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83.持たざる者の処置

 久しぶりの虫さん回。

 ユリエルがかつて戦場でやっていた、そしてミエハリスが唾棄すべきとしてやめさせた虫さん療法が炸裂する!


 ユリエルは自分の純潔を認めた者は仲間として扱いますが、そうでない奴がまだ二人います。

 もしそういう者に命の危機が迫った場合、取れる選択肢は……。

 セッセイン家の者たちを帰し、侵入した聖騎士たちの様子を見ながら……ユリエルたちは、全力でミツメルの治療に当たっていた。

「神官たち、顔全体に癒しをかけて!

 妖精さんたちは体の生命力を活性化させて!

 ……どうにか、間に合ってくれれば」

 ミツメルは10階層の神殿に寝かされ、ミエハリスを除いたダンジョン総出の治療を受けていた。

 ミツメルの顔には、目玉を失った大きな穴が開いている。

 ユリエルの血を鑑定する映像を遠方から届けるため、顔についていた中心の目玉を分離したせいだ。

 だが、ここはミツメルの力の源であり急所でもある。

 中心の目玉を失ったミツメルはかなりのダメージを受け、他の目玉の働きも大幅に制限されてしまった。

 聖騎士が深く潜ってくる前に、治療しないとまずい。

 それに、戦闘以外にもやりたいことがあった。

「早くしろよ……おまえのために。

 少しでも再生したら、聖騎士が地上に出る前にカッツの恥映像をばらまいてやる!」

「ええ、やらいでか!」

 ミツメルの力が戻れば、ミツメルが撮った映像を宙を舞う目玉で放映することができる。死肉祭で、ユリエルの真実を流したように。

 それを今度は、カッツ先生でやるのだ。

 大兵法家と名高い転移者にして学園の教師があんなクソだと分かったら、人々は教会をどう思うだろうか。

 それが、カッツ先生のせめてもの使い道だ。

「くううっ……なかなか治らないわね!

 オリヒメちゃん、聖騎士は?」

「速い……もう折り返しの下りに入るよ」

「うぇっ速っ……さすがに格が違うな。

 となると、あまりDPを使いすぎたらまずいわね。聖騎士との戦いでは、みんな無事にって訳にいかないし」

 迫りくる脅威に、ユリエルは顔を曇らせた。

 聖騎士との戦いに、勝つ必要はない。むしろ、負けて桃を持って帰ってもらわなくては。

 しかし、戦わなくていい訳ではない。疑いを持たれないように、必死に見せた抗戦の末に敗れなくては。

 そうなると、倒されてDPで復活しなければならない者が多数出る。

 そのうえ聖騎士がどこまで潜って来るか分からないため、場合によっては深層でもう一戦やることになるかもしれない。

 それを考えると、今ミツメルの回復にあまりDPを使うのはまずい。

「どうしよう……ああ、聖女の力があったら!

 力を貸してくれる人を、満足に癒すこともできないなんて」

 今、ユリエルと神官たちと、そしてワークロコダイルのシャーマンと弟子たちまでもが治療に力を尽くしている。

 だが、ミツメルの目玉はなかなか再生しない。力の源だけあって、すぐ再生させるには相当なリソースが必要だ。

 DPと引き換えに得た上級回復薬で眼窩を満たしても、少し触手が出て絡み合ってきた程度だ。

「うう……ワニさんたちは、もういいよ。

 お弟子さんたちは熱帯雨林に戻って、シャーマンさんは戦いに備えて。

 ……ごめんなさい、ちょっと欲張りすぎたかも」

 ワークロコダイルに指示を出しながら、ユリエルは謝った。

 これだけ力のある人に助けてもらって、作戦も概ねうまくいって、思い通りに事が運ぶと思っていたのに。

 まだ自分たちに、そこまでの力はなかったということか。

 やりたいことは心の中に山ほどあるのに、手近な目標すらこぼれていく。あと少しのところで、届かない。

 しかしここで、桃仙娘娘が動いた。

「ああもう、仕方ないわね。

 力を貸しすぎるのは良くないって言われてるけど、これはわたくしの力じゃないからセーフよ!」

 桃仙娘娘は祭壇の聖なる桃を掴み、ミツメルの下に持ってきた。

 そして、小刀ですっと一文字の傷をつける。

 そのままミツメルの眼窩の上で持っていると、傷からしみ出した香しい果汁がぽたぽたと眼下に垂れた。

「今よ、強い癒しをかけて!」

「は、はい。ハイヒール!」

 ユリエルと神官たちが、魔力を振り絞って癒しの力をこめる。

「ふっ……うぐっ!あがああぁ!!」

 ミツメルが苦し気に呻き、体がビクリと震えた。大きな眼窩から、上級回復薬がゴポリとこぼれた。

「ハァ……ハァ……素晴らしい。

 万全ではないが、これなら放映と鑑定はできるぞ!」

 ミツメルの眼窩の奥に、ちょこんとビー玉大の目玉が再生していた。眼窩が大きすぎるため、普通の大きな目より妙な見た目になっている。

 その絶大な回復効果に、ユリエルたちは目を見張った。

「うわ……すごい……果汁だけで、こんな……!

