13
結局、その日一日はウルの仕事を手伝って回った。
奇跡的に女将もアンナ達からも何も言われず、作業は捗った。
日が変わる頃にはほとんどの仕事は片付き、あとは女将に確認してもらうだけだ。
リタはウルに客間で休むように言ったのだが、「今度は休憩代を請求されかねない」と突っぱねて食堂の長椅子の上に落ち着いた。
「何か、召し上がりますか?」
客間から降ろしてきた毛布を手渡し、テーブルを挟んだ椅子に座りながら、リタが尋ねる。
昼ごろから一緒に作業をしている間、ウルが何かを口に運ぶ所は見なかった。
半日近く慣れない雑用をこなしていたとは思えないほど、ウルの動作は相変わらず優雅で、疲れた素振りもない。
賄い抜きだったリタは腹の虫の音を抑えるのに必死だったというのに。
「……それを口に入れたら、明日も半日雑用か?」
「ぅ…」
熱心に仕事を手伝ったことを酌んでくれたのか、ウルの態度は幾分か軟化していた。
が、当然ながら少々警戒されている。好意のつもりですることも、なかなか受け止めてもらえない。
口を開いたと思ったら、こんな皮肉を飛ばしてきたりする。
「悪いが、流石にもう長居はできない。月が隠れたら発つ。主人にはお前から話しておいてくれ」
畳んだままの毛布を押し返すウル。
「え…でも」
「言われたことは全てこなした。もう引き止められる理由はないだろう」
リタの胸中を知る由もなく、彼の言葉は冷静だった。
自分自身嫌らしいとは思いながらも、リタは答える。
「…一応、女将さんに確認してもらわないと…」
大きく嘆息するウル。
「やはり私をここに引き止めたのは、女将との算段通りだったのか?精一杯申し訳ないという顔をして仕事を手伝って回ったのも、演技のうちか?明日は何の名目でいくら請求するつもりだ?」
「そんなことはっ!」
「違うというなら。今日のことがお前にとって不本意だったというなら、これ以上面倒に巻き込まないでくれ。私にはもう時間が無いんだ」
突き放すような言葉の節々に滲んでいる焦りが、リタにも感じ取れた。
何がそんなに彼を急き立てるのか。
国を再興させるという途方もない目標のために、彼がたった一人で出来ることとは、何なのだろうか?
「…お聞きしてもいいでしょうか?」
「…何だ?」
「ウル様は、ここを出てどちらに向かわれるんですか?どこかにお仲間がいらっしゃるとか…力になってくれそうな当てがあるとか?」
「……」
ウルの目が、リタの本心を探るように細められる。
「お前には、関係のないことだ」
「…勝手な話かもしれませんけど、ここまで聞いてしまったら、その…気になります」
「気になる…?お前は宿の客に興味がわいたら、そうやって不躾に何でも尋ねるのか?」
「いえっ、そういう訳ではなくて…」
「…では目的は何だ?金貨を巻き上げただけでは飽き足りないのか?」
いけない。
会話を続ければ続けるほど、不信感を煽る結果になっている。
「…お前を信用したのは、やはり間違いだったかもしれないな」
音を立てずに立ち上がるウル。
「あ、ど、どちらへ?」
「どこでもいいだろう。もう私に関わるな」
「でもっ」
「いい加減にしろっ!」
目にも留まらぬ速さで、ウルの腰から長剣が抜かれ、リタの眼前に突きつけられる。
「っ…」
「とうに心など捨てた身だ。お前一人切り捨てることに、私は微塵も罪を感じない」
「嘘です!」
「黙れっ!!」
「……」
「お前に…何が分かる?」
声が震えている。
リタの胸がずきずきと痛んだ。彼は、また自分の心を犠牲にしようとしている。
「…分からないからお聞きしたんです。私は、あなたのことを知りたい」
「…何のために?私をより深く陥れるためか?」
皮肉に動じることもなく、リタはかぶりを振った。
「あなたを、助けたいからです」
怒りに目を見開くウル。
不自然に力のこもった両腕で、長剣を振り上げる。
それでもリタは、肩をすくめながらも、ウルから目を逸らさなかった。
夜の風が窓枠をきしませる音が、妙に大きく聞こえた。
赤茶けたウルの瞳と、対照的に青く澄んだリタの瞳が見詰め合う。
先に目を逸らしたのは、ウルの方だった。
「…どうして」
ゆっくりと剣を下ろし、力のない言葉を漏らす。
「どうして、あいつと同じ事を言うんだ…」
「…え?」
リタの鼓動が高鳴る。
直感的に、彼が誰のことを言っているのかが、分かってしまった。
剣を収め、踵を返すウル。
引きとめようとする前に、ぼそりと呟いた声が聞こえた。
「…カーナの知人を訪ねる。幼少の頃、世話になった」
先ほどのリタの問いに答えてくれたのだと気づくまでに、少々時間がかかった。
「…ウル様の、力になれそうなお方ですか?」
「……どうだろうな。忘れてしまっているかもしれない。だが、あるいは…カーナ自体を味方につけられるかもしれない」
「そ、その方のお名前は?ご存知ですか?」
「…?…ああ。名前も知らずに訪ねたりはしないさ」
「……」
リタには、リーノに名前を名乗った記憶がない。
彼のいう知人というのは、自分ではないのだろうか?
