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その後もウルは慣れた様子で買い物を続けていった。
商人たちが使っていた敷物を二枚買って、紐を通して即席の巾着袋を作り、買い込んだ食糧をその中に放り込んでいく。
「食料はこんなものか…。そういえば、昨日から何も食べていなかったな」
「あ…そうですね…」
女将に嗅がされたあの煙のせいで減退していた食欲が、その言葉を聞いて思い出したように襲ってきた。
ほぼ丸一日、何も口にしていなかったことになる。
途端に荷物を持つ手に力が入らなくなって、袋を取り落としそうになる。
旅慣れているウルには、この程度の断食は日常茶飯事なのか、平然としている。
「今買ったものを適当につまもう。ここは埃が多いな…。林の中に入るか」
出来るだけ人が少ない方向の、さらに見通しのきくような場所を探して歩く。
新しいブーツは思った以上に歩きやすく、新品でも問題なく足になじんでいた。
それにしても、ウルは新しい服を買わなくていいのだろうか。
街中を歩いていて実感したが、赤銅色の髪に赤い外套という姿は否が応でも人の目を引く。
これでは、追っ手に自分の居場所を教えているようなものではないだろうか。
「ここでいいだろう」
林道から少し外れて、申し訳程度に芝の生えた一角に荷物を下ろし、巾着袋を広げる。
ウルが独断で選んだ食料が目の前に小山を作っていた。
固く焼いた棒状のパン、干し肉の塊、林檎、瓶入りの蜂蜜、干し葡萄、袋いっぱいの木の実などなど。
当然保存のきくものを残すように食べることになり、パンや果物中心の食事となった。
ずっしりと重く固いパンに、蜂蜜を垂らして食べると、案外すぐに満腹になった。
一日分の空腹のせいか、それとも久しぶりに外で食べたせいか、質素な内容でもかなり美味しく感じられた。
一つずつ林檎を齧っていると、この地方にしては珍しく穏やかな風が吹き、歩き回って火照っていた体を冷やしてくれる。
針葉樹特有の、散らしたような木漏れ日の中で二人きり…人目を避けるようにして足を休める。
まるで、物語で読んだ恋人同士の駆け落ちの旅のような雰囲気だった。
当然リタにとってこれは初めての経験で、しかも相手は「リーノ」である。
自分たちが置かれている状況も忘れてはしゃいでしまいたくなるのも、無理からぬことかもしれない。
背もたれにしている木の幹を中心に、ほぼ直角に足を伸ばして二人は座っていた。
追っ手が来ると思しき方角―南を向いているのがウル。
さっきの市場の方向―東を向いているのがリタだ。
(もう少しだけ、そばに座ってみようかな…)
右手側にいるウルをちらちらと見ながらそんなことを考えているとき、それは目に入った。
ウルの左腕。
白いドレスシャツの肘のあたりに、小さな穴が開いて、その周りに茶色い染みができている。
これは…血が乾いた跡だろうか?
「あの…ウル様?」
「何だ?」
「その、左腕どうなさったんですか?」
一瞬思案するように視線を泳がせるウル。
「あぁ、これか」
何となく言い辛そうに、口を開く。
「昨日、お前が私の髪飾りを取りに行った後、突然吹き矢が飛んで来てな。情けない話だが、目の前の相手に感けていて全く警戒していなかった。毒矢だったらしい。今も少し痺れている」
「え…毒?」
さっとリタの顔色が変わる。
「そんな…もし何か、命に関わるような毒だったら…急いでお医者様に!」
「多分、大丈夫だろう。痺れも一時期よりかなり引いて来ている。殺すための毒だったらもうとっくに死んでいるはずだしな」
「でも…」
「そんなことより今は、時間が惜しい」
さらりと発せられた言葉に、リタは絶句した。
もしリタが命を狙われる相手から、何とも知れない毒を射ち込まれたとしたら、こうも平静でいられるはずがない。
なりふり構わず医者や薬師を探すだろう。
彼の目的の前では、自分の命の危機さえ「そんなこと」になってしまうのか。
何となく解せないものを感じる。
「彼」の目的は、「彼」が生きていなければ果たせないはずなのに。
ウルにはどこか、自身の命を軽んじているような節があるように思えた。
もしかしたらこれは、昨夜ライオットが抱えていた不快感と近いものなのかもしれない。
何にせよ、リタは自分の考えの甘さは正すべきだと反省することになった。
無理を言って着いて行くと決めた以上、彼女はウルと同等かそれよりも強い気持ちを持っていなければならない。
駆け落ちみたいだなどと浮かれていていいはずがない。
「―気に入らないのは、あのライオットとかいう男の行動だ。私は左手が使えなくなって、容易に片をつけられる状況だったにも関わらず…何やら苛立った様子で林の中へ駆けて行ってしまった」
「そんな…気に入らないなんて」
言葉を選ばなければ、それは命拾いをしたと言える状況だ。
