第二十七伝(第九十二伝)「至高を追い求め」
第二十七伝です。アリサはさらなる高みを追い求めます。現状で満足することってほとんどありませんよね。人はよく深い生き物ですから、さらに上のランクに進もうとする傾向が強いようですね。
ジェシカが猫道場を去ってから一年くらいが経った頃だろう。私、一階堂アリサは十五歳を迎えた。
猫道場に通い始めてから早五年の月日が流れていた。私はいつの間にか猫道場に古株となり、いつしか夢我師匠から生徒のリーダーを任されるようになった。
「はい、今日の稽古はこれで終わりです★ 最後に師範からの総括です」
私は毎回の恒例となった終わりの挨拶を済ませ、夢我師匠にバトンを渡した。
「今日は皆に大事な話がある」
明らかにいつもとは違う話し出しだった。なぜか、道場全体の空気がピリッと張り詰める。まるで、師匠がこれから話す内容を暗示するかのように……。
「明日を持って猫道場を閉鎖する」
あまりにも衝撃的な夢我師匠の言葉に、道場内は騒然とする。私を含め猫道場の生徒全体の頭が真っ白に染まっただろう。
私は、特別な人間であることを自負しているから、入れ替わりが激しい猫道場の厳しい鍛錬に弱音を一切吐かずに耐え抜き今日まで過ごしてきた。なのに、猫道場が閉鎖するなんて……。ここまで耐え抜いてきた意味がまるでないではないか……。
「どうして急にこの道場が閉鎖するんですか!?」
生徒の一人がこんな質問を師匠に飛ばした。この質問はおそらく生徒全員の総意だろう。
物事には理由が必要だ。猫道場を閉鎖する理由は私たちを納得させるためには必要不可欠だ。
師匠は生徒からの言葉を受け、重い口を開いた。
「実はな……。ある人からの推薦で私はダイバーシティのバトラになることが決まったのだ。だから、道場を続けることができなくなった。即戦力で欲しいということだから、このように急な話しになってしまった。すまない」
そんな……。夢我師匠が私が最も憎むダイバーシティのバトラになるなんて……。
奴らは、私の大事なものを根こそぎ奪っていく……。
私のダイバーシティに対する憎悪は確かなものとなっていった。
「つまり、明日が最後の稽古となる。よって、明日はいつもとは違う特別な稽古をする。では、今日の稽古は以上とする」
師匠の言い分は分からないでもないが、私は、いや私を含む生徒全員が突然の道場の閉鎖に腑に落ちていないだろう。
私はその夜、レイサ様に夢我師匠がダイバーシティのバトラになり、猫道場が閉鎖する事を伝えた。
「そうか……。夢我がダイバーシティのバトラにか」
「はい」
「意外だな。そういう奴ではないと思っていたが」
「私はこの先どうすれば……?」
「どうすればとは?」
「私はこの先どのように鍛錬すれば良いのですか?」
「もう、五年も道場へ通ったのだ。充分ではないのか?」
「いえ、まだです。まだ、鍛錬は必要です! 私たちの力をダイバーシティに見せつけるために……!」
「そうか……」
それから、レイサ様は何もおっしゃることはなかった。ただ、レイサ様は私に何かを伝えたがっていたことはなんとなく分かった。
翌日。
五年間通い続けた猫道場へ行くのも、これが最後となる。道場へ行くために通ってきた殺風景な路も、五年間通い続けると愛着のある路へと変貌していた。今では途中で見える家の位置や形はもとより、道端に凛として咲いている花の場所まで熟知出来るようになったほどだ。
ツリーハウスから猫道場までの所要時間は随分と短縮されていた。初日は一時間強かかっていたが、猫道場で足腰が鍛えられたお陰か、いつの間にか数十分に辿り着くようになっていた。
黒猫の絵が目につく猫道場の建物を見るのも、これが最後だと思うと私の心は哀愁を帯びじにはいられなかった。
私はこれがおそらく最後になるであろう道場に足を踏み入れた。いつもと変わらない。厳しい稽古が容易に想起させる特有の汗臭さも、今となっては嗅覚を心地よく刺激するアロマテラピー的な役割を担っていた。
「これより最後の稽古を始める!」
夢我師匠の一声により、最後の稽古の始まりが告げられたのであった。
「先生、昨日言っていた特別な稽古とはなんですか?」
猫道場の生徒からこんな質問が投じられた。確かに、師匠は昨日、いつもとは違う特別な稽古をやると言っていた。
特別な稽古とは何なのだろうか……?