「…その方のお名前を、お聞きしてもよろしいですか?」
恐る恐る訪ねる。
ウルは何故そんなことを聞くのかと怪訝そうに振り向き、答えようとして…。
「…!」
膝を落とし、辺りの気配を伺うように見回す。その顔を見てリタは息を呑む。
まただ…。昨夜と同じ顔。
「……」
ゆっくりと背筋を伸ばし、顔を歪めるウル。
眉と唇を吊り上げ、赤銅色の目には凶暴な灯が燈る。
「ここにいろ。死にたくなければ、大人しくしているんだな」
「…っ」
底冷えするような声に言われ、背筋を悪寒が駆け抜ける。
(嫌…そんな…そんな冷たい声を、出さないで…)
使命に追われる時、彼が見せる彼らしからぬ一面。
恐ろしいと思うよりも、悲しい。
胸が潰される思いだ。
立ち尽くすリタの横を、ゆっくりと通り抜けて行くウル。
行ってしまう。
彼は、また戦いに。止めなければ。
「待って」と言おうとして開いた唇は、しかし虚しく吐息を漏らす。
ああ、また、私は何もできない。
廊下を抜け、月光の照らすエントランスホールから、扉の外へと消えて行く背中を、ただ呆然と見送ることしか、出来ない。
「どこだ。いるのは分かっている」
またしても、夜の闇に響く凛とした声。
「昨夜の雑魚供の仇討ちか?ご苦労なことだな」
前庭の芝を撫でるように、ゆっくりと風が流れる。ウルの声に応えるものは、なかった。
挑発の言葉に反応がないと見ると、一転して口を噤むウル。
腰に下げた剣の柄に左手を乗せ、息を止めて辺りを睨めつける。
ゆっくりと、彼の足元から放射状に広がるようにして、目に見えない気迫のようなものが励起されていく。
赤銅の髪が、重力に反して逆立っていった。
一様に南へ靡いていた草たちも、不規則に震え出す。
ゆっくりと、穏やかな夜の闇を、熾火のような殺気が焦がしていく…。
「…なぁるほどね。連中が先走るのも納得だ。物騒な空気を出しやがる」
声とともに、ウルの左手側、一本の針葉樹の陰から、思いがけない巨体が姿を現す。
ウルの左眉がぴくりと上がった。
(あれほどの巨躯で…どうして気づかなかった?)
完全に死角を作れるほどの太い幹など、見当たらない。
昨夜の刺客と同じ黒い法衣を着ていることを鑑みても、ウルの目にその姿が留まらなかったのは不自然だ。
「今のは、その剣の力か?『レーヴェモントの武具には神が悪戯をする』って、ガキのころ爺さんに聞かされたもんだが。実際どんなもんなんだい?」
「…この剣に掛かってみるがいい。死とともにその答えをくれてやる」
「おぉ、怖い」
言葉とは裏腹に少しも怯えていない。
逆に男の顔には、悪童のような笑みが浮かんでいた。
「確かに、もうかなりの数の追っ手が、お前さん一人を相手に返り討ちをくらっちまってる。しかも全員どっかしら折られるなり斬られるなりだ。ウチの三下どもは、お前さんを化け物か何かだと思っちまってるだろうな」
無防備に歩み出る、巨大な岩を偉丈夫の形に掘り出したようなシルエット。
そして、それに似つかわしくない軽口。
「だが妙だ。みぃんな『帰って来てる』ってのがな。傷が悪化して死んだって話も聞かない。俺が思うに、よほど慈悲深いか、急所を斬れない腰抜けか…それとも、何か意図があるのか」
「…べらべらとよく口が回るな」
「それが玉に瑕でね」
顔見知りに見せるような表情で、男はウルの前に立つ。
「剣の腕も、敵意に対する嗅覚もなかなかのもんみたいだな。解せないのは、追われてる立場とは思えない振る舞いだ。今みたいに、自分から追っ手の前に姿を表して喧嘩ふっかけたりしてる」
「……」
「よほど血気盛んで、戦うのが生き甲斐みたいなヤツなのかと楽しみにして来たんだがね。しかし、どうだい。その女みてえなツラは。殴ったら泣き出しそうじゃねえか」
