02
「こちらです」
ほどなくして、二人は街はずれにある安宿の前に辿り着いていた。
針葉樹林の中に隠れるように建てられた、煉瓦と土壁の二階建て。
頑丈そうな造りではあったが、いかんせん古い。
ツタが絡まり苔生した外観は、一見すると廃屋のようにさえ見える。
今はどの部屋からも灯りが漏れていないので尚更だ。
元は民家だったという話を噂に聞いたこともあったが、それがどういう経緯で今の女将の所有物となったのかは、リタの知るところではない。
女将の部屋からも光が漏れていないことを確認して、裏口から入ることにする。
ウルは黙ってついてきた。
女将から預かった真鍮の鍵をポケットから取り出し、調理場に繋がるドアを開く。
当然ながら中は真っ暗だった。
手探りで戸口にかけてあったランプを外し、火を灯して、中に入った。
「足元、気をつけてください」
リタが注意するまでもなく、ウルは音もなくひらりと敷居を跨いで入って来る。
羽の髪飾りを揺らしながら、厨房の中を見回す。
「出来れば、二階の部屋がいいんだが。空きはありそうか?」
「あ、はい。今日は、どこの部屋でも大丈夫だと思います」
「感謝する」
恭しく一礼してみせるウル。
彼の言動や仕草はつくづく堂々としていて、さりげない気品のようなものさえある。
こんな知り合い方でなかったなら、何か劇的な展開の一つも期待してしまいそうなのだが…こそこそと裏口から宿に侵入している現状は、そういう理想とは程遠い。
一階にはほかに、女将の部屋、客間が二つ、リタ達の寝室、物置があり、エントランスホールから続く廊下の左右にそれぞれ三つずつ扉が並んでいる。
最奥部の右が女将の部屋、左が今居る厨房である。
リタは口の前に人差し指を当て、静かにするよう合図してから廊下に出た。
軋む床板の上をそろそろと歩いて玄関に出る。
二階まで吹き抜けになっているホールは、左右に弧を描く階段が取り付けられていて、そこそこ豪華な造りだった。
「こちらのお部屋でよろしいでしょうか?」
二階に上がってすぐの部屋。
普段は奥のほうから客を入れていくため、その部屋は使った回数が少なく、比較的綺麗だった。
無断で使うと怒られるのだが、今回は泊まる人の身分を考えた配慮だということにすれば、問題はないだろう。
戸口と窓際にある燭台にランプから火を移すと、薄暗かった室内を暖かな光が満たした。
木製の机と椅子、そして、簡素だが清潔そうなベッドが並べて置かれている。
窓には小さな木製の戸が取り付けられており、今は冷えた外気を侵入させないようにぴったりと閉じてあった。
ウルは一通り部屋を見回すと、小さく頷いた。
どうやら満足してもらえたようだ。
胸元のベルトを外して、外套を椅子の背に掛ける。
夜道では気が付かなかったが、その真紅の外套は酷く痛んでおり、綻びや汚れが目立った。
同じ生地で作られているらしい彼のズボンやベストにも、細かな傷があるようだ。
改めて、彼の素性と旅の経緯を疑問に思った。
「ただいま、お部屋の鍵をお持ちしますね。何か軽くお召し上がりになりますか?」
両手を体の前に重ね、丁重に尋ねるリタ。
ウルはその問いには答えず、苦笑して、
「その前に、脱いだらどうだ?」
突然、そんなことを言う。
「…え?」
またしても不意打ち。リタの思考回路がぴたりと止まる。
(やっぱり…そういうことを?それにしても、着いてすぐなんて…そんな突然…)
「宿の中でも、いつもそんな格好なのか?」
言われて、身に纏っていたねずみ色の外套のことを思い出す。
「あ…失礼しました!」
何故こんなにも失態続きなのだろう。もはや体裁を取り繕うことも出来ず、とりあえず頭を下げてから、慌てて外套を脱ぐ。
そこに露になったリタの姿に、腰の剣を外そうとしていたウルの左の眉がぴくりと上がった。
「お前…」
「はい?」
エプロンドレスの肩紐の上で切りそろえられた、細くしなやかな金の髪。
白く抜けるような肌の上に、今はほんの少し赤みが差している。
緩やかに弧を描く眉と、その下の大きな瞳は薄い空色。
垢抜けてはいないが親しみの沸く、穏やかな表情が似合う顔立ちだった。
「どうしてこんな所で、こんな仕事をしているんだ?それだけの器量があれば、労せずにもっといい暮らしもできるだろう」
リタが驚きに目を見開く。
一瞬絶句してから、更に頬を染めて俯き、
「そんな…からかわないで頂けますか」
消え入りそうな声で言った。
「世辞で言っているのではない。本当だ」
ウルはあくまで真剣な表情を崩さない。
リタは居た堪れなくなって踵を返す。
「もうお許しください。失礼します」
逃げるように部屋から出て、ドアを閉める。
後ろ手にノブを掴んだまま背中をもたせかけて、脈が落ち着くのを待つ。
なんだか今日は心臓の休まる暇のない一日だ。
(びっくりした…。なんで突然あんなこと…)
やっぱり貴族だけあって、誰にでも社交辞令でああいうことを言うんだろうか?
