09
予想以上に冷え込んでいる。
リタはリネン室から予備の毛布を持って来ることにした。
女将や同僚を起こさないように足音を忍ばせ、階段を行き来する。
幸いこの暴風と豪雨のおかげで、先ほどの騒動に気づいた者はいなかったらしい。
女将の豪快な鼾が微かに聞こえた。
前回の教訓から、ノックしなくても済むようにドアを開け放っておいた。
それでも少々緊張しながら、抱えた毛布に先陣を切らせて部屋に踏み込む。
ウルは部屋の角に置かれたベッドの端に片膝を立てて座り込み、壁に背をあずけて瞑目していた。
傍らに剣を置くのももちろん忘れてはいない。
ベッドに備え付けてあった毛布の上に彼が座ってしまっているので、その背中からもう一枚広げた毛布を、巻きつけるようにかける。
彼がどこまで自分を信用してくれているかは量りかねるが、敵意はないと分かってもらえたのかもしれない。
剣の鞘に乗せられた左手は弛緩したままだった。
戸口側の燭台に一本だけ灯を残して部屋を薄暗くする。
ベッドの端に腰掛け、膝の上に自分用の毛布をかけて落ち着いた。
絶えず揺らめく蝋燭の頼りない炎が、ウルの端正な顔に薄い影を落としている。
呼吸に合わせて小さく体が上下しているが、完全に寝入っているようには見えない。
不審な物音でもすればすぐにその瞼は開かれ、いつでも剣を抜ける体勢を取るだろう。
覚醒と睡眠の狭間に意識を置き、かつ身体的な疲労を回復させる。
リタにはとても真似できない芸当だと思った。
今までずっと、追っ手を警戒してこんな眠り方をしていたのだろうか。
体を横たえて熟睡することも許されないというのは、一体どれほどの緊張なのだろう…。
リタの胸がちくりと痛んだ。
結局、彼はまたこうして苦しんでいる。
力になるとか、自由にするとか、約束した過去の自分の独りよがりが恨めしい。
リーノのことなどすっかり忘れて、生活に追われている間にも、彼はこうして戦っていたというのに。
…あの時、カーナの王宮に囚われていたリーノを、なんとかして開放したいと願った。
国にどういう事情があるにせよ、一人の人間の未来を剥奪することなど許されることではないと思った。
だから、自分が皇妃になり、彼を助けようとした。
嫌いだった勉学に励み、皇女らしくない行動も慎み、侍女の言うこともよく聞くようになった。
自分の成すべきことを初めて明確に見つけた喜びが、皇族としての資質に火をつけたようだった。
今まで彼女を幼稚だと蔑んでいた王宮内の声も、目に見えて減っていった。
だが、待っていたのは皮肉な運命だった。
リーノの結婚相手が決まったという噂を聞きつけて、久しぶりにテラスからリーノの部屋を訪れた夜。
いつもきっちり締められているはずのガラス戸は開け放され、それどころか部屋の扉も閂がはずされていた。
もぬけの殻となった部屋にリーノの姿を探していると、偶然廊下を通りがかった侍女が悲鳴を上げた。
「レイスティア様がいない!姫様が王子を逃がした!」と。
気がつくと、今度は自分が王宮の塔に閉じ込められていた。
聞けば、扉のノッカーに取り付けられた鉄輪に、輪状に結んだロープを通して足場にした形跡があったのだという。
閂は高い位置に取り付けられていたが、それなりの身の丈があれば労せず外せる。
そんな細工をする必要がある人間は限られていた。
王城に住む子供は、リタとイオだけ。
そして、イオは間違ってもそんなお転婆な真似をしない。
何より現場に居合わせたということが決め手となり、彼を逃がしたのはリタに間違いないということになっていた。
レーヴェモントからの大切な「預かり物」であるウルを「紛失」したという事実は、国家の危機とさえなりうる大問題だった。
ウルは三男と言えど紛れもない王の嫡男であり、レーヴェモントからの全幅の信頼が故にカーナに託されていたのだ。
一刻も早く彼を見つけ出し捕らえなければ、カーナはレーヴェモントを軽んじているとの非難は免れない。
不注意から脱走を許した上に、もしエーヴィッヒの中腹あたりで彼が野垂れ死に、その遺体を他国の人間に見られでもしたら…。
平和に任期を終えるはずだった時の大臣の中には過度の心労で寝込む者も少なくなかったという。
皇女といえど、許されることではなかった。
糾弾の声は止まず、リタがどんなに無実を訴えても無駄だった。
次期皇妃は当然イオということになり、リタは死ぬまでその塔に幽閉されることとなった。
リタの望んだ結末とはあまりにかけ離れた現実が、石の壁に囲まれた部屋に満たされていた。
あんな形でウルが解放されても、カーナに連れ戻されるのは時間の問題だ。
子供の足でエーヴィッヒの険を越えられるとは到底思えない。
よしんば越えられたとしても、友好の証としての立場を無視して我が身可愛さに舞い戻った王子の帰還を、レーヴェモントが歓迎するはずもない。
その解放は、彼をより複雑な状況に陥れたに過ぎない。
一体誰がこんなことをしたのか。
リタ自身がそうした覚えがないということは、イオが?
それとも、まったく違う誰かが自分に容疑を向けるために?
いくら考えても栓のないことと知りながら、寝ても覚めてもそれ以外に頭に浮かぶものはなかった。
そして行き着いたのは、何を思おうとも何を叫ぼうとも、誰も答えてはくれない孤独。
今まで自分の生きる世界とは無縁だった絶望というものの意味を、一日ごと一秒ごとに思い知らされていった。
「彼女」が命を賭してそこから助け出してくれなければ、リタは今もあの石の部屋に居たのかもしれない。
いや、それすらも許されず―もしくは自身が耐え切れず―死を迎えていた可能性もある。
そう考えると、この再会は何という僥倖か。
リタは胸が詰まる想いだった。
例え彼が自分を覚えていなかったとしても、ここでまた逢えてよかった。
見つめるウルの寝顔が、涙で歪みそうになる。
ベッドの端と端。
少し手を伸ばせば、その手にも顔にも届く。
掌に残っている先ほどのウルの感触。
…もう一度触れたい。
剣を握りすぎて硬くなった彼の掌に。
何度となく涙の雫が伝ったであろうその頬に…。
ふと、ウルの肩から毛布が滑り落ちる。
今更ながら心臓が暴れ出していた。
微かに聞こえるウルの寝息。
思い返してみれば、男子と二人一つ屋根の下で夜を明かすなどというのは、初めての経験だった。
しかも、その顔を見つめるだけで、こんなにも切なくなる相手と。
音を立てないようにと立て膝で近寄り、もう一度彼に毛布を掛けなおす。
今度はずり落ちない様に、しっかりと肩に乗せて…。
「……」
そのまま、動けなくなっていた。
いけない…離れなければ…。
…離れなければ?
一体どうなる?
誰がそうしなければいけないと言ったのか。
幸い、ウルが剣を握る気配はない。
意外と眠りが深いのか、それともリタの存在を黙認してくれているのか。
耳のすぐ裏で鼓動がしているかのように、自分の血流の音が喧しい。
顔が熱いのは、ふき取り忘れた雨粒の刺激のせいだけではない。
すぐそこにある右手。
毛布の上に投げ出されている五本の指。
そっと…あくまでゆっくりと、その小指に自分の左手の小指を重ねてみた。
大きな手。
改めて並べて見てみると、彼の成長がより顕著に感じられた。
甲の部分には何かで切ったような古傷。
無骨な形…自分の手とは違う生物のそれのようでいて、見惚れるほどに美しいその形。
この手は剣を握り、その剣は幾度となく人を傷つけてきたのだろう。
そう分かっていても、そこに在る魅力は薄れない。
むしろ、様々な業を握り締めて今日まで生きて来たからこそ、魔力めいた何かが自分の目をここまで惹きつけるのかもしれない。
我が子の成長を喜ぶ母親のような気持ちと、彼の本性に似合わないその形を悲しむ気持ち。
その感情は間違いなくリタだけのもので、他人は誰も知らない。
その生々しい心の熱が、ただひたすらに嬉しかった。
毛布なしでは肌寒かったはずなのに、体の芯から勝手に熱が湧き出してくる。
重ねた小指からは、彼の体温が、彼がここに生きているという証明が感じ取れる。
信じられないほど穏やかな気持ち。
命を狙われている人物を匿っているという物騒な状況も、彼が背負っている大きすぎる事情も、今はどうでもいい。
ここで逢えた事。
忘れていてもいい、こうしてまた自分の隣に座っていてくれる事。
それだけでもう、リタの胸は隙間なく満たされていた。
やはり、この人は自分の日常を変えてくれた。
永遠にこのままで居たいなどとは思わない。
ただ、少しだけご褒美を。もう少しだけこの温もりを。
自分の心がまだ生きているという実感を。
朝日が昇るまでの、ほんの一時だけ…。




