第二十八伝(第九十三伝)「心を潤すもの」
第二十八伝です。みなさんの心を潤してくれるものはなんですか。友達、家族、アニメ、いろいろあると思います。私はもちろん、この小説です。
夢我師匠は私が創造した木製の防壁を避けるように、迂回ルートを通り進撃してきた。師匠の眼は大量の水を含んだかのように潤っていた。
「正撃!」
私は馬鹿正直に突っ込んでくる師匠をあざ笑うかのごとく、正撃で迎撃を試みた。
「極意其の二、相手の攻撃を瞬時に避け、瞬時に後ろをとる」
またしても解読不能な師匠の独り言だ。
気がつくと、師匠は私の背後にその身を置いていた。
しまった……!
私は自分の愚かさを知ってしまった。師匠があんな単純な距離の詰め方をするはずがない……。
あえて、単純な動きを見せることで、私を攻撃させるように誘導したんだ……。
「順回!」
私は自分で生んでしまった汚点を払拭させるために、再度跳躍し、順回を試みた。
「その技は見切っている!」
師匠は私の技をまるで図ったかのように、下半身に重心を入れながら、拳を腰に構えていた。
私はここで先ほど順回を完璧に破られた忌まわしきイメージが脳裏にこびりついた。
このままではまた防がれる……!
そう感じた私は、咄嗟にいつもの回転方向とは逆の方向にその身を回転させた。今まで試みたことがない、まさにぶっつけ本番だ。
「逆回!」
師匠の視点から物を言えば完全に逆を突かれたという表現が妥当だろう。私の攻撃はその奇襲の甲斐あって、師匠の無防備な背中にクリーンヒットした。これが本日の稽古通算して師匠が受けた初のダメージだった。
師匠にダメージを与える……。
つまり、これはこの道場の中では傑出した存在であることの証明。王樹と会話したことが影響しているか不明だが、あの辺りから私の動きはまた一段とキレている。どうやら、さらなる高みへと移行したらしい。
「まさか、私にダメージを与えるとはな。一階堂アリサ、末恐ろしい奴だ。しかし、厳しいことを言うようだが、この程度で図に乗っては困る。これが最後の攻防となるだろう。お前の”最も自信のある技”で来い! 私もそれに応えよう!」
「はい、師匠!」
『正撃!!』
私と師匠は全く同じタイミングで全く同じ言葉を発した。そして、全く同じ行動を始めた。
それはどこでも見れるようなオーソドックスな正拳突き。しかし、その拳には達人が研鑽したかのような、威風堂々とした空気を纏っていた。
静寂な岩山に広がるドゴオンという衝撃音は私と師匠の拳が交わった合図であった。
夢我師匠と出会ってから五年余り、師匠と生徒という立場で物を言われたことは数多かったが、こうして対等な立場から拳で語り合うことは初めてだ。
深くて、重い……!
「極意其の三、決めるときは一撃で」
師匠の拳と最後の独り言から伝わってきたものは、今の私では決して背負いきれるものではなかった。私は一階堂の姓を持つ者の宿命として、他よりは苦い過去を経験したつもりだ。しかし、この人のそれは私のそれをはるかに上回る……!
私の敗北の理由はこれだけで十分だった。
私は夢我師匠に敗北した。私は生まれてから十五年、初めて挫折を味わった。
頭では分かっていたつもりだ。師匠に勝つなど並大抵のことではないと。しかし、心のどこかではこうも思っていた。私の能力は師匠の能力を上回ると……。
ツリーハウスの住人というブランドで慢心していたのだ。慢心が私を腐敗していたのだ。
まだ足りない……!