「私と1vs1の組手を行う」
なっ……!?
私は度肝を抜かれた。道場内がざわつく。生徒達も私と同じ気持ちだっただろう。
夢我師匠は生徒と1vs1で闘うどころか、拳を交えることすらなかったからだ。おそらく力が違い過ぎるのだろう。私はともかくとして猫道場の生徒達が敵うはずがない。
しかし、私は高揚感を覚えていた。
師匠を師範を生徒が越えることにより、私の特異性は完全証明される……!ツリーハウスの住人が、一階堂が、私が本物の特別だということを……!
そして、師匠から驚きのルールが提示された。
「普段の組手なら道場で習った技のみを使用可能とするが、今回ばかりは特別ルールだ。自分が今持ち合わせている全ての技を使用可能とする」
道場の教えを重んじる夢我師匠が言った言葉とは到底思えなかった。
ついに、道場で私の全ての力が解禁される……!私がツリーハウスの住人としての血筋が存分に活かされる……!
私は全身の毛が逆立つような、素晴らしき興奮を覚えていた。
師匠を超え、私の存在は至高となる……!
猫道場、最後の稽古が始まった。場所は道場では無く、道場の外の岩破壊を行っている、外の広い敷地で行われた。生徒が室内では使えない技を持っているかもしれないという師匠の配慮である。
生徒達は一生懸命、自己の力を使い師匠に歯向かっていたのが印象的だった。しかし、私ははっきりと分かった。師匠は明らかに手を抜いている。やはり、私以外の生徒では勝つどころか、勝負にすらならないようだ。
そして、私の出番が回ってきた。私と師匠の組手は、猫道場で行う最後の組手であり、最後の稽古となる。私はトリを任されたのだ。師匠の私に対する信頼感の表れだろう。
その通りだ。私がトリにふさわしい……!
私は師匠の”絶対攻撃領域”に足を踏み入れた。
絶対攻撃領域というのは夢我師匠から半径約一メートル以内の領域を指す。一般的に近距離と呼ばれる戦闘距離だが、道場ではこの戦闘距離に特化した者を育てるという方針があるがゆえ、やむおえない理由が無い限り、組手はこの戦闘距離で行わなければならない。そして、いずれ来る実戦で、私達はこの戦闘距離で”絶対に攻撃する”つまり絶対仕留めるという意味を込めて、この道場ではこの間合いのことを絶対攻撃領域と呼ぶ。
師匠の絶対攻撃領域に踏み入れた瞬間、私の細胞が警笛を鳴らした。
この間合いは危険だ、死ぬぞ――そう警告しているようにも思えた。これが近距離戦闘を極めし者の絶対攻撃領域……!
だが、私には自信があった。私はツリーハウスの住人の中でも選ばれた一の姓を持つ至高の存在、対して師匠はツリーハウスの住人ではない存在、そのルーツの違いだけで純粋な能力は私が優れていると微塵も疑うことはなかった。
確かに経験の差というものがある。それを乗り越えれば現時点での私にも勝機はあるはずだ……!
「極意其の一、相手に隙を見せない」
師匠は開口一番、独り言とも取れるこんなことを言った。
私はなんとことかさっぱりわからなかったので、それを無視して早くも初手で、猫道場の教えにはない技を繰り出した。私は飛翔し、少しばかり天へ近づいた。
「順・回!」
夢我師匠の教えでは無い、レイサ様直伝の超高速回転跳び蹴り、極空回の原点、順回――!
私の回転し続けている右足が師匠の体にヒットする瞬間……。
「正撃!」
夢我師匠はその旋回が止まりそうもない右足に、正拳突きを打ち噛ました。その強靭な威力は、レイサ様直伝の超回転を止めるほどであった。
私は不覚にも無防備に師匠の真ん前に立ってしまった。その距離、ほぼゼロ距離……!
刹那、なぜか世界が傾いた。しかし、その表現は誤植であった。私の体が傾いていたのだ。
私の体を四六時中支えている二本の脚のバランスが崩された。師匠の目にも留まらぬ足払いによって……。
師匠の手によって完全に重心を崩された私は背中から地面に思いっきり叩きつけられてしまった。
やられる……!