いや、もしかしたらもしかして、本心だったりするのかも?
…逃げ出さずに話を続けていたら、どういうことになっていただろうか…。
そんなことを考えると一度は落ち着いた心臓がまた暴れ出して、リタは両手を胸の前に重ねた。
ともあれ、自分にはこの部屋をもう一度訪れる正当な理由がある。
仕事だ、仕事。
なぜか自分にそう言い聞かせて、厨房に急いだ。
軽食…何を作って持っていこうか。
なんとなく、いつもより腕によりをかけてしまいそうな自分に気づいて、リタは人知れず微笑んだ。
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こんな夜中に竈に火を入れるわけにもいかないので、そう凝ったものは作れない。
しばらく悩んだ後、調理場の棚を漁り回って、山羊の干し肉と黒パン、各種の野菜を準備する。
木のボウルに山羊の乳を少量入れ、千切った干し肉をその中に漬け込む。
臭みを取ると同時に少しでも柔らかくして、消化と食感を良くする工夫だ。
握りこぶしよりも少し大きいくらいの黒パンにナイフで切れ目を入れ、バターを断面に塗る。
適当に刻んだ木の実や野菜、そして先程の干し肉を上に乗せ、刻んだ香草の葉も少々。
仕上げに、挽きたての黒胡椒をかける。
好みでつけられるように、マスタードを小皿に絞って添える。
ただパンに具材を挟むだけの料理だと思ったら大間違いだ。
簡単なだけにおいしく作るのにコツや知識は必要ないが、工夫の仕方はいくらでもある。
食べた人間が「おいしい」と言ってくれるか「すごくおいしい」と言ってくれるかの差が、そのひと手間でつくかもしれない。これはリタの持論だった。
思えばここ五年間、そこまで考えて料理をすることなどなかったかもしれない。
女将に言われるまま、仕事として、ノルマとして済ませるだけの課題。
誰が食べるのかもろくに考えずに、レシピの通りに作る。
それは当たり前のようで、とても寂しい事実なのかもしれなかった。
そんなことにも気づけなくなっていた自分に、少なからず動揺していたりもする。
(…なんだろう)
封じ込めていた気持ち。
決して零れないように厳重に封をしておいたはずの感情が、少しずつまた頭をもたげようとしている。
黒パンの上に具材を乗せ終えた姿勢のまま、リタはしばらく動けずにいた。
この宿で馬車馬のようにコキ使われているうちに、そんな感情を制御するのにもすっかり慣れたつもりでいた。
そうならなければやっていけないような理不尽な状況が、ここではなんでもない日常だったのだから。
…やはり、あの少年には何かがある。
出会ってからたったこれだけの時間に、こうも自分の気持ちが掻き乱されているのは、今もリタの胸にひっかかっている違和感に遠因があるに違いない。
多分、明日の朝になれば彼は出て行ってしまうだろう。
根拠はないが、予感というにはあまりにも確信めいた感覚がそう告げていた。
そうなる前に、この違和感の正体をつきとめなくては。
胸元から湧き上がる使命感に、拳を固める。
ただ忙しさに追われながら塗りつぶすように過ごしていた日々の中では、絶対にしない仕草だった。
年季の入った木製のトレーにサンドイッチとマスタードの小皿を乗せ、厨房から出る。
忍び足で廊下を抜け、階段を登る。
かすかに光の漏れる部屋の前に立ち、深呼吸した。なんとなく前髪を整えてみたりする。
これも最近した覚えのない動きだった。
「失礼します」
軽く二回ノックをしてから、努めて上品な声をかける。
一秒が一晩に引き伸ばされているような気分で返事を待つ。
が、何の反応もなかった。
「?」
不審に思ってもう一度ノックする。眠ってしまったのだろうか?
しばらく待ってからもう一度だけノックしようと右手を上げたところで、きぃと音を立てて薄くドアが開いた。眠ってはいなかったようだ。
お食事と鍵をお持ちしました、と声をかけようとして吸い込んだ息が止まる。リタから見て押し戸であるそのドアの隙間から覗いたのは…。