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第三王子と忘れられた皇女  作者: けいぞう
14/19

14

「っ!ウル様?!」


 駆けつけたリタが目にしたのは、横たわるウルと、それを見下ろすライオットの姿だった。


「…おっと、出てきちゃったのかい、お嬢ちゃん」


 まずいところを見られたと言うように頭を掻くライオット。


「あんましお決まりなこと言いたくないんだけどよ、顔見られたら、生かしておけないんだよな。仕事上」


 予想だにしなかった光景と、巨体の暗殺者の雰囲気にそぐわない口調。リタは混乱するしかない。

 ウルが、負けた?しかもこんな短時間で?

 ゆらりと、黒い法衣を窮屈そうに着こなした男がこちらへ歩み寄る。一歩、また一歩。まずい…。逃げなければ…殺される?


「…待て」


 うつ伏せに倒れていたウルが、くぐもった静止の声を上げる。

 はっきりとした言葉に、ライオットはにやりと笑い、リタは当惑しつつも胸を撫で下ろした。


 剣を杖のようにしてゆっくりと立ち上がりながら、ウルは軽く頭を振った。


「もう仕事が終わったとでも思っているのか」

「できれば、そうであってほしかったんだがね。もう少しかかりそうだ」


 血と唾液の混じりあった粘つく液体を吐き出し、ドレスシャツの裾で顔についた泥を拭う。

 長剣を体の右下に引いた状態のまま、ウルが駆け出す。

 低い姿勢で距離を詰め、首を狙っての横薙ぎ。相手が屈んでかわしたと見るや、そのまま踵を軸に独楽のように体を回して今度は下段の一太刀。

 これはブーツの底に仕込まれた鉄板に受け止められた。

 強引に回転を止められた衝撃に逆らわず、逆回転しながら両足で地面を蹴る。

 空中で膝を抱え込み、体を捻りながらの回し蹴り。


「はっ、猿真似とはね」


 読まれている。

 先程自分で繰り出した蹴りだ。返し方も心得ている。

 足が伸びきる前に距離を詰め、右肩で蹴りを受け止めて押し返しつつ、空中に泳いだ体を左の拳で叩き落す。

 はずだった。


「ぬ…」


 ウルの靴底は、ライオットの右肩を掠っただけで通過して行く。

 蹴りは囮。ならば本命は?


「ぁあああっ!」


 狙いは側頭部。

 右手の握りから余らせた柄尻を、回転の勢いそのままに穿ちつける。


「うおっと」


 直前で、右腕を割り込ませるライオット。

 渾身の力を込めた一撃も、小枝で丸太を叩くかのようだ。


 切っ先を相手に向けて牽制しつつ、真後ろに飛び退くウル。

 油断無く剣を握りなおして構える。


「ふーーっ」


 だがライオットは追撃するでもなく、ただ肩をすくめていた。


「なんだかな」

「…?」

「反動と回転。確かに変わった太刀筋だけどよ。ウチの連中も面食らってやられただけみたいだな…。面白くねえ」

「…何だと?」


 あからさまに小馬鹿にしたような態度に、ウルは眉間の皺を深くする。


「少年。あんまり現実を突き付けるようなことは言いたかないが、お前が今まで生き残ってこられたのは、どう見たってただの偶然。さもなきゃタチの悪い奇跡だなってことさ」

「…っ!」


 いつまでも大人しく相手の言葉に耳を傾けているウルではない。上段に構えなおし、駆け出す。


「一番の問題は、その分かりやすい短気かね…」


 一瞬。

 その言葉の通り。リタが一度瞬きをしたときには、ライオットはウルの真横に来ていた。

 ウルの視界からは、ライオットが消失したようにさえ映ったかもしれない。


 ウルの胴体ほどもある太腿が、唸りを上げて振り上げられる。


「…ふっ…!!」


 視界の外からの、対処の仕様がない攻撃。

 爪先が鳩尾を抉りこむ。

 ウルの口から漏れたのは、声ではなく体から空気が搾り出される音。

 軽く浮いた体が、くの字に折れ曲がったまま顔と膝から着地する。

 リタは目を覆おうとした両手を、中途半端に挙げかけたまま固まる。


「これで大人しく話を聞いてもらえるかい?意識があったらの話だが」

「…ぁ…っ…」


 呼吸困難に陥って痙攣するウルを無視して、ライオットは話を続ける。


「お前さん、剣はそこそこ使えるみたいだけどな、それ以外はからっきしだろ?格闘とか、心理戦とかよ。しかもお宝の剣にオンブにダッコだ。それじゃ俺と喧嘩はできないね」

「っ…」

「…正直よ、お国の事情なんかはどうだっていいんだ。お前さんがどんな目的でウロチョロしてて、それがウチにとってどう問題なのか、俺の知ったことじゃない。俺はただ、骨のある男と真剣に喧嘩したいのよ」


 嘯く言葉が全て真実か定かではないが、確かに彼の仕草や表情は、昨日の隠密兵達とは一線を画している。

 使命を帯びているという風も無ければ、それに追われているという素振りも無い。

 もっと刹那的で奔放な印象を受ける。


「まぁ、真剣なヤツの剣やら拳には、それ相応の重みってモンがあるわな。そういう意味じゃ、お前さんのもいい線いってる。だが、まだ足りないんだよ。もっと重いモンを乗っけてこいよ」


 不自然なまでの饒舌さは、期待はずれに終わりそうな戦いをどうにか盛り上げようとしているのだろうか。

 その余裕と、横たわるウルの姿に、リタは恐怖する。


(このまま、殺される?リーノも…私も?)