 でも、桃が傷ついちゃった」

 すまなさそうなユリエルに、桃仙娘娘は柔らかな笑みで言った。

「大丈夫、桃自体が再生するから。

 半日もあればきれいに直るわよ」

「……そう言えばそうでしたね。

 でも、こんな物を敵に渡してしまって大丈夫なんですか?これって、うまく使えば何百人も人を救えるんじゃ……」

 ユリエルの新たな疑問に、桃仙娘娘は含みのある笑みを浮かべた。

「ええ、ものすごい薬よ……人の身には余るほどに。そして、薬は過ぎれば毒となるの。

 だからミツメル殿、しばらくは食べ物に気を付けて。

 甘いものと穀類、芋を一月ほど避けて。飲み物にも砂糖は入れちゃだめよ。果物もできるだけやめて」

 桃仙娘娘は、ミツメルに怪我人用とは思えない食事指導をしている。

 どうもこの桃はものすごい滋養と同時に、かなり強い副作用があるらしい。しかも、たった果汁の数滴で。

 もし、これを普通に食べたらどうなるか……ユリエルたちは、うすら寒いものを覚えた。

「……なかなか厳しいな。僕はアンデッドじゃないんだが。

 まあいい、元いたダンジョンにも人のためのまともな食事などなかった。

 せいぜいこれを敵に持ち帰らせた後、いい映像が撮れることを期待するさ」

 ミツメルは体力もだいぶ回復したようで、さっそくカッツのばらまき用映像の編集に取り掛かった。

 その様子を見て、ユリエルはホッと胸をなでおろした。

 自分には、自分のものではないけれど、力を貸して骨を折ってくれた人に報いる癒しがある。

 それは、自分にとっても相手にとってもとても幸せなことだ。

 ユリエルは、味方の願いを叶えてあげられたことに深く感謝した。


 しかし、それができない者もいる。

「キャーッ!先生が……先生が倒れたの!」

 神官が、血相を変えて駆けこんできた。

 急いでかけつけると、魔物学の教師が地面に倒れていた。その顔色は悪く、呼吸は荒い。

「先生、何が……これは、傷が!」

 神官たちが包帯をほどいた手の傷を見て、ユリエルは息を飲んだ。

 魔物学の教師の手の傷は、臭い膿でべとべとになっていた。おまけに周りがどす黒く変色し、腫れてところどころ汁が出ている。

「壊死してる……!」

 ユリエルにとっては、戦場で腐るほど見た光景だ。

 何が起こったのかは、明白だ。戦いの最後に冒険者に斬りつけられた手の傷が、感染を起こしているのだ。

 傷が膿んで、しかも内部に壊死が広がってしまっている。このままでは、さらに腐った部分が広がって敗血症で死ぬだろう。

 いや、魔物学の教師はもう敗血症を起こしている。

 汗のにじんだ額に触れると、かなり高い熱を出していると分かった。

「ハハ……実は一昨日辺りから、気分が悪くてね。

 薬学の先生が持たせてくれた解熱剤で、何とか抑え込んでたんだ」

「熱は抑えちゃダメですよ!体が戦うために出してるんですから!」

 ユリエルが叱ると、魔物学の教師は力なく笑った。

「膿が出てきた時点で、言ってくれれば……」

 ユリエルが言うと、魔物学の教師は困ったような顔をした。

「言ったって、癒してはくれないんだろう?

