ?)
山一つ隔てるだけでこんなにも違いがあるものか。
もし自分がレーヴェモントであんな振る舞いをしたら、父上と母上が揃って卒倒するだろう。
あまりのことにそのまましばらくテラスで呆けていると、少女とマリアの会話が漏れ聞こえてきた。
「姫様、いつレイスティア様と?」
「リーノのこと?」
「はい。いつお友達になられたんですか?」
(友達じゃない…)
「え、えーっと、この前」
「この前?」
「それより!なんでリーノは閉じ込められてるの?出してあげようよ」
「…そういうわけには」
「かわいそうだよ。泣いてたよ?」
「泣いてない!」
思わず怒鳴る。
「うわ、聞こえてたのか」
「し、失礼しました」
それを最後に、二人の会話は聞こえなくなった。
「ふんっ」
憤然と足を踏み鳴らしながら室内に戻る。
なんてヤツだ。あれが姫君?
あんな無鉄砲で、粗野で、幼稚で…。
しかし…なんとなく胸の痞えが取れたような気がするのはどうしてだろうか。
こちらの顔色ばかり伺ってくる連中の相手をしていたからか、馴れ馴れしいあのじゃじゃ馬姫の態度は、なんとなく痛快なものがあった。
「……ははっ」
腹が立っていたはずなのに、しばらくすると何故か笑い出していた。
弱音を聞かれ涙を見られたのも、なんとなく許せる気がしてしまうのはどうしてだろう。
無礼だが、何だか面白いヤツかもしれない。
それから、そのじゃじゃ馬姫はほぼ毎晩テラスに闖入してきた。
寝付けずにうとうとしているとガラス戸を叩く音がする。
ウルは嫌々という素振りをするのを忘れずに、必ず鍵を開けてやった。
二人が親しくなるのに、そう長い時間は必要ではなかった。