事実の価値
8・・・事実の価値
「それじゃぁ・・・この辺でいいです・・・」
(・・・婚約かぁ・・・)
「健二さん・・・ほんとにもう大丈夫ですよ」
「・・・ええ・・・そうですよね・・・」
(・・・酔いが醒めるってのは、こんな事を言うのかな・・・)
「・・・意外に・・・粘っちゃう方・・・ですか?」
「・・・友里香さん婚約してたんですね・・・」
「えっ?・・・はい、婚約してます」
「・・・ですよね・・・」
(・・・気持ち・・・覚めないで欲しいなぁ・・・)
(え?誰の?・・・友里香?ユリカ?・・・自分?・・・)
「健二さん困ります」
「えぇ・・・えっ!・・・あ、そうですね、メールですよね、アドレスは・・・さっき聞いたよね・・・うん、それじゃ気を付けて・・・」
友里香の毅然とした声に立ち止まった僕は、喋り終わらない内から後退りを始めていた。
「じゃ・・・おやすみ」
僕は軽く会釈をし、踵を返した。
少し歩いて振り返った僕に見えたのは、街灯に照らされた、これから歩く住宅街のアスファルトと友里香の小さな後ろ姿だった。
(参ったな・・・)
僕は見えなくなった友里香を追うように歩いていた。
(結構近い所に住んでんのかな・・・)
(・・・それも参ったな・・・)
友里香の事実と、友里香と歩いた街並みが、ユリカと歩くいつもの道筋と同じだった事も振り返りながら、僕は目の前に迫っていた四つ角を右に曲がった。
(まさか同じマンションって事は・・・)
四つ角から10m程歩いた所に在るマンション入口横の自動販売機の前で、僕は財布から硬貨を取り出そうとしていた。
「・・・ある訳ねぇか」
派手に転がり出て来た缶コーヒーを取り出した後、僕はそう声を出して20m程先に在るエントランスに向かって歩き始めた。
(・・・・・)
(・・・!!)
「今晩は」
「・・・・・」
オートロック解除パネルの前で、こちらを向いて立っていた友里香の声が僕の心に戸惑いを運んでいた。
「・・・あ、今晩は・・・あれ?・・・友里香さん・・・」
(・・・まさか、な・・・)
「・・・会いましたね・・・」
「・・・ですけど・・・あの・・・僕は此処・・・なんで・・・失礼します・・・」
猛烈なスピードで回転し始めた頭と、複雑に揺れ動く心に邪魔された僕の言葉は充分途切れていた。
「・・・・・」
いつもなら会話を続けようとしている筈の僕はぎこちなく、友里香に会釈もせず、オートロック解除パネルにキーを差し込んだ。
「・・・今晩は」
「!!・・・」
エレベーターの前で立ち止まった僕の背中に友里香の声が届いた。
「・・・またお会いしましたね」
友里香の笑顔が振り向いた僕の目に飛び込み続けていた。
(マジかよ・・・)
「・・・人って驚くと、意外に声って出ないもんですね・・・」
「・・・・・」
確かに僕たち二人は、端から見るとさり気ない日常のように見えているかもしれなかった。
(・・・静かだな・・・)
「・・・何階・・・ですか?」
「・・・・・」
「友里香さん?」
ぎこちなさを引き摺ったまま乗り込んだエレベーターの中で、二人は次に待つ現実に緊張を強いられていた。
「・・・後ろを歩いていた人影が気になってて、まさか健二さん?って思って、待ってみたんです・・・」
「・・・・・」
僕は何も答えられず、何も聞き出せず、自分が降りる階のボタンを押した。
(・・・何が起こってるんだろう・・・)
(・・・恋愛の神様の狙いは何なんだろう・・・)
「・・・それじゃ僕はここで・・・」