男が言い終わる前に、ウルが駆け出す。
右手一本で鞘から抜き放つ勢いそのままに、男の脇腹をめがけて斬りつける。
「しかも、案外短気ときてる」
「!!」
両手を腰に当てたまま、男は無造作に後ろに飛び退いていた。
驚異的なのはその速度と移動距離。
刃の中ほどで捕らえる筈が、標的は切っ先から5,6歩先まで後退している。
直撃する手応えを見越して込めていた力が、行き場をなくしてウルの体を空転させる。
無防備な背中に、先程と同じ速度で男の巨体が突進する。
「くっ…」
苦し紛れに、背中を向けたまま剣の柄を突き出す。
「フンっ」
が、そのどちらも届かない距離で、男は跳んでいた。
両膝を抱え込んで空中で体を時計回りに捻り、回転の遠心力に乗せて右足を伸ばしながら繰り出す。
猛烈な跳び後ろ回し蹴り。
「ぐっ…!」
鉄板で補強されたブーツの靴底を、辛うじて刀身で受け止める。
よろめいて一歩後退しつつ、顔を顰める。
殺しきれなかった衝撃がウルの全身の骨を軋ませた。
距離をとりたいところだが、その痛みが抜けきるまで相手が待っていてくれるはずもない。
あれだけ大振りな蹴りを繰り出しておきながら、既に次の一撃を放てる構えを整えている。
左、右。
ほとんど間隔のない連続の突き。
親指を突き出した独特の形は、どちらも眼球を狙ったものだ。
身を揺らして回避しながら隙を窺うが、姿勢の回復が間に合わない。
こんな体勢からの反撃では、よくてかすり傷を与えられるくらいだ。
鳩尾に向けて繰り出された爪先を辛くも受け流しつつ、策を練る。
巨体特有の鈍重さは全くない。
下手をすればウルよりも速い。
かといって、このまま受け続けていては、消耗は目に見えている。
まずは間合いだ。
懐に入られたままでは 長剣の威力など半分も発揮されない。
間隙無く繰り出される四肢の間を巧みに掻い潜って、なんとか全身に溜めを作り、斜め後ろに跳ぶ。
追って、靴底が伸びるように迫ってきた。
左手を寝かせた刃に添えて受け止める。
地面から離れていた体が、空中で加速される。
咄嗟に繰り出した蹴りとは思えない、凄まじい威力。
姿勢制御もままならず、背中から着地。
すぐに後転して立ち上がり構え直す。
「…滑稽なことだな。暗殺者が格闘術とは」
「ま、そりゃ趣味の問題もあるからね。この際効率は度外視さ」
短く言葉が交わされ、再びウルが仕掛ける。
上段から袈裟懸けに斬り付け、返す刀で首を狙い水平に振り抜く。
が、どちらも紙一重の間合いで回避された。
間合いを見切られている。
「くっ!」
もう一歩踏み込み、どうあっても避け切れない軌道で、長剣を脳天めがけて振り下ろす。
「おっと」
上体を後ろに反らせた不自然な体勢から一瞬で構えを作り直した巨体の男が、大股で間合いを詰める。
速い。先程の後方への移動と同じ、残像の見えるような肉薄。
ウルの背筋が粟立つ。
咄嗟に剣の軌道を修正しようとした右腕の手首を、男の掌がかち上げる。
「っ?!」
振り下ろす剣の重みとウルの膂力全てを打ち消し、さらに押し返して余りあるその力。
長剣を弾き飛ばされずには済んだものの、ウルの重心は右後方に流れ、たたらを踏む。
もう一度、漆黒の巨体が跳びあがる。
彼の眼前には、開ききった無防備なウルの上半身。
「吹っ飛びな」
今度こそ、捻りながら繰り出された靴底が、ウルの頭部を捉えた。
鈍い音とともに、ウルの体はふわりと浮き上がり、芝の上に叩きつけられる。
「挨拶代わりの一発…にしちゃあちょっと効いちまったか?」
音もなく片足で着地し、右足の足首を回す。
余裕の笑みを浮かべながら。
「俺はライオット。覚えておきな。お前を仕留める男の名前を」




