12
デッキブラシが床板を擦る軽快なリズムに乗せて、今日も議論は空転する。
「ウォレスとブライアンでは?」
「ん~、どっちもナシ」
「えー?二人とも金髪だよ?ウォレスは目も青いし、ブライアンは背が高くなりそうだし」
息巻くのは、先ほど女将と一芝居打ってまんまとウルを貶めたそばかすの少女、アンナ。
「もともと、年下なんか興味沸かないって」
冷めたような声で答えながら、手早く床を磨いていくのは、黒い長髪の少女、シャロン
「そんなこといったら、もう選択肢ないじゃない」
「分かってないね、30年は生きないと、男の魅力なんて見えてこないもんよ」
「うわ、出た。シャロンのオッサン趣味」
「歳が一桁のガキにウツツぬかしてるよりはマシよ」
「現実的に物事考えてるだけ。この町の中年なんて先が知れてるじゃない?落盤で潰されるかガスでラリっちゃうか」
いちいち身振り手振りを加えて話すアンナの姿は、見ようによっては愛らしいが、おかげで掃除のほうはまったく捗らない。
「だからって、あと10年は待たないとウォレスもブライアンも食べごろにはならないでしょ?」
「そこはほら、大人の女の魅力ってヤツで。不安定な少年の心をちょぉっと煽ってあげれば…」
ブラシの柄に絡み付いて怪しいしなを作るアンナ。
「そんな平坦な体で誰が燃えるんだか…」
「む…リタよりマシよ」
「あら、アンナ。リタと一緒にお風呂入ったこと無いの?」
「え?嘘、なになに?」
「ああ見えてあれでなかなか…まぁ私ほどじゃないけど」
「げ…ほんとに?」
下世話な話を声を潜めるでもなく続ける二人。
いつもなら耐えかねたリタが止めに入る所なのだが、今日はどうも様子が違う。
当の二人も少々困惑気味だった。
「ちょっと、リタ?二階もう終わったの?」
モップを肩に立てかけて階段の中ほどに座り込んでいるリタ。
心ここにあらずといった様子で、時折深いため息を漏らす以外は全く活動していない。
当然二階の床磨きも手付かずである。
「リタ?返事くらいしたらどう?」
苛立ったアンナが声を荒げる。
「よしなよ。今は放っておいてあげなって」
お姉さんぶった口調でアンナを宥めるシャロン。
「何でよ?」
「何でって。ほら、昨夜…」
「…あ、そうか」
途端、声を潜める二人。
「シャロンはどうだったのよ?やっぱりあんな風になった?」
「私の時は相手が最悪だったからね…あそこまで酷くはなかったけど、やっぱりしばらくは腑抜けてたね」
「ひぇー。私もその内ああなるのかなぁ?」
「あんたは大丈夫よ。女将さんのお気に入りだもの」
軽い妬みを込めた一言。
シャロンが今の不平等な状態を本格的に嘆き始めないうちにと、アンナは慌てて話題を変える。
「それにしても、男って怖いね。あんな虫も殺さないような顔しておいて」
「あら、アンナ。結構アンタ好みのいい男だったと思うけど」
暗に、お前は顔さえよければ他はオマケぐらいにしか考えないんじゃなかったのかと言いたげなシャロン。
アンナは、細かく舌打ちしながら人差し指を左右させる。
「ああいうのは、今時流行らないよ。マジメを取ったら何も残んないような感じ」
「へぇ。分かってるじゃない」
「当たり前でしょ?あんな王子様の出来損ないみたいなカタブツ」
「出来損ないで悪かったな」
絶妙のタイミングで、リネン室の扉を開いて出てきたのは、木槌と釘抜きを持ったウルだった。
驚きと気まずさで硬直するアンナ。
その横を憮然とした表情で通り抜け、階段の下からリタを一瞥する。
リタは慌てて立ち上がって背筋を伸ばした。
が、姿勢を正し終わるころにはもう、ウルはシャロンの方に向き直っていた。
「釘が足りない。あと20本はいる」
「…あら、それは失礼しましたわ」
無礼がない必要最低限の態度でシャロンは返答し、しずしずと台所のほうに消えていった。
「仕事をしろと言うなら、道具くらいは満足に渡せ。大体、なんで木槌なんだ…。金槌はないのか」
誰に言うでも無くぶつぶつと文句を漏らすウル。
何と答えて良いのか分からずに曖昧な笑顔を浮かべるアンナ。
すっかり無視されたリタは、妙に緊張した姿勢のまま、道具を受け取って再び裏口の方向に消えていくウルを見送ることしかできなかった。
「なによ、アレ。ふて腐れちゃって…。大体、金がないなら手を出さなきゃいいのに」
「男なんてみんなあんなもんよ。やることやっておいて、責任ってことになると途端に別人みたいになっちゃうんだから」
囁き合う様に好き勝手なことを言い合う二人に、リタは猛烈な怒りを覚えた。
本人の前ではいい子ぶっておいて、いなくなったら手の平を返すアンナも、男性経験豊富ぶって訳知り顔であれこれのたまうシャロンも、いつになく最低だと思った。
八つ当たりと言われれば図星だが、そんなことはもはやどうでもいい。
「…シャロン、アンナ、二階お願い」
リタの言葉を理解するのに少々の時間を要した二人は、しばし顔を見合わせてから、そろって意地の悪い笑みを浮かべた。