「わかるかい?試合とか手合わせじゃねえ。命張って俺を楽しませてみ…っ……いっつ!」

 突如片足を抱えて、飛び上がるライオット。

 何が起きたのかと訝るリタの目に、突っ伏したまま鞘を振り抜いたウルの姿が映る。


 彼とて、ただ倒れていただけではなかった。

 喋るのに夢中になりかけていたライオットに、したたかに痛快な一撃を見舞ったのである。


 「…もう少し、貴様の下らないおしゃべりに付き合ってやる」

 「っ…あ?」

 「王族だとか少年だとか、そんな肩書きに囚われながらするのが、貴様の言う喧嘩か?」


 腹部のダメージなど忘れたかのように平然と立ち上がり、もう一度顔の泥を拭う。


「私は、その前に一人の剣士だ。命など、とうにこの剣に賭している。隙あらば背であろうと足であろうと斬る。今のは忠告だ」


 ―彼らの立ち回りとやりとりはまるで、良く出来た剣劇を見ているかのようだった。

 ウルはゆっくりと、今までとは違った構えを取った。


「…ほお」


 脛を打たれた痛みも、好き勝手見得を切られたこともさて置き、感嘆の声を上げるライオット。


 剣を右手に握りなおし、肘を曲げながら持ち上げた刀身と視線を重ねる。

 そのまま両足をそろえて背筋を伸ばす。


 彼の手に握られているものが短刀の類だったら、違和感はなかっただろうが、刃渡りが身長の六割以上もある長剣では、あまり様になる構えではない。

 素人のリタの目にも不自然だと判る。


「斬って駄目なら突いてみろってかい?随分切り替えの早い頭だな」


 揶揄するような言葉とは裏腹に、彼の口調はひどく楽しげだ。


「ふッ!」


 漏れ出る呼気とともにウルの体がライオットに迫る。踏み込みと同時に右手を鞭のようにしならせる。


「っと」


 ライオットの手甲が、喉元を狙って突き出された剣先を弾く。

 間を置かず、胸、腹を狙っての刺突。


「む…」


 先程までの動きとは全く対照的な、直線的な攻撃。


 身を捩って回避するライオット。

 その動きを追って更に突き出された剣先が、法衣の脇腹をかぎ裂きにする。

 もはや、リタの目には留まらないほどの動き。

 ことごとく急所を狙って突き出されるウルの長剣と、時には跳ね、時には伏せてそれらをかわし続けるライオット。

 見違えたようなウルの動きと、防戦一方のライオットの状況。

 さしもの相手もこの攻撃には舌を巻いているのかと思われたが…。


「ハッハ、いいねぇ。どんどん来な」


 その顔に浮かんでいるのは、紛れも無い余裕。

 信じられないことに、息一つ乱す様子すらない。


 苦し紛れに、としか言いようの無い強引な動きで、ウルが前に出る。

 渾身の一突きを繰り出すも、ライオットの体にはもう一歩届かない。

 後方に飛び退いて距離をとった巨体が、不遜に肩を鳴らす。


「おかげで体が温まったよ。さぁ、次はどんな手だい?」


 間髪置かず、ウルが詰め寄る。

 だが、長剣は構えず、右足を振り上げ…


「うお、テメ…」


 思い切り地面に叩きつける。

 突きの連打でウルがライオットを押しやり、二人の間には芝の剥げた一角が横たわっていた。

 昨日の雨でぬかるんだ泥土が、ブーツの爪先で跳ね上げられる。

 視界を奪われるのを恐れて、ライオットが顔を覆う。


 足元から蹴り上げられた泥がライオットの腕に付着する瞬間とほぼ同時に、上段からウルの長剣が振り下ろされる。


 それでも、その男に刃は届かない。

 視覚を奪われても、感覚だけでどこからの攻撃かを予見するのか。

 脳天を狙って振り下ろされた剣は、またしても手甲に阻まれていた。


「…ぷッ!」

「うおっ?!」


 反撃を狙って顔を上げたライオットに、今度はウルが唾を吐きかける。

 反射的に目を閉じるライオット。


 その隙を逃がさず、手甲に弾かれた長剣を突き出す。

 身を逸らして避けられたと見るや、剣を寝かせて引き抜きながら斬り付ける。

 ライオットの胸元に、初めて切っ先が届いた。