このままでは完全に敗北が決定してしまうと感じ取った私は、今度は道場で習得した転法で首の皮一枚でなんとか距離を取りながら躱すことに成功した。師匠の拳が届かないような間合いを取ることに成功したのだ。
しかし、私はここである負い目に気づいた。
「猫道場の教えを一身に受けたお前が”絶対攻撃領域”を捨てるとはな……」
師匠の言う通りである。猫道場の教えの最大の売りである近距離戦闘での闘いを、私は本能的に捨てたのだ。
しかし、私は柔軟な頭を身につけているらしい。私のこの行為は決して負い目ではなく、強みであることに気づいた。
だって、そうだろう。私は猫道場の生徒であると同時にツリーハウスの住人でもある。私は二つの常識を持っている。猫道場の教えなど私にとっては片方の常識にすぎない。
猫道場の優秀な生徒という肩書きだけでは私を語ることはできない。猫道場の教えというちっぽけな常識だけでは私を縛れない。私は猫道場の生徒であり、ツリーハウスの住人でもあり、一階堂の姓を与えられた他に類を見ない唯一無二なる存在。そもそも、私を縛っていい常識など存在しないのかもしれない。
しかし、そうは言っても師匠を退けることは難しいかもしれない。私にあるものはレイサ様直伝の順回、猫道場で教わった技ともともと持ち合わせてる傑出した身体能力のみ。ただ、それでは師匠を倒すのは困難。
だが、それではダメなのだ。ツリーハウスの住人が外界人に劣っているなんてあってはならない。それが、私の尊敬する師匠であろうと……!
「我の力を使え、人間よ……」
なんだ今の声は……!?
なぜか、どこからか声が聞こえた。その声の主の心覚えは全くない。ただ、一つだけ分かることは夢我師匠や、他の生徒の声といった外部からの声ではないということ。なぜなら、私の体内から聞こえてきたからだ……。
「誰……?」
私はそう心の中で問うた。口に出さずとも伝わると思ったからだ。
「我はただの樹木だ。やたら、長生きで大きいがな……」
私には、それに該当するものが一つしかなかった。
「まさか、王樹!?」
「確かに人間はそう呼んでいるがな……」
「なぜ、王樹さんが私と……!?」
「さあな、こうして人間と会話するなど初めてだからな。一つ言えることは潜在的に我の意思がお主の意思と同居し、なんらかの作用で我の意思が覚醒したらしい」
「意味がわからない……」
「我とて意味がわからない。なぜ、我の意思がお主の意思に入り、こうして我の声が届いているのかがな」
「ご、ごめんなさい……! 天下の王樹様に若輩者の私が失礼なことを言ったみたいで……」
「そうだな、我の長い人生においてお主のような小さき存在を気に止めることなどなかっただろう。だが、こうして出会ったのもなんかの縁だ。大地に手を置きお主の力を与えよ。大地は我の力とお主の力に呼応し還してくれるはずだ」
「え、あはい!」
正直、全てを鵜呑みにすることができなかったが、夢我師匠がじわりじわりと詰め寄り、次第に私との間合いが絶対攻撃領域と化していく。
私は言われるがままに地面に手のひらを置き、自分が持つありったけの力を大地に送った。
干からびた大地に生まれるオアシス。私が力を送った大地から、緑鮮やかな四本の木の柱が屹立した。その四本の木の柱は私を守るように防壁へと化し、師匠の侵攻を阻んだ。
「なに、これ……!?」
この技の発動者である私が一番驚いたであろう。なにもない大地から木柱が生み出される超常現象を他でもないこの私が生み出したのだから。
「道場で稽古をしなくて正解だった。スペシャル持ちの者が猫道場の生徒にいたのだからな」
壁越しに夢我師匠の声が聞こえた。壁が邪魔で表情を確認することができなかったが、喜んでいるのが長年の付き合いから見て取れた。
「ありがとうございます、王樹さん!」
この力を手に入れたのは紛れもなく王樹のおかげ。私は心の中にいる王樹に感謝した。
「……」
しかし、王樹からの反応はなかった。
どうやら、こちらからコンタクトを行うことは不可能らしい。
いや、そもそも私の心の中に王樹など存在しないのかもしれない。私が創り出した嘘偽の存在で、あの声は幻聴なのかもしれない。この木柱を生み出したのは王樹の力ではなく、私自身の力なのかもしれない。いや、そうに違いない。
だから、私は他とは違う存在なのだ。だから、私は一階堂なのだ……!
「まだだ、アリサよ!」
夢我師匠が私が生み出した木の壁を回り込んで侵攻を再開していた。
師匠の眼はいつもと明らかに違っていた。それは、指導者としての生徒を見守る暖かい眼ではなく、戦いに飢えた戦闘狂の眼という表現が一番似合う、そんな眼だった。