私はさらなる高みを目指して一階堂の姓にふさわしい人間にならなければいけない。
私なら出来るはずだ。なぜなら、私は一階堂の姓を与えられた選ばれし人間なのだから……。
師匠は手をパンパンと叩いて、生徒達を招集させた。
「これにて、本日の稽古は以上となる。そして、昨日話した通り、猫道場の稽古はこれ以降ない。みんな、よく厳しい稽古に耐えてきた。今のお前達ならどこへいっても恥じない人間になるだろう。自信を持ってほしい。これから先、お前達がどんな人生を歩むかは分からない。そして、これからどんな人に出会うかも分からない。だが、これだけは言っておこう。これから出会う人との”繋がり”を大切にしてほしい。その”繋がり”は枯渇した自分の心を潤してくれるかもしれない。それだけではなく、自分の心という花壇に花が咲くかもしれない。これで、最後の総括は以上だ」
師匠の総括を最後に、猫道場の全ての稽古が終わりを告げた。これは、五年間猫道場へ通い続けた私にとって大きな出来事であったことに間違いはない。
私は師匠の総括に残念ながら同意する事は出来なかった。
確かに私はいろいろな繋がりを持った。ツリーハウスの住人の中の頂点であり、私の母親同然であるレイサ様との繋がり、私と同等の秀でた能力を持った友、ジェシカとの繋がり、そして猫道場の師範である夢我師匠との繋がり。
しかし、繋がったことで、レイサ様が日に日に弱る姿に心を痛め、ジェシカの能力に嫉妬し、師匠との別れを悲しまなければならない。繋がりは私の心を逆に枯渇させていた。
師匠の主張とは正反対だ。
私の心を潤すものは、いつだってツリーハウスの住人であり、一階堂の姓を与えられたという生まれながらにして手に入れた、不変的な称号だった。
着々と最後の帰り支度を済ませていると、師匠が私に向かって手招きをしていた。
私は早足で師匠のもとへ駆け寄った。
「どうしました?」
「アリサ、前々から思っていたが、今日の組手で確信した。お前は良いバトラになれる。ダイバーシティのバトラになってみる気はないか?」
私は少しばかりその身を硬直させてしまった。
私がダイバーシティのバトラだと……。私の憎むべき対象に私自身がなるだと……。
ありえない……。
いくら師匠の言葉とはいえこれには同意しかねる。
「すみません……」
「分かっている。突然のことだから困惑しているのだろう。すぐに決めろとは言わない。良く考え、後悔しない選択をしろ。もし、バトラになりたいという選択をしたのならば、いつでもダイバーシティに来い。推薦制度を使いお前を推薦する。確かツリーハウスとダイバーシティは同盟関係であるから、自由に来れるはずだ」
違う……。そうではない……。
師匠は私のことを何一つ分かっていない。それは、所詮師匠は選ばれしツリーハウスの住人ではなく、ただの外界人だという現れ。しかも、師匠は明日より私の憎むべき対象であるダイバーシティのバトラになる。もう、私の尊敬する猫道場の師範である黒猫夢我はもうどこにもいない。
そう思うと、私の夢我師匠に対する尊敬の感情は、まるで冷却スプレーを当てられたように冷え切ってしまった。
「考えておきます」
私はそう言い残して、師匠に背を向けてその場を離れた。これは、師匠との繋がりを切ったということなのかもしれない。
☆ ☆ ☆
私はツリーハウスに戻った。猫道場はもうない。私の居場所はもうここだけだ。いや、もともと居場所はここだけだった。それが元に戻っただけだ。
ツリーハウスに戻ればレイサ様が私を包み込むようにして迎えてくれる。本当に幸せなことだ。
「最後の稽古はどうだった?」
レイサ様は私に尋ねた。こうやって猫道場での出来事をレイサ様に話すことが毎回の日課となっていた。
「夢我師匠と闘いました。負けてしまいました。ツリーハウスの住人として、一階堂の姓を授かった者として恥ずかしいです。今のままでは一階堂の姓を持つ者として不適格な人間です」
「そう落ち込むなアリサよ。あの者は強い。我も一度手合わせしたことがあるが、あれは相当の実力者だ。さすがに、今のアリサではきついだろう。だが、そう落胆するな。貴様は一階堂の姓を持っている。それに変わりはない」
やっぱりだ……。
レイサ様は私のことをしっかりと理解している。師匠とは違う。ちゃんと、私の心を潤すような言葉を選んでくれる。
これがツリーハウスの住人の崇高さなんだ。
私は改めてレイサ様の気高さを肌で感じた。
「アリサよ、明日貴様に会わせたい人がいる」
レイサ様はそう言い残して、寝床へ向かってしまった。
翌日の朝。
私は習慣なのか無意識に猫道場へ行く支度をしていた。だが、ふと我に返った。
もう、猫道場は無いんだ……。
そう思うと、急に虚無感に襲われた。
そう言えば昨日、レイサ様が仰っていた私に会わせたい人って誰だろう……?