 さして深い傷ではないが、その手応えがウルの攻撃を加速させる。

 振り下ろし、薙ぎ払い、手甲に弾かれるたびに回転の方向を変え、舞うような連撃を浴びせる。


「何なんだよ…お前さんはっ!」


 強引にウルの体を押し返して一度距離をとり、顔に付着した唾液と血を拭いながら、苛立った声上げる。


 ―初めて、ライオットの顔に余裕以外の気配が浮かんでいた。


「似合わねえ真似して…。今更卑怯だとか言うつもりはねえけどよ、そんなツラしてまですることかよ」


 指摘されたウルの表情…深い皺を刻んだ眉間と、血が滲みそうなほど噛み締めた唇。


「何がそんなに悲しい?戦いが好きなわけじゃない。でも国のためなら、ってのかい?それだけじゃあないように見えるがね」

「…理由を知らなければ、お前は敵を討てないのか?」


 答えに窮したように、はぐらかすウル。


「そういう訳でもないけどね。お前さんのそのツラ見てると、どうも腹に据えかねるんだ。納得できる理由が欲しいね」

「…貴様のために、何を答えてやる必要があるか」


 作ったように不遜な表情で吐き捨てる。


「行くぞっ」


 声とともに、前に出ようとしたウルの足は、ぴくりと震えるだけで止まった。


 ―ライオットの纏う空気が、目に見えて変質していた。


「あぁあ、そうかい…。じゃあもう、これ以上は楽しめないって訳だな」


 そこにあったのは、余裕や軽口とは無縁の、暗殺者特有の殺気。

 感情の燈らない、暗い瞳。


 ただ戦うことに愉悦を見出そうとしていたさっきまでとは違う。

 今の彼なら、瞬きをするような気軽さで人の命を奪うだろう。

 今まででさえ、ウルを圧倒していた実力の持ち主が、本気で牙を剥こうとしている。


 実際に交戦している訳でもないリタにまで、その恐怖は波及した。

 今や自分も、この男の標的なのだ。

 ウルが倒れれば、次にあの眼光はリタを捉える。


 無言のまま、ライオットの体が沈む。

 体のバネ、という表現の意味を体現するかのように、縮めた巨躯が伸び上がると同時に駆け出す。

 剣を持っている間合いを生かして戦わなければいけない筈のウルが、またもあっさりと懐に入られた。


 至近距離からのボディブロー。

 ウルの頭ほどもある拳が、唸りを上げて迫る。

 両腕を立てて防御するも、衝撃は殺しきれるはずもない。

 たまらずウルの体が三歩ほど後退する。


 相手が動けないことを知っているように、焦ることもなく、ゆっくりと距離を詰めるライオット。

 そしてもう一度、無造作に腹部を狙って拳を放つ。

 先ほどと同じようにして防ごうとしたウルの両腕には、もはや力は込もっていなかった。

 彼の体はいとも簡単に吹き飛ばされ、剣は手から離れぬかるんだ芝生に突き刺さった。


「ちっ…!」


 地面を転がってどうにか立ち上がり、傍らに突き立った剣に手をかける。

 が、抜けない。

 自重で軟弱な地面に刺さっただけの剣を、引き抜くことができなかった。


「……くそっ」


 それどころか柄に添えられた手は、握り締める動作もままならないようにさえ見えた。

 ライオットの拳の衝撃が、腕を痺れさせているのか。


「驚いたね。普通なら骨の一本や二本はへし折れてるもんだが、まだ腕が動くとは…その赤い布きれのおかげか」


 拳を受け止める瞬間、ウルは左腕に外套を巻きつけていた。

 リタの目にはやや厚手なだけで特別なものには見えなかったが、ウルがそうして使っているからには何か秘密があるのかもしれない。


「…気に入らないね。そうやってお宝に守られて戦って、いい気になってたってのかい!」


 再び、ライオットが打って出る。

 剣を引き抜けずにいるウルは、苦渋の表情で飛び退く。


「遅え」


 ウルが後方に着地する前に、ライオットはもう一度地面を蹴って加速していた。

 重力が彼に贔屓をしたかのような、不自然な速度の差だ。


 今度は蹴り。

 靴底を叩きつけるような、無造作極まりない動作。

 単純で読みやすい動き。

 だがそれだけに、威力は凄まじい。

