プロローグ
人生の価値というものは、
この世に生まれた人間に対して平等に与えられるのだろうか――。
俺の答えは『そんなことは一切合切ありえない』だ。
前提として、人生の価値が平等でなかったとしても、当人の努力次第でその人生の価値が上がったり下がったりする可能性があるというのはもっともであろう。
確かに、あることに全力を尽くしていた人の努力が報われたとき、その人の人生は有意義なものだったと誰もが思うようになるだろう。この流れには何も間違いは無く、後世まで美談として扱われることにも納得だ。
しかし当然ながら努力ではどうにもできないディスアドバンテージは、人間誰しも持ち合わせているものなのだ。
それは時には夢の挫折となったり、時には人生の価値までを見失うことにもなりかねない。
例えば、世の中には裕福な人もいれば、貧乏な人もいる。都会に生まれ幼少期からせわしない生活を送ってきた人もいれば、田舎でのびのび過ごす人もいる。親に大切に育てられてきた人もいれば、親がネグレクトだった人もいるし、その逆に親が過保護すぎたことで鬱になってしまう人もいる。
これは自分で好きに決められることではなく、そう生きていく運命として神から定められたステータスなのだ。
さらにたちが悪いことに、それらのステータスは人が成長していく上で大きな影響を与える。
どうあがいても一人で生き抜くことが不可能なこの人間社会では、周りの環境というものは自分という存在に最も影響してくるものになりかねない。
それだけでなく、自分が今いる環境によっては、将来への道のりが、アスファルトできっちりと舗装された道から誰にも手を付けられていない砂利道、果てはとても人が歩くべきではないほど険しい山道であることもある。とても皆平等であるとは言い難い。
確かに、これは仕方ないことではあるのだ。
徐々に格差社会となってきているこの世界において、運良く勝ち組に入ることができた人もいれば、他方いわゆる負け犬になってしまった人もいるのは至極当たり前のことである。
しかしながら、両者の格差があまりに大きいとなると、両者の人生の価値が当人たちの努力によって平等になるということは、よほどのことがない限り不可能であると俺は考えている。
どう頑張っても追いつくことのできない、自分のはるか彼方を生きる人間というものは残念ながら必ず存在するのだ。
生まれてこのかた、負け犬サイドとして生きてきた俺は、年月が経つごとにこのことを実感していき、所詮勝ち組の下っ端にすらたどりつけない自分自身の人生に価値を見出せないまま、空虚な十五年間を過ごしてきた。
とはいっても、人生の価値が見出せないとはいったものの、両親が亡くなったり失踪したり、いじめられて不登校になったり、そういったことが俺の身に起こったわけではない。
しかし、もしそういった人が近くにいたとして、俺は彼らと似たような思考をしていると勝手に思った。
それは自身がいる絶望的な現在から、全く先が見通せない状況であるという点で、彼らと似たような境遇をたどっていると言えなくもない気がするからである。
俺の微かにあった生きる気力さえも根こそぎ奪った、そんな事件は半年前に起こった。
俺は、不治の病によって余命宣告を受けたのだ。