そんなことを思い出していたら、レイサ様が一階堂の間にやってきた。
「アリサよ、昨晩私が言っていたことを覚えておるな?」
「はい。私に会わせたい人がいるのですよね?」
「そうだ。入ってよいぞ」
レイサ様の呼びかけと同時に、一階堂の間の唯一の入口である入り組んだツタで出来た扉からパサッと音がした。これは一階堂の間にごく稀にやってくる訪問者が来た証拠だ。
その訪問者の正体は、レイサ様に仕える二階堂の女だった。いや、違う。二階堂の女の横に、見慣れない、まるで人形のような可愛らしい少女がいるではないか。
その子の歳はおそらく私の年齢の半分くらいだろう。眩しいほど鮮やかな肩くらいまで伸びている緑色の髪が特徴的な少女だった。
「この方があなたがこれから仕えるアリサ様だ。挨拶しなさい」
二階堂の女はそう言って、少女の背中をポンポンと叩いた。
少女は私の前に立ち、その小さな脚を折り曲げて、正座をしながらこう言った。
「今日からアリサ様にお仕えします二階堂樹希と申します」
これが樹希との出会いだった。
「お仕えするってどういうことですかレイサ様?」
展開が早すぎて困惑している私は、とりあえず全てを熟知しているだろうレイサ様に尋ねた。
「一階堂の姓を持つ者は私とアリサの二人しかいない。よって、我亡き後は貴様がツリーハウスの頂点に立つ。頂点に立つ者は、代々一階堂の姓を持つ者か、該当する者がいない場合は二階堂の姓を持つ者を下に従えると決まっているのだ。我がこの者を従えているようにな」
レイサ様はそう説明すると、長年レイサ様の下についているであろう二階堂の女の人を指さした。
私はレイサ様の言葉をすぐに鵜呑みにすることはできなかった。
「私がいきなりツリーハウスの頂点に立つなんて無理ですよ……」
そう、私はまだ弱冠十五歳。ツリーハウスの頂点、つまり王になるなんて早すぎる。私はレイサ様という絶対的な至高の存在に私がなるなんて想像できない。
「アリサも分かっているだろうが、我は日に日に弱ってきている。いつ死ぬかも分からない。いずれ、その日が来ることを早めに伝えておきたくてな」
「嘘でも死ぬなんて言わないでください!」
「アリサよ、貴様も十五だ。現実を見ろ。来たるべき日が来ることに間違いはないのだ」
「でも、なんでこのタイミングなんですか?」
「アリサよ、貴様は私に問うた。この先どうすればいいのかと。この二階堂の少女は貴様のその答えを示す道しるべになるはずだ」
レイサ様は私のことをそこまで考えて……。自分の体が弱ってきているのに……。
そう思った私の目には少しばかりの涙が溢れていた。
しかし、目の前にいるのはこれから私に仕える少女。情けない姿は見せたくなかったので、強引に手で目に溜まっている涙をこすり落とし、今自分ができる最大限の笑顔を樹希という名の少女にさらけ出した。
少女は純真無垢な目でこっちをじっと見つめている。
「えっと、よろしくね樹希ちゃん★」
「はい、よろしくお願いしますアリサ様」
少女は可愛らしい小さな口を一生懸命動かして、七、八歳の子供とは思えないような綺麗な敬語で話した。
「うーん。私はレイサ様のように様付けするような凄い人じゃないから、私を呼ぶ時はアリサちゃんでいいよ樹希★」
私はにっこりとした表情を樹希に近づけながら言った。
「私の名前を……」
「名前って?」
「樹希って名前で……。普通、仕える者は名前で呼ばれないって……」
「うーん。名前あるんだし、せっかくだから使う方が良くない?」
「は、はい! えーと、アリサ……お姐さんって呼んでもよろしいでしょうか?」
樹希はまるで太陽のような満面の笑みを見せてくれた。よほど、名前で呼ばれることが嬉しかったらしい。
「うーん。まあ、そっちの方がいいな。それと、堅苦しい敬語も止めようか」
「そ、それはどうなんでしょうか……?」
「”どうなんでしょうか”じゃなくて”どうなの”。はい! 言ってみて!」
「ど、どう……な」
「もっとこう自然に!」
「え、え……」
私と樹希は初対面にも関わらず、こんな他愛もない会話を始めていた。これが、同じツリーハウスの住人同士の波長かもしれない。
「これが新しい形の主従関係かもしれぬな」
そんな私達を見て、レイサ様はこんな一言を小声で添えた。
この日を境に私は二階堂樹希と生活を共にするようになった。レイサ様の言うとおり、彼女は私の道しるべになりえる存在だった。