 そしてウルはまだ、地に足が着いていない。


 腕を上げたのでは間に合わないと判断したのか、体を捻って肩口で受け止める。

 いや、受け止めきれない。


 空中で、ウルの体は錐揉みしながら吹き飛ばされ、そのまま叩きつけられる。

 痛みに呻きながらも立ち上がろうとするウルに、近寄る殺意の塊。

 歩く動作の延長のように、その足を振り上げ、叩きつける。

 何度も、何度も。


 決着はついていた。

 誰の目にも明らかだ。

 実力が違いすぎる。


 それでもウルは、致命傷を避けようと身を捩ったり頭を庇ったりしているようだった。

 見ていられずに、リタは目を逸らし、そしてすぐに後悔した。

 どうしようもないほどの自己嫌悪が、津波のように押し寄せてくる。


 ウルは、まだ戦っている。

 体と誇りを蹂躙されながら、来るかどうかも分からない反撃の機会を窺っている。

 だというのに、自由に動けるはずの自分が、何もしていない。


「さんざ大口叩いておいて、そのザマか。その布に包まって、カメみたいに防戦一方で終わるのか?」


 幾度と無く足蹴にされ、嘲りの言葉を浴びせられても、ウルはただ蹲っていた。

 ライオットの表情が憤怒に歪む。


「チッ…王族?剣士?笑わせてくれる。男ですらねえよ、お前」


 大きく右足を振り上げるライオット。


「…やめて」


 我知らず、リタの口から制止の声が漏れていた。

 ライオットは眼球だけを動かして、そのままの姿勢で一瞥をくれる。

 その視線だけで喉元に牙をつき付けられたかのようだ。

 だが、震える声でもう一度言う。


「もう…やめてください」


 あからさまに怯えているリタの様子に同情したわけでもないだろうが、ライオットの表情が少しだけ緩んだ。


「お嬢ちゃん、そう言って、俺がやめると思うかい?」

「……」

「俺が何より嫌いなのはな、口先だけのヤツだ。覚悟も出来ず力も無く、ただ吠える。請う。祈る。そんなもので何が変わるんだ?」


 世間話でもするような抑揚で続けながら、右足を振り下ろす。


「ぅぐっ…」


 くぐもった悲鳴が漏れる。

 外套でも緩和しきれない衝撃が、ウルの体に叩きつけられている。


 リタは意を決して足を踏み出した。

 震える膝を叱咤しながら、二人に歩み寄る。


「俺に睨まれて動けるとは驚いたが…まさか、俺と喧嘩しようってんじゃないだろうね?」

「……」


 黙って二人の間に体を割り込ませたリタは、ゆっくりと両手を広げる。


「それは…どういうつもりだい?」

「…さっきのお話、私も同感です」

「あ?」


 喉が震える。

 鼻の奥が痛い。

 

 だが抑えろ。

 今、涙を流すような真似は、許されない。

 とりあえず今自分に出来ることは、時間を稼ぐこと。


 そのためには、言葉を発するんだ。

 この恐ろしい暗殺者に向けて、恐怖を押し殺して。


「何もしない人間は、何も得ることは出来ない。言葉や想いだけで、自分の思い通りになることなんて、あるはずない」


 その言葉は、今までの自分への言葉に相違ない。


 ここで何年もの間、生活に追われながら希望や救済をただ待っていた。

 そしてある日突然現れたウルに、それらをすべて押し付けようとした。

 自分が女だから、非力だから、戦いには参加できない…何も出来ないと決め付けた。

 どれを取っても、何かを得られる人間の行動とは思えない。


 分かっていたのだ。

 こうして一歩を踏み出してこそ、初めてその可能性の欠片が見えてくるかもしれないこと。


 ウルが望むことのために、何度倒されても立ち上がろうとするように。

 無様でも、安易な敗北や死に抗い、愚直なまでに生きようとするように。


「…こういうのは趣味じゃないんだがね」


 言いながら、ライオットの瞳に残酷な光が燈る。


 目の前を、何かが横切った。

 その残像が斜線として見えたと思ったら、目を開けていられないほどの痛みが、リタの眉間を襲った。


「…うっっ」

 