エレベーターを降りる前に驚くべき事を驚き終えていた僕は、友里香の向かう先を知りたがっている好奇心を抑え、再び友里香を置いて取り敢えず気障に振る舞った。
(何が起こってるんだろう・・・)
(・・・狙いは何ですか?・・・)
僕は部屋の玄関ドアに続くホールを淡々と歩きながら、ハワイで一目惚れした女性とダイナーでエスプレッソを飲み、東京でのデートを強引に決め、ホテルのアトリウムを1人で後にし、しかしまた出会い、やっぱり酒を飲み、おやすみと言った後自宅マンション前で再会し、しかも同じマンションの同じ階に住んでいるかもしれないという、そんな確率の中に歴然と存在してしまった二人の事実が、僕に取って、いや、友里香にとって一体どれ位の価値があるものなのかを考えさせられていた。
(どうなるんだろうこれから・・・)
「おう!!健二っ!!」
「・・・!!」
503号室から突然出て来た男は、50年振りに会ったとしても直ぐに名前が浮かぶだろう顔だった。
「おおっ!!勇作じゃないか!!」
「久し振りだなぁ!元気か!!」
「びっくりさせんなよお前・・・焦んじゃねぇかさ!!」
(・・・本当に、何が起こってんだろう・・・)
「いやぁほんと久し振りだなぁ!元気にやってっかお前!!」
「ああ、元気にやってるさ」
「何だよお前・・・ずっと連絡も寄越さねぇでさぁ・・・な、でもどう・・・」
「勇作、お前此処に住んでんのか?」
「ん?・・・おっ!!何だ友里香居たのか!!心配したぞ!!お帰りっ!」
「・・・ただいま・・・」
(!!・・・)
(マジか・・・)
(・・・友里香が僕の後ろに居るなんて・・・)
「まったく電話しても出ないし、あんまり遅いから探しに行こうとしてたんだぞ」
「ごめんなさい」
「・・・ああ・・・もういいさ、無事で良かったよ」
「・・・こちらの方と・・・どんな関係・・・なの?」
「ん?健二か?同級生だよ。高校、大学と同じでさ、しかも弱い野球部でずっと一緒だったんだ」
「そう・・・」
友里香と勇作は僕を真ん中に挟んだまま会話を始めていた。
(・・・頭ん中、更に整理が必要だ・・・)
「・・・ちゅうか健二、お前何で友里香と一緒なんだ?」
「えっ!?いや、あれだよあれ・・・」
「あれだよあれって、どれだよ」
「どれだよって・・・」
「知り合いなのか・・・って友里香まさかお前・・・」
「違う違う!この方が友里香さんとか名前とか、初めて会うお方で、たまたま下で一緒になっただけだよ!」
「たまたま一緒?・・・しかし健二お前何で焦ってんだよ、たまたま一緒ってどういう意味だ?・・・そう言やぁさっきも“ヤバい”みてぇな事言ってたな・・・健二お前、友里香となん・・・」
「違うんだって!!んな事ある訳ねぇだろ!!」
「じゃ何で友里香ん家の前に居んだよっ!」
「えっ!!まっ、え、いや、あのさ、俺ん家なんだよ此処がさっ!!」
僕はそう言って割と大袈裟に隣の玄関を指差した。
(・・・頭ん中・・・整理が・・・必要だ・・・)
「ええっ!!マジかよっ!!・・・そりゃまたびっくりだな!」
「・・・ああ、ほんとにびっくりだよ・・・」
“ガチャ”
(僕達三人は、ドアが開く音がした方を一斉に見たんだ・・・)
「あっ!やっぱり居た」
ユリカはドアレバーを持ったまま、502号室の玄関ドアから上半身だけ外に出して僕を見ていた。
「・・・ただいま・・・ごめん、遅くなったな・・・」
「そうだよ、もう帰るってメールくれてから何時間経ってると思ってんの?」
ユリカは取り敢えず僕のサンダルを履いて、落ち着いているように見える顔をして、僕に詰め寄って来ていた。
「ごめんな・・・」