「…はぁ?いきなり何言ってんの?」
「あらあら、リタちゃんてば、もしかして…まだイタいの?」
「ぷっ…ぷははは」
「っ!」
リタの手に握られていたはずのモップが、矢のような勢いで二人の間を通過する。
床に激突したそれは、綺麗に柄と頭に分解され、それぞれ壁に激突してけたたましい音を立てた。
「今夜の賄い、二人で分けていいから。よろしくね」
絶句する二人。
返事も待たずに、リタは階段を下り、ウルの後を追って裏口へと向かった。
「…あれ、リタ、だよね?」
「…初体験して凶暴になるなんて、初めて聞いたわ」
行ったと思っていたリタが、戸口からこちらを睨んでいる事に気づいた二人は、慌てて小刻みに首を振ると、慌しく二階へと駆け上がっていった。
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「あの…ウル、様…」
厨房の裏に位置する勝手口の扉を開け閉めしている後姿に、おずおずと声をかける。
振り向きもせず無理矢理作業に熱中しようとする仕草が、拗ねた子供のようだった。
しかも、作業の内容があまりにも容姿に似合っていない。
なにしろ、金糸の装飾入りベストを着て、左手に釘、右手に木槌だ。
「あの…」
「……」
返事も反応もない。
どうやら、かなり腹に据えかねているようだ。
悪いことに、リタにはこういった怒りの表現をする人間への免疫がなかった。
女将は頭にきたら怒鳴り散らすか、直接手を上げるかのどちらかなのだ。
ウルは、少々やりすぎなのではないかというほどに深い皺を眉間に張り付かせて、がんがんと木槌を打ち付けている。作業もかなり雑になってきていた。
「……」
返答のない問いかけを繰り返す度に、ウルの機嫌を損ねているのを理解したリタは、もはや俯いてがんがんという音を聞いているしかなかった。
ふと、小気味よく響く乾いた音の中に、突然柔らかい物を叩いた音が混じる。
はっとして顔を上げると、ウルが左手を押さえて顔をしかめていた。
「だ、大丈夫ですか?!」
「…っ」
どうやら、誤って釘を支えていた左手の人差し指を叩いてしまったようだ。
「冷やさないと…今、井戸から…」
「必要ない」
やっと口を開いてくれたかと思ったら、発せられたのは明確な拒絶だった。
「でも…」
「…お前がそんなところで突っ立っているから、気が散ったんだ。心配するくらいなら離れていろ」
思わぬ失態に顔を染めながら、言い訳じみた物言いをする。
よく見れば、右の目尻に涙が溜まっているのが分かった。
「くそ…っ」
似合わない悪態をついて、作業を再開する。
その手元を見てリタはあることに気づく。
「あ…ウル様。大変恐縮なんですが…」
「……」
「その、できたら、その蝶番は、逆の方につけて頂かないと…とても不便かと…」
「…?」
一体どうしたらそんな状態になるのか…ドアノブ側が戸口に固定され、本来蝶番をつけるべき端がきぃきぃと音を立てて揺れている。
ウルは気まずそうに咳払いを一つ。
しかし勤めて冷静を装う。
「…これは、だな」
「は、はい」
「…これは…」
「……はい…」
「……」
何も合理的な説明が思いつかないらしい。
ウルは黙ってこっそりと釘抜きを拾った。
「…お前のせいだ」
「ウ、ウル様!それはいくらなんでも滅茶苦茶です!八つ当たりにも限度ってものが…」
「うるさいッ!大体、私がこんな雑務を押し付けられたのは、誰のせいだと思ってる?!」
「そ、それは…」
「全く…悪徳娼婦に引っかかって金が払えずに足止めを食っているなどと、兄上が聞いたらどんな顔をするか」
これには流石のリタも閉口する。
悪徳娼婦?自分が?
「…」
何かを言おうと開いた唇から、吐息だけが逃げていく。
ウルはその様子に気づく気配も無く、失言を悔いるような素振りもない。
思いがけない再会。
無意識にもそこに抱いてしまっていた期待や、幻想ともいえるような未来への展望に、早くもヒビを入ったよう気分だった。
希望から一転した失望の手触りから、自分がいかにここでの生活に追い詰められていたかを実感した。
そして、そんな想いを一方的に押し付けようとしている自分の身勝手さも、同時に自覚させられることになった。
何も考えられなくなるような胸の痛み。
原因はウルの抉るような言葉によるダメージ以上に、自責によるものが大きい。
それでも…。
リタはもう一本の釘抜きを拾い、下の蝶番を外しにかかった。
「……」
一瞬何かを言いかけて手を止めたウルだったが、結局は無言で作業を続ける。
このまま偶然では終わらせないと決めた。娼婦呼ばわりされても、厚かましいと思われてもいい。
(思い出してもらうんだ。『私』だって)
一日足らずで信じられないほど強固になった自分の意思にも、もうリタは驚かなかった。
思いのほかがっちりと打ち付けられた釘を全て抜き去り、どうにか正しい方向にドアを付け直し終わった時、ウルは照れくさそうに小さな声で礼を言い、リタは満足そうに微笑むのだった。