 痛みと痺れ、熱さが一気に押し寄せる。

 額の皮膚が引き裂かれたかのような衝撃。

 生暖かい液体が鼻を伝って垂れ落ちた。

 脳を揺らされた感触と金臭さで、猛烈な眩暈が来る。


 殴られたなんてものじゃない。

 きっと彼にとってこれは軽く触れたくらいのものだ。

 それだけだというのに、気が遠くなりそうなほどに痛い。

 これに比べれば女将の平手打ちなど愛撫のようなものだ。


 両手で額を抑えて、その場に膝を着くリタ。

 固まりかけた決意は、欠片も見当たらないほどに粉砕されていた。


「どきな。そいつの後で、せめて苦しまないようにしてやる」


 かけられた慈悲の言葉。

 どの道殺されるという覚悟で聞けば、それはなんとも魅力的な響きだった。


「…いや、です」


 だが、それに縋りそうになる弱い自分を、リタは何とか抑え込んだ。

 目に入りそうになる血を拭って、震える膝にもう一度喝を入れる。


 もう、引き返せない。

 逆らうからには手心は期待できない。

 殺されるとしたら、きっと最悪の死に方だ。


 それでも、決意を込めて、もう一度両手を広げる。

 精一杯の気迫を込めて、相手を睨みつける。


「…なんだってんだよ」


 ライオットの表情に、ありありと浮かぶ苛立ち。

 自分の命を賭して、彼にこれだけの顔をさせたのなら、悪くはないかと思う。


「お前も、そいつも。そうまでして、何になるってんだ」


 必死に足掻いていたウルの気持ちを、ほんの少しでも理解できた気がした。

 こんな場面でも、嬉しいと思える気持ちは残っていた。


 これが、自分にとって最後の感情でも構わない。彼のためならば。


「…何でも理解しようとするというのは、愚か者のすることだ」

「…えっ?」


 背後から突然聞こえた声。

 思いのほかしっかりとした口調の、毅然とした言葉。

 目の前の暗殺者のことも忘れて、リタは振り向いた。


 泥だらけの外套と、血が滲んだ頬。

 髪に芝が絡みついて悲惨な有様ではあったが、ウルは立ち上がっていた。


「…ウル様」

「下がっていろ。まだ、喧嘩の途中だ」


 リタの肩に手を置いて、自分の陰へ促す。

 すれ違いざま、ウルが囁いた言葉を、リタは聞き逃さなかった。


 リタは頷き、宿の玄関に向けて駆け出した。


「何になるか、と聞いたな」


 視線でリタを追うライオットを牽制するように、芝居がかった口調でウルは続ける。


「その答えとして相応しいか分からないが…一つ、レーヴェモントに伝わる寓話を聞かせてやろう」

「あん?」


 突然の脱線に、思い切り怪訝な顔をするライオット。

 だがウルはかまわず続ける。


「神代の時代…すべての陸と海を睥睨して飛ぶ、巨大な翼竜がいた。地を這うように暮らす蜥蜴や、暗い海の深くに屯する海蛇たちを、彼は蔑みの目で見ていた」


 彼の口から紡がれる言葉に聞き入るように、風が凪ぐ。

 俯くウルの表情は、前髪の陰に隠れて見えない。


「ある日、竜は気まぐれに、広大な平原にその身を横たわらせた。跳び続けることに疲れたわけでも、捕食のためでもなく、それは本当にただの気まぐれだったとされている。地上、海中、全ての生物達は、彼のあまりに雄大な姿に平伏し、挙って貢物を彼の眼前に並べたという。竜は高らかに笑い、全ての貢物を平らげた。全てを魅了する自らの姿と力に酔いしれていた」


 一体何の話をしようとしているのか。

 見当もつかない様子のライオットは、ただ渋面で沈黙を守っていた。


「だが、そんな驕りを抱えてもう一度その体を地に横たえた時、彼はその怠惰な心地良さから抜け出せなくなっていた。狩りもせず貢物ばかりを口にしていたために、体は肥え翼は衰えた」


 両足がまだ自分の体を支えきれることを確認しながら、ゆっくりと突き立った長剣に近づく。


「そしてその竜は最後には、その尾を何匹もの海蛇に咬まれ、毒が回り動けなくなった体を蜥蜴たちに啄ばまれ、息絶えた。

…余談だが、いまのエーヴィッヒの尾根は、その竜の背骨だと言われている。彼の骨は鋼となり、血は宝玉の原石となったそうだ」

「…こちとら、ガキの頃寝る時にだってそんな話をねだった覚えはねえ。結局、何が言いたいんだよ」


 もう一度、赤い外套をはためかせ、少年は力強く引き抜いた剣を構える。


「翼を持つものは飛ぶことを。…剣を持つものは戦うことを…」


 殊更に強く握り締めた長剣の柄が、軋むような音を立てる。


「…忘れてなど、生きてはいけないということだ!」


 泥にまみれ、優雅さも気品とも無縁になった彼の、獰猛な眼光に貫かれ、ライオットは毒気を抜かれたように笑う。


「…んじゃ、剣を持ってない俺は、どーすっかね」


 腰を落として構え直すライオット。

 ウルの構えと決意に対する、彼なりの敬意なのかもしれない。


 ウルは一度、左の口の端を吊り上げ、


「我が前に、屈するがいい!」


 もう一度、駆け出す。

 勇敢に、臆することなく。


 迎え撃つライオットの顔には、いくつかの疑問が氷解したような表情が浮かんでいた。


-----


額から流れる血が、右目に入ってしまった。勝手を知っているはずの宿の中も片目だけで見ると平坦で、初めて来る場所のように余所余所しく見えた。

目指すは女将の部屋。彼女の性格を鑑みれば、売り上げや貴重品を自分の手元から離しておくとは考えにくい。ウルの髪飾りは、きっと寝室にある。

足音を忍ばせながら、台所の対面にある部屋の前に立つ。鼾が聞こえる。寝ているようだ。

木製のサンダルをその場に脱ぎ捨てて、ドアノブに手をかける。他の部屋よりもバネがやや緩んでいる感触を感じながら、ゆっくりと傾ける。

かちり、と小さな音を立てて扉が開く。部屋の中から聞こえる鼾が一瞬止んだような気がしたが、そのままの姿勢でしばらく固まっていると、また何事もなかったように豪快な寝息が鳴り始めた。

この騒音の中で寝ているのなら、少しくらい足音を立てたとしてもそう簡単に目を覚ましたりはしないのではないだろうか…。早鐘を打つ心臓にそう言い聞かせながら少しずつドアを押し込む。