 私はまだ、君の純潔を認めない。納得できる証拠が出るまで、保留だ。

 そしてその間、君は私を癒さないと決めた。君の言い分が正しいなら、それは相応の処遇なんだろう。

 そんな君に判断を決めないまま言ったって、君を苦しめるだけじゃないか」

 それを聞いて、ユリエルの胸はズキンと痛んだ。

 捕虜にしてもユリエルの純潔を認めなければ、戦えないようにして受けた傷も癒さない。

 それが、ユリエルが己の尊厳を守るために決めたこと。

 事実を訴えているのに聞かない奴に、与える恵みはない。自分は何を言われても従う奴隷じゃないんだ、と。

 だからミエハリスと魔物学の教師は癒さなかったし、ミエハリスには魔封じの枷をつけてある。

 もちろん、ユリエルの純潔を認めればすぐにでも癒すつもりではあるが……。

「先生、私は純潔です」

「うん、その可能性が高い事は分かってきたよ。

 でも私は学者だ、納得できる証拠がないと認めない。そこは譲れない。

 君も私のためじゃないが何か企んでいたし、それで私も明確な証拠を見られるかと思っていたんだが……。

 間に合わないのも、自己責任のうちか」

 魔物学の教師は、悔しそうに呟いた。

 プライドンがセッセイン家に帰り、人間勢力としての血の鑑定結果が出れば、魔物学の教師も納得するだろう。

 ただし、それまで魔物学の教師の命がもつかが問題だ。

 ユリエルの見立てでは、魔物学の教師の傷はもう腕を切断しないと命が危ないところまできている。

 これを癒しなしで一週間もたせるのは、分の悪い賭けだ。

「お願いですユリエル様、癒させてください!

 証拠があれば認めるって言ってるんですよ!?」

 見かねた神官が、ユリエルに泣きついた。

 ユリエルだって本当は、癒してあげたい。しかし……。

「それで……私に、汝の敵を癒せっていうの?

 こいつはまだ、私の純潔を認めてない。認めるまでに助け出されれば、また私を倒すために働き始めるかもしれない。

 まだ上に攻めて来てる冒険者や、ミエハリスと同じ側にいるのに……癒せと?」

 その言葉に、神官たちは何も言い返せなくなった。

 敵に情けをかけて癒すことは、美しい。しかしそれは、同時に自分や味方を無用の危険に晒す愚かな行為だ。

 魔物学の教師だけなら、いいかもしれない。

 しかしそういう先例を作って情の逃げ道を作ってしまうと、ユリエルは敵を排除できなくなり、情に溺れて死ぬかもしれない。

 そうならないように、一線を設けてどんなに心が痛んでも耐えているのだ。

「あーあー……こうなるから、言いたくなかったんだ。

 ユリエルちゃんは、優しくて真面目な子だからね。

 ユリエルちゃんの言う通りの可能性もある以上、私はユリエルちゃんに譲らせる気はないよ。

 全ては私の判断、手出し無用だ!」

 魔物学の教師は、気まずそうながらもそう言い切った。

 潔く死を待つその姿に、神官たちは皆涙した。


 だが、ユリエルは見捨てなかった。

「まだよ……もたせてみせる!

 私や味方の癒しを与えないだけで、何の処置もしないなんて言ってない。

 だいたい、魔力がなくて怪我人があふれるなんて、戦場では日常なんだから。それでも何とかするのには、慣れてるわ!」

 ユリエルは勢いよくそう言って、神官たちに指示を出した。

「あなたたちが持ち込んだ薬以外も、使うなとは言ってない。

 誰か、ハーブ持ってないの?ローズマリーとかヴァーベナとか、浄化作用の強いやつ。煮だして、疫病泥棒の酢みたいなのを作るのよ!」

 病気や怪我を治す手段は、回復薬や魔法だけではない。それが手に入らない者は、それ以外の手段で対処してきたのだ。

 その一つが、疫病泥棒の酢だ。

 かつて疫病が大流行した時、疫病で倒れた者の家ばかり狙う泥棒がいた。そいつは浄化作用の強いハーブ酢で疫病を防ぎ、病人の家財をほしいままにしたという。

 それに気づくと、神官たちは手持ちの薬草を出した。

「本当に効くのかしら?

 この世で最も正しく確実なのは癒しの魔法、次にその力を秘めた薬。それ以外は眉唾ものだと習ったのだけど」

 最も多くハーブを持っていた元ミエハリスつきの神官は、懐疑的だ。

 しかしユリエルは、それを一蹴した。

「そう信じさせた方が、教会が儲かるからでしょ。

 でも、田舎や戦場ではそんなもの足りないことの方が多いんだから。それ以外の処置で救われた命だって多いのよ。

 人はいつも、身近にあって使えるものを探し続けてきたの」

「そうそう、貧者には貧者のやり方があるんです」

 アノンと同じ孤児院出の神官も、激しくうなずく。

 しかし、魔物学の教師の状態がそれだけで良くなるかは疑問だ。

「でも、腐りかけてる腕はどうするの?

 壊死した部分を切ってこれ以上毒が回らないようにしないと、いくら浄化しても追い付かないわ。

 腕を切らないと、命を救うのは難しいのでは……」

 この意見はもっともだ。

 命を救うには、感染巣となっている壊死した組織を残らず切り取るのが望ましい。腕を保存しようとして半端に残してしまうと、そこからまた壊死が広がってしまう。

 命か体の一部か、悩ましい所だ。

 だが、ユリエルはそれも解決手段を知っていた。

「大丈夫、腐ったところだけ取り除く方法はある。

 虫さんに任せればいいのよ。来い、ウジの湧いた死体!」

 ユリエルは、ダンジョン内からