03
「…一人か」
この上なく不穏で、非日常的な輝きを放つ、抜き身の長剣の切っ先だった。
それの柄が人間の手に握られているとは到底信じられないほど、切っ先は震えもなく微動だにせず、真っ直ぐリタの喉元を狙っていた。
トレイの上で小皿がかちかちと震える。
剣がゆっくりと扉を開いていき、戸口にリタ以外の人影がないことを確認すると、ようやくウルが顔を出した。
「…驚かせてすまない」
出会ったときと同じ口調で、同じ謝罪の言葉を口にする。
それだけで笑って許すには、あまりな行為だった。
「灯りを消すぞ。どこか安全な所に隠れていてくれ」
混乱で何も言えないままのリタに一方的にそう告げ、ウルは燭台に灯された炎を吹き消した。
部屋は再び冷たい闇に包まれる。
「ウ、ウル様」
非難と疑問をない交ぜにして、とりあえずそう呼びかける。
返事は、なかった。
ウルが窓の扉をゆっくりと開くと、予想していた以上に冷たい外気が流れ込んでくる。
夜の風にたなびく分厚い雲の先端が、穏やかな光を放つ上弦の月を、今まさに覆い隠そうとしているところだった。
今夜はもうお目にかかれないだろう月の明かりが最後に照らしたのは、酷薄そうに歪められたウルの横顔だった。
「早かったな。思っていたよりずっと」
リタには全く意味不明な呟き。そこに込められた感情が何なのか、見当すらつかない。
ただ「嫌な予感」としか呼びようのない不快感が、足元から這い上がってくる気がしていた。
ウルは一度剣を鞘に戻し、椅子の背に掛けてあった外套を再び身に纏うと、上半身を窓の外に突き出した。
2,3度辺りを見回してから、無造作に両手で頭上の窓枠を掴み、夜の闇へと飛び降りた。
「あ!」
慌てて窓辺に駆け寄り真下を覗き込む。
一階の出窓に取り付けられた庇に、無事着地したらしい赤い人影が見えた。
危うい足場に揺らぐ気配もなく、ウルは直立不動のまま付近の森を睥睨する。
闇の中でも鮮やかなその姿は、人知れず真夜中に舞う、一匹の赤い蝶のようだった。
「随分と無粋な訪問だな」
風が揺らす木々の枝が擦れあい、囁くような音を立てる中に、その声は凛として響いた。
「我が名はウル・リーノ=レイスティア。貴様らが探している首はここだ」
堂々たる名乗りの声。
それに呼応するように、きんっと澄んだ金属音が鳴り響く。
宿を囲む森のあちこちで、何者かが一斉に抜刀した様だった。
ウルが庇から、音もなく飛び降りる。
芝が敷き詰められた前庭の中央付近まで、無防備に、悠然と歩み出た。
リタはもはや言葉もなく、ただそれを傍観するばかりだった。
ゆっくりと、あくまで優雅な動作で、ウルが腰の長剣に手を掛ける。
それが合図だった。
三つの黒い「何か」が、一斉に木立の闇から躍り出る。
影。そう、影だ。
輪郭もおぼろげなそれらが、人間とは思えない獰猛な速度で、三体同時にウルへと突進する。
その動きには躊躇いはない。
狙いは、恐らくウルの命。
腰を落として待ち構えるウル。
接触の寸前、目の覚めるような横薙ぎの一閃が走った。
ウルから向かって左と正面の二人は危険を察知して飛び退く。
死角を取った右側の一人だけがウルの背中に突進する。
(…!)
リタが目を覆う暇もなく、二つの影がぶつかる。
いや、正確には衝突の寸前で何かがそれを遮っていた。
真紅の外套の裾から、長剣の鞘が突き出されている。
ウルの左手が逆手に掴んでいるらしいそれは、狙い違わず敵の中心を捉えていた。
数秒の静止の後、黒い影は声もなく倒れこむ。
ようやくリタの目に止まったその影の正体は、漆黒の法衣と銀色の仮面を身に付けた、痩躯の男だった。
振り抜いた長剣を右手の中でくるりと半回転させ、逆手に持ち直すと、ごく自然な動作で真下に突き立てる。
そこには、鳩尾を押さえて呻く黒ずくめの男の、無防備な右足があった。
刃が肉を貫く形容し難い異様な音と同時に、仮面の下でくぐもった悲鳴が響く。
「…仲間が苦しんでいるぞ。助けに来なくていいのか」
悪びれもせず、むしろその右手に更なる力を込めて傷口を抉る。
影が苦痛に身を捩ろうとも、奇声を上げようとも、ウルに容赦する気配はない。
長剣の先端はすでに男の大腿部を貫き、地面まで到達していた。
残り二人の黒ずくめ達は、挑発に乗ることもなくウルとの間合いを測っている。
じりじりと含み足で近寄っては、飛び退いて距離を取る。
それを繰り返すばかりだ。
ウルは小さく舌打ちすると、無造作に長剣を引き抜く。
切っ先にまとわりつく血を振って落とし、改めて腰を落とす。
左半身を前に斜に構え、両手は長剣の柄に添えて上段に構える。
二体の影がたじろぐ様に後退した。
「あまり見くびってくれるなよ。出来損ないの隠密兵三匹ごときに、くれてやれるほど安い命ではない」
言い終わるが早いか、皮のブーツの底が芝を噛んで、ウルの体が駆け出す。
加速の勢いを刀身に乗せ、火の出るような斬撃を繰り出す。
先ほどの影の突進ほどの速度はないが、ウルの気迫に喰われた敵は、靴底をその場に縫い付けられたように動けずに居る。
苦し紛れに、短刀を握った両手を交差させて頭上にかざす。
が、そんなもので受け止めきれないのは誰の眼にも明らかだった。
重ねられた二本の短刀、更にはそれを持つ両腕を一気にへし折り、やっと剣が止まった。
本来曲がるはずのない部分から、両腕がだらりとぶら下がる。
悲鳴をあげるよりも早く、影の腹に長剣の柄がめり込む。
胃液を吐き散らしながら二人目が沈黙した。
「覚悟…」
三人目の影は他の二人よりも幾分か多く度胸を持ち合わせていたらしく、ウルが二人目に斬りかかると同時に地面を蹴っていた。
仲間の体を気にかける素振りもなく、頭上からウルに襲い掛かる。
得物は毒針。
掠り傷でもつけることが出来れば、彼の仕事は終わる。
「無能だな」
不意に、赤い外套がふわりと舞い上がり広がる。
視界を真紅に染められた影の思考が一瞬停止した。
警告。
血と同じその色は、理屈よりも早く脳と本能に働きかける。
殺意の塊だった影に一瞬過ぎる逡巡。
ウルにはその刹那だけで十分だった。
いつの間にか鞘に収めた長剣を真上に突き上げ、影の額を先端でかち上げる。
受身も取れず派手な音を立てて影が芝の上に落ちた。
落下の衝撃から立ち直る隙を与えず、鞘をつけたままの剣を脛めがけて振り下ろす。
がす、と湿った音を立てて影の右足の骨が砕かれた。
「…ぁ!…きさ、まぁ!」
激痛で漏れかける呻きをどうにか抑えつけ、それでも影は敵意と殺意を捨てなかった。
もはや抗う力もないその体を、冷ややかに睨め付けるウル。
「逃げ切れるとでも、思っているのか…」
「黙れ。負け犬が」
眉一つ動かさず、先ほど鞘で打ち据えた箇所を踏みつける。
「あぁぁあああぁぁぁぁああぁぁっ!!」
狂ったように悶える黒い影。
それでもウルは力を緩めない。
そうすることにどんな意味があるのか。
なぜ彼がそんなことをするのか。
目の前で繰り広げられる異常な光景に対する恐怖もさて置いて、愚かしいほど純粋な疑問がリタの頭で渦巻いていた。
やがて痛みで意識を失ったのか、影は動かなくなった。
平然と腰に長剣を戻すウル。
時間にしてみれば、リタがサンドイッチを作るのとほぼ同程度だった。
たったそれだけの間に、目の前ではこれだけのことが起こっていた。
ついに降り出した大粒の雨が、開け放した窓から吹き込んでくる。
その雫が顔にいくつぶつかっても、リタは動けなかった。
おそらく、恐怖と戦慄。
そして、さらに膨らんだ違和感で。
小躍りしたいような気持ちで黒パンを切っていたのは、いつのことだっただろうか。
自分は、この手元の料理を誰に食べさせるつもりだったのだろうか。
そんなことさえ疑問になってしまうような光景だった。
窓の外、三つの影が横たわる庭。
降りつける雨粒にも構わず、ウルはそこに佇んでいた。
息一つ乱さず、その瞳に何の感情も灯さずに。
硬直したまま、リタはその姿を見つめる。
嘘だ。別人だ。
星の話をして微笑んだ、あの人はどこへ行った?
胸の高鳴るような、あの無邪気な笑顔は何だったんだ?
ふと、ウルが顔を上げる。それは間違いなく、リタを見やるため。
「……」
気が付くと、リタは窓枠の右側に姿を隠していた。
彼は自分に「隠れていろ」と言った。
言われたとおりに隠れていて、何も見ていないことにすれば…。
実際には、そこまで考えての行動ではなかった。
本能的に危険と感じる脅威が、目の前にあった。
だから身を隠した。
自分を守るために。
呼吸が荒い。
今に比べれば、先刻の胸の高鳴りなど可愛いものだった。
いけない。平静を装わなければ疑われる。
そう思えば思うほど呼吸が、脈が、心が乱れる。
中途半端に開け放たれていたドアが、きぃと鳴って誰かが入ってくる。
裏口から入って階段を登ってきたにしては早い。
いや、恐怖に震えているうちに、周囲の世界はリタを置いてそれだけ進んでしまったのかもしれない。
窓から差し込むほんのわずかな光が、彼の足元を照らす。
「…っ」
鼻がつんとするような痛み。歪みそうになる口元。
そして、頬を流れる雫。
駄目だ。何も見ていないフリをしなくては…。
「どうした?」
わざと低く押し殺したような、ウルの声。
それだけでまた、剣の切っ先を突きつけられた気分だった。
口を覆って嗚咽を止めようにも、両手はトレーで塞がっていた。
「…見ていたのか」
キン、という音がした。
剣を抜いたのか。
自分を殺すために。
全身の力が抜ける。自分の無力さを呪う一方、どこかで、「開放される」という期待がちらついた。
今の恐怖からか、それともここでの生活からかは、判然としなかったが。
目を閉じる。
彼に見られるのなら、歪んだ死に顔は嫌だと思う。
そんな風に奇麗に覚悟をまとめた自分に、良くも悪くも驚いた。
しかし、予想に反してリタを包んだのは、刃に貫かれる痛みではなく、穏やかな光だった。
それは、リタが厨房においてきたはずのランプだった。先ほどと同じキンという音を立てて、火を灯したランプのカバーが閉じられる。
ウルの手にはそれだけだった。
剣は腰から外され、戸口に立てかけてあった。
「すまない。嫌な物を見せてしまったな。許してくれ」
労るような声。
ぼんやりと室内を照らす柔らかい光。
そして、彼の相貌に、さっきまでの冷酷な光はなかった。
宿までの道中に見せた、あどけなさの残る表情が…今はただ寂しそうに歪められていた。
それはまるで、最愛の母と死別した少年が、必死に涙をこらえているような…。
(……)
それは時間にすれば一瞬のことで。その後ウルはリタの足元にランプと金貨を一枚置くと、未練を見せる素振りもなく部屋を出て行ってしまった。
しかしリタは、自分の網膜に焼きついたその表情から、しばらく目を離せずにいた。
これは、なんという感情だっただろうか。
その疑問に対する回答を探して、リタは記憶を遡る。
間違っても、さっきまでの恐怖ではない。
どうしようもない切なさのような、懐かしい気持ち。
以前にも、誰かにこの気持ちを抱いたことがある。
赤い絨毯の豪華な部屋の隅で、膝を抱えて座り込んでいた子供。
そのとき自分は、彼をどうしたいと思ったか。
…思い出した。
「………リーノ」
守りたい。そう思った。