思えば、女将の部屋に入るのはこれで三度目だ。

一度目は、拾われてきて目を覚ました翌朝。品定めをするような目でじろじろと見られたのを覚えている。

二度目はその二日後、アンナにはめられて客の財布を盗んだという嫌疑をかけられたとき。

どちらもあまりいい思い出ではない。感覚的にこの部屋に近づくのは避けたくなるのが道理だ。普段は絶対に立ち入るなと堅く言われているせいもあるが。

だが、今はそんなことに構っている暇はない。急がなければ。

締め切られた室内にはほとんど光も射し込んでおらず、鼾を頼りに女将がどこにいるのかと、その彼女が横になっているベッドの輪郭だけが辛うじて分かった。血が染みて痛む右目を無理矢理開いて見ると、いくらか他のものも見えてきた。

女将の体には不釣合いな、上品で可愛らしい化粧台が右奥に一つ。その隣に背の高い衣装棚が一つ。左奥が女将のベッドだ。地面にはカーペットが敷いてあるらしく、足音を忍ばせるのに助かった。

普通に考えれば、怪しいのは化粧台だ。次点で衣装棚。もしかしたらベッドの下も有り得るかもしれない。長居は危険だ。可能性の高い順に探そう。

裸足で触れるカーペットの毛足が、場違いに暖かく感じられた。床板の軋む音を鼾に紛れさせながら、一歩、また一歩…。

やっと化粧台の前に辿り着いたときには、冷や汗がじっとりと浮かんでいた。額の傷に沁みてひりひりする。

無駄に豪華な背もたれのついた椅子をどけ、左右の引き出しを確認する。櫛、髪留め、木で出来たブローチ等があるだけで、宝石らしきものは一つもない。外れだ。

次は衣装棚だが…。これだけ大きなものとなると、引き出しもそう簡単には手がつけられない。貴重品が入っているなら重みもあるだろうし、何より音が心配だ。

予定を変更して、もう一度部屋の中を見回す。

―ふと気づいた。

女将の目が…薄く開いている?

「……」

しかし、依然として鼾は聞こえている。狸寝入りとは思えない。

しばらく、そのままの姿勢で動けなかった。口の中がカラカラに乾いている。

何をしている。動け。寝ているに違いない。起きていたとしても、今更後には引けない。

心に鞭をくれて、どうにか目だけでも動かす。女将の顔を凝視していたおかげで、そのことに気づいたのは幸運といえる。

ベッドの下の闇に、箱型の影が見える。

(あれ…かな?)

女将に近づくのは躊躇われたが、それがわざわざ隠すように置いてある理由は、調べるに値する。

膝や背中が音を立てないかとびくびくしながら身をかがめて、体をベッドの下に潜り込ませる。鼾の振動がベッドの足にまで伝わっているのが分かった。

一抱えほどもある箱型の影は、触れてみると金属製であることがわかった。ひんやりとした感触と同時に、その重みが伝わってくる。もしかしたらこの宿のほぼ全財産がここに詰まっているのかもしれない。

手探りで開ける方法を探る。掌に当たる突起を押したり捻ったりすると、意外にも簡単に蓋が持ち上がった。無用心にも、鍵も錠前もかかっていなかった。薄く開いた箱の中を覗き込む。

暗い部屋の中のさらにベッドの下では、目当てのものを見つけるのにさぞ難儀するだろうと思ったが、不思議なことに箱の中は薄らと明るかった。ウルが髪に着けて垂らしていた金属の管が、暗闇の中でその存在を主張するように、ぼんやりと発光していたのである。その光のおかげで、羽根と、ウルの金貨もすぐに見つかった。

泥棒まがいの行動に自責がないでもなかったが、女将のやり口こそ玄人はだしの詐欺師のそれだ。竹箆返しと思ってもらおう。それでも、いくつか余計に金貨を持っていってしまおうとは思えないのは、彼女に対して恩義を感じている部分もあってのことだ。

ベッドの下から這い出て、相変わらず聞こえる鼾に安心しつつ、立ち上がろうとする。

その腕を、突然捻り上げられた。

「っ?!」

うつ伏せの背中にのしかかられる感触。この重みは…。

「男の方がくると思ってたけど。まさかあんたとはね」

鼾はもう聞こえない。女将だ。荒い鼻息が首筋に当たり、ぞくりとした。

「今朝から様子が変だとは思ってたけど。一芝居うって正解だったねぇ」

「…っ!」

「ふん…雇い出した時からあんたは他のと毛色が違ったね。私の大嫌いなものを信じてる目をしてた」

場違いなほど感慨深げな声で言う。状況にそぐわない口調が恐ろしかった。怒りを通り越した冷静さで、腕の中の獲物をどうしようかと思案しているようだった。

「従順なように見えて、今一飼いならせてる気がしなかったのよ。でもちょうどいいわ」

背中で組ませた両腕の上にどっしりと座り込み、リタを完全に拘束してから、ベッドの下に手を潜り込ませる。

まずい、何か、本能的に危険を感じる。必死に身を捩じらせて女将の体を振り落とそうとするが、その重みの前には全く無意味だった。

「こんなのは使いたくなかったんだよ、本当は。だって下手をすると足腰立たなくなっちまうらしいからね」

背後で、火打石を叩く音がした。蝋燭に火を灯したらしく、部屋の中心がぼんやりと明るくなる。何をするつもりなのか…。見えないだけに恐怖は倍増する。

「…い、いや…止めてください…」

「それは、できない相談だね」

片手で髪を掴まれて、顔を床に押し付けられた。

「名前も知らないような南の島国に住む、毒蛾の羽を粉にして固めたものなんだそうだよ。そいつに火をつけて、煙を吸い込むわけ。まあ一種の麻薬だね」

口元に押し付けられる、袋のようなもの。中からは薄茶色の煙が漏れ出ている。産まれてこの方嗅いだことのないような、酷い臭いだ。

「大丈夫。案外気持ちいいらしいよ。一日一度これをやれば、ずっと夢見心地でいられるから。頭はすっかり馬鹿になって、すぐどんなことにも疑問を感じないようになる」

「い、嫌っ!」

鷲掴みにされた髪が千切れそうになるのも構わず、頭を振ってどうにか袋から口を遠ざける。煙を直接吸ったわけでもないのに、視界がぶれるような強烈な眩暈がする。こんなものを口に押し当てられたら…。

「観念おし」

ついに、袋の口が顔面にがっちりと押し当てられる。リタはすぐに息を止めた。

いけない…。このままでは…。

「どのくらい吸わせればいいのかねぇ。客引きとして使う前に壊れちゃっても嫌だし…」

「…っ!!」

拘束を受けていない下半身をばたつかせるが、如何せん重量が違いすぎる。体を動かすほどに肺が不足した酸素を求めて、胸が縮み上がるかのようだ。

何か…何かないか。下半身以外に動くのは…女将の太腿の脂肪に抑え付けられた、右手の指。

これしかない。しかも半端な力では駄目だ。肉を引きちぎるつもりで…。

「い、ったっ!!」

思い切り爪を立てて、女将の内腿をつねり上げる。爪が皮膚を裂く嫌な感触とともに、ぬるりとした液体が指にまとわりつく。

突然の痛みに、半ば反射的に浮き上がった女将の体の下で、リタは反動をつけて体をのけぞらせる。首尾良く、リタの踵が女将の背中をしたたかに打ち付けた。

前傾した女将の体の下にわずかな隙間ができる。すかさず両手の戒めを解いて股下から上半身を引き抜く。

「ぇっ、けほっ!」

気管の中を小さな蛾が何匹も飛び回っているような不快感。耐え切れず咳き込むリタ。眩暈がひどい。

「…こうまでされると、もう言葉もないね。あんたは悪魔の子だよ。不憫に思って拾った自分を呪うわ」

痛みに顔を顰めながら、女将は鬼の形相でリタを睨みつけた。

そんな言葉に、理由も分からず涙が出た。こんな、人を人とも思わないような仕打ちをする人間にどう言われようと、痛くも痒くもないはずなのに。あの煙が沁みたせいだと思いたかった。

長い年月をかけて、自分の心がいつの間にか染められてことを、その涙の理由が今はっきりとリタに教えてくれた。

頭の中で、かちりと何かが切り替わったような感覚。理性。倫理。常識。そんなものを信じて、そんなものに縋って生きて、廃人にされる寸前まで疑問を持たなかった自分に唾を吐きかけたくなる。

この涙は、煙のせいなんかじゃない。むしろ逆だ。感情を鈍らせるというあの煙の作用がなければ、きっともっと悲しかった。

一日も休まなかった。やったこともないような雑用ばかりで、最初の一年は泣かない日はなかったかもしれない。冷たい水と、ひび割れて血の滲む手肌。質の悪い客に体を触られても、微笑むように教えられて、そうした。笑えば笑うほど、自分が自分でなくなっていく気がしていた。そしていつしか、そのことさえ忘れていた。

「私だって…好きでこんなところに…あんたなんかの下に…いるわけじゃない」

女将にとって自分たちは、道具でしかない。ただ、その巧みな扱いに勘違いをしてしまっただけだ。

思えばここでの生活など、死んでいないだけの時間でしかなかった。楽しみも遣り甲斐もなく、そしてそのことに不満も漏らさないなら、それこそただの道具だ。

どんなに丁寧にベッドメイクしても、次の日には不潔な鉱山夫に台無しにされた。どんなに腕によりをかけて料理を作っても、犬の餌のように食い散らかされて終わり。礼を尽くして接客をしても、返ってくるのは八つ当たりか下品な視線。

そんな中で、ほんの気まぐれ程度でも女将が自分を評価してくれる時は、嬉しいと思えた。

でも違う。そんなのは錯覚以外の何でもない。何もない町での暮らしで、空にはしておけない心の中に、この女が土足で上がりこんで来ていただけにすぎない。こんな涙も、流す必要はないのだ。