それを気に入らないと言う感覚は、リタには一生分からないものなのかもしれない。
理解は出来ないにしても、唯一つそれを理論的に説明できるとしたら、その様は、『運命にその身を任せようとしている』といった風情だ。
理不尽な死も生も望まない。
生きるにも死ぬにも、彼が納得する理由を伴わなければ受け入れられないということか。
剣士らしいとは言えるかもしれないが、齢16の少年が抱くには無欲すぎる思想だ。
「そろそろ行くぞ。後必要なのは…水だな」
浅く掘った穴に林檎の芯を投げ入れて、ウルは立ち上がった。
リタもそれに倣う。
まだまだ遠い、ウルとの心の距離を感じながら。
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少々暴利とも思えるような値段の、大きななめし皮製の水筒を二つ買い、二つ目の袋に入れる。
こちらはリタが運ぶことになった。
町外れにある井戸で水を汲むと、準備は大体整ったことになる。
ずっしりとした水の重みが手のひらに食い込む。
これからの山道これを抱えてやっていけるかと不安にもなったが、気持ちを入れ替えて肩に担ぎこむと、幾分か楽になった。
「…忘れていた」
「え?」
「お前、何か武器は扱えるか?」
出身を尋ねるような軽い口調に、リタは硬直する。
「武器、ですか?」
「ああ、状況が状況だけに、丸腰というわけにもいかないだろう。何か少しでもいい、武術の心得はないか?」
「え、えっと…」
可能な限り過去まで、記憶を遡る。
正直、物心ついてから、人を傷つけるための道具を手にした覚えなど、あるはずもなかった。
「すみません…。刃物なんて包丁とナイフくらいしか触ったことなくて…」
「ふむ…」
「あ、でも!」
「何だ?」
「…宿で、シャロン…同僚に、棒術をほんの少し、護身のために」
果たしてそれを心得といっていいのか、かなり心許ない。
何しろ得物はモップとデッキブラシだった。
「棒か」
「ほんの少しだけなんですけど。その…すみません」
「いや、上等だ。来い」
もう一度市場へと歩き出すウル。
彼が武器を買うつもりなのだと知って、リタは慌てた。
「ほ、ホントに買うんですか?」
「言ったろう。お前のことまで頭が回らない場面もありえる。何もないよりはマシというものだ」
「それはそうですけど…」
自分が武器を持って戦う姿など、想像も出来ない。まして誰かを傷つけるなど…。
語尾を濁していると、ウルは立ち止まり、険しい表情で振り返った。
「…もう一度言っておくぞ。私は私の目的を最優先する。半端な覚悟ならここで引き返せ」
「……」
「ついて来るなら、自分の身は自分で守るくらいの気概を持て。女子供だろうと相手は容赦しない」
言うだけ言って、また市場へ歩を進める。
考える時間も満足に与えられない。
しかし、言ってみれば当然のことだ。
今までの経緯を考えれば、どう考えてもリタはお荷物でしかない。
少しでも彼への負担を軽減させようと考えるなら、自分から切り出していなければいけない話題だったのかもしれない。
着いたのは、先程皮のブーツを買った店の向かい。
後ろで南方人の店主がウルの姿にぎょっとしているが、全く気にする様子はない。
「どれも柄は木製か…。刃先だけでもマシなものがあるといいが…」
「…刃?」
「このあたりがいいな。それなりに鍛えられている」
ウルが指差したのは、どれも棒ではなかった。
棒状ではあるが、その先端には銀色の物騒な光が…。
「あ、あの、これって…槍?」
いわゆる、スピアと呼ばれる種類の武器だった。
「…物干し竿にでも見えるか?」
苛立った様子で、一本をリタに突き出す。
受け取ってみると、ずっしりと重い。
当然ながらモップやブラシのような軟弱な作りではない。
リタの手には馴染みのない、兵器の堅牢さと重量。
「それを持って、らしく構えていればはったりにはなるだろう。棒術の型は教わったか?」
「えっと…一応」
戸惑いながら、右足を一歩引く。
右手で柄の終わりを拳三つ分ほど余らせて握る。
左手を刃の直下に添え、頭上に構える。
左足と両手が正三角形を形作るように。
「…もう少し腰を落とせ。それでは力が伝わない」
「こうですか?」
「…まあないよりはマシだな」
大きくなかった期待が予想通り裏切られたという顔のウル。
リタはなんとなく気恥ずかしくなって、構えを戻し手に持った槍に視線を向ける。
刃先は、両刃のナイフのような作りになっている。
これなら突くだけでなく、斬りつけても効果はあるのかもしれない。
一歩一歩、現実から足を踏み外して行っている実感があった。
突く?斬る?一体何を?…答えは出ていても、全く想像が沸かない。
「最悪、振り回すだけでも構わない。相手を近づかせることだけは避けるんだ」
曖昧な覚悟のまま、頷く。
「…使わずに済んで欲しいとは思うがな」
ぼそりと呟いた声が、妙にリタの耳に残った。




