01
エーヴィッヒと名付けられた山脈の最東端、良質の鉱脈が手付かずのまま眠ると云われたホルンの山の南の中腹に、ゴルトシュネという街はあった。
本来ならばもっと大規模な宿場町が設けられ、大々的な採掘作業が行われているはずの土地なのだが、今はそんな気配すら窺えない。
5年前、山脈のほぼ中央に位置する、オーアという火口が200年ぶりに噴火活動を再開してからというもの、一年を通じて風下に位置するこの区域は、粉塵や有毒ガスの影響で開発がままならなくなっている。
エーヴィッヒ鉱脈群の事実上の採掘権を保有していたレーヴェモント王国も、山脈東側での採掘作業を断念せざるを得なくなって久しい。
今この地域を掘り返しているのは、レーヴェモントが手を引いたのをいいことに無断で鉱脈をつつく、半ば盗人のような連中であり、ゴルトシュネは、そういう人間の屯する街だった。
どことなく後ろ暗く、胡散臭い雰囲気が漂うのも無理からぬことであった。
そんな場所だからこそ、何故こんな少年が、と思わずにいられなかった。
身に着けているものから窺うに、金や仕事に不自由している様子はない。
宿を探しているということは旅の最中なのだろうが、持ち物といえば腰に下げた細身の長剣一本だけ。
とても山に臨む備えが出来ているとは言えない。
一体、どういう事情でこんな所を歩いていたのだろうか。
怪訝に思いながらも、とりあえずリタは少年を宿へと案内することにした。
街道から外れた薄暗い針葉樹の林道を、リタは早足に、俯きながら歩いた。
先ほどの失態を恥じる暇もなく、思い出したように緊張がぶり返して来ていた。
すぐ後ろを歩く少年の様子は平静そのものといった感じで、リタの心中を察するような素振りもない。
このくらいの歳なら、リタが思わず言ってしまった誘いの文句の意味が分からないこともないと思うのだが…。
(貴族の息子だから、遊びなれてるのかな…?)
そう考えて、なんとなく嫌悪感がこみ上げてきた。
自分と同い年かそこらのこの少年が、顔色一つ変えずに……そういうことをする場面を想像してしまったのだ。
あわてて、リタは頭を振る。
いやいや、彼は今夜の宿を探しているだけで、自分には何も期待していないかもしれない。
緊張するだけしておいて、何もなかったら逆に惨めだ。
深く考えるのはやめておこう……。
女将には、チップをはずんでくれそうなお客を連れてきたと言っておけば、なんとか納得してもらえるだろう。
木製のサンダルと皮のブーツで砂利を踏みしめる音だけが、夜の静けさに繰り返される中、リタの耳には、自身の早鐘のような心音しか届いていなかった。
背後の少年の視線は、今どこに向けられているのだろう。
意識しないように努めても、そんなことが気になって仕方がない。
道の先?足元?それとも、自分の背中だろうか…?
緊張と沈黙に耐え切れなくなって、リタが沈黙を破る。
「あの…」
「何だ?」
「…この街へは、どういった御用でいらっしゃったんですか?」
裏返りそうになる声を抑えて、なんとか質問する。
「……この山の頂の神殿に、洗礼を受けに行く」
「お一人でですか?」
「…家訓でな。護衛も随員もつけられない」
しばらく逡巡するような間を空けてから、少年が返答する。
リタには、それが嘘だとすぐに分かった。確かにホルンの山頂には、戦いの神を奉った大神殿がある。
王家の人間が成人の儀式などのために訪れたりすることがあるらしいが、何かが違う。
表には出していないが、彼にはもっと、何か切羽詰った事情があるのではないだろうか。
「お前は?」
「え?」
「お前は、何をしていた?あんなところで」
話を逸らすように、逆にそう尋ねてくる。
「え、あ…えっと」
まさか本当のことを堂々と答えるわけにもいかず、ひとしきり慌てた後で、取り繕うように言う。
「星…そうです、星を見ておりました」
「星?」
背後から聞こえる、髪飾りの揺れる音。
空を見上げたのだろう。
この季節の夜空など、大して見物になる訳でもない。
雨雲ももうすぐそこまで迫っている。
下手な言い訳だったが、意外な反応が返ってきた。
「そうか。いい趣味だな」
軽く笑ったような吐息と、思いの他穏やかな声。
リタは思わず振り返っていた。
5,6歩距離を空けたところに少年は立ち止まり、天を仰いでいる。
「私も道中、星を頼りにこの街を目指していた。あんなに小さな輝きでも、迷えるときには頼もしい物だ」
惚けたように見つめているリタに気づいて、少年は照れくさそうに笑んで見せた。
油断なく引き締められていた端正な眉目が、年相応のあどけなさを取り戻す。
「娘、名前は?」
幾分か親しげになった声で、少年が尋ねる。
不思議なことに、リタの心音は落ち着きを取り戻していた。
「リタと申します」
「私はウル。訳あって素性は明かせないが、これは偽らざる私の本名だ。覚えておいてくれ」
「……」
ウル…残念ながらその名前は、リタの記憶を喚起するようなものではなかった。
にもかかわらず、彼女の胸騒ぎは消えなかった。
人違いや他人の空似で片付けてしまうには、その不思議な感覚はあまりに大きく、リタの胸を締め付けていた。
(私は、この人を知ってる?どこかで会ったことがある?どこで?)
頭か胸か、掻き毟りたくなるような衝動。
重大な何かが思い出せない。
自分の日常をひっくり返すような、そんな大きな事と繋がっている何かが…このウルという少年にはある…気がする。
「すまない。少し、急いでもらえないか?できれば降り出す前に着きたい」
「あ、はい!申し訳ありませんっ」
ウルに言われ、またしても我に返る。
言われてみればジロジロとウルの顔を見つめたままだった。
頬と耳に血が集中していくのを感じながら、宿へ向けて再び歩き出した。
そんな二人の姿を、遠く街道の影から盗み見る視線があったことに、リタは全く気づいていなかった。