むしろ今、悲しいと思う分だけの怒りを、自分の心を侵された憤りを、ぶつけてしまえばいい。

ああ、何かおかしい。気持ちが安定しない。怒りと悲しみがこんなにも押し寄せているのに、心は異様に空虚だ。音のない嵐の海を見ているような気分。

「私は…生きるんだから。諦めない。これしかないなんて生き方に、縛られたりなんかしない…」

「何を…!」

涙に滲む視界の端にあったのは、古ぼけたランプ。手にとって、掴みかかって来ようとする女将に向けて、素早く投げつける。ひるんだ女将の足元であっけなく分解したランプの底の部分から、油が飛び散る。油は、カーペットと女将の足と、彼女の寝巻きの裾にべったりと付着した。

先程女将が取り落とした蝋燭には、まだ小さな炎が灯っていた。おもむろにリタが手を伸ばす。

「やめ―」

女将が制止の声をあげる前に、蝋燭の先端を床に近づける。良質なものだったらしい油は、あっという間に引火してカーペットを火の海に変えた。突然室内は真昼のように明るくなり、炎の壁がリタと女将の間に横たわる。

「―ひっ、あ、あぁぁ!」

炎の向こうで、すっかり動転しておろおろとうろたえる女将。リタは蝋燭を握り締めたまま、暗い瞳でその光景を見つめていた。

燃え広がる炎。赤い。明るい。もっと広がればいい…。

炎が寝巻きに燃え移ったのか、女将の声が裏返ったり、意味不明の叫び声になったりする。

目の前の炎が大きくなる度、信じられないことに自分の傷が癒されていくような感覚さえ覚えていた。

そう、今まで麻痺させてきた心が感じていたはずの痛みが、この炎なのだ。だとすればまだまだ燃え広がるだろう…。

リタはため息をつくように、たった一言…

「―あなたが、悪いんだから」

女将に届くはずもない声で、呟きながら蝋燭を放した。


自分の目と鼻の先にまで火の手が近づいていることに気づいて、リタはゆっくりと踵を返した。

生きながら炎に包まれた女将が絶叫する、呪いの言葉。半ば放心状態で、何と言っていたのかは聞き取れなかったのが幸いかもしれない。もしまともに聞いていたら、正気に戻った時に悪夢にうなされるかもしれない。

後ろ手にドアを閉じると、別の世界へ来た様な静けさと薄ら寒さ。背中のほうから轟々と何かが燃える音が微かに聞こえるだけで、そのうちに女将の声も聞こえなくなっていた。

あまりのあっけなさ。これも薬の作用なのか…自分のしたことへの罪悪感はまだ沸いてこなかった。

「何を…したの?」

遥か遠くから声をかけられたような気がして、俯けていた顔を上げると、すぐそばにアンナの顔があった。後ろにはシャロンもいる。女将の声を聞きつけて出てきたのだろう。

答える気にもなれず、リタは黙って、もう一度俯いた。

「この臭い…。火事?!どういうことよ、リタ!アンタが火をつけたの?!」

「……」

「こ、答えなさいよ!何、どういうつもりなの?!」

「アンナ。ここはもうまずいよ。煙が漏れて来てる」

「え、えぇ?もう、なんなのよ!」

シャロンが手を引いて、玄関へとアンナを連れて行こうとする。女将の部屋が燃えていると分かっても、二人とも助けようという気にはならないらしい。

「…待って」

さしたる焦りもなく、のんびりと声をかけるリタ。何故かアンナは、そんなリタの顔を見て怯えるような仕草を見せた。

「…なによ。口止めでもするつもり?」

強がったような口調で、シャロンが答える。

「ううん、ただそっち、危ないよ。殺し屋がいるから」

「こ、殺し…?」

安っぽい物語の中から取り出してきたような単語に、アンナは更に顔を歪める。そして、まったく冗談めかしていないリタの様子に戦慄した。

「逃げるなら裏口からにして」

「…っ!アンタ、何勝手なこと言ってるのよ!大体、私たちまで焼け死んでたらどうするつもりだったの?!ここが無くなったら、私たち明日からどうやって生きていくのよ!」

「アンナ」

「何よ!アンタ達はいいわよ!知らない男と寝て稼ぐ方法も知ってるもの!でも私は違うのよ!そんなの嫌なの!」

半狂乱になって泣き叫ぶアンナを、シャロンも絶望したような目で見つめる。

「ごめんね」

感情の伴わない言葉で、それだけ言い捨てるとリタは自身が危険だと言った出口へと向かって歩き出す。

リタの知る限り冷静さを失ったことの無かったシャロンが、後ずさるようにして道を譲った。

自分の顔がどうなっているのか、リタは想像できなかったし、したいとも思わなかった。血にまみれ、あれだけのことをしても眉一つ動かさない少女の姿は、たじろがせるには十分だったらしい。

もう戻れない。悪魔でも見送るような様子のシャロンとアンナを振り返って、そう実感した。

だが構わない。もう決めた。あの薬が余計なものを取り払ってくれた。心を殺した安寧よりも、自分が欲するものを得るために、この身を削りながらでも「生きる」と。自由の代償としていつか襲い来るだろう良心の呵責も、自ら選んだ茨の道への憂慮も、誰も肩代わりなどしてくれはしない。自分が背負った業だ。

さあ、急がなければ。

ウルが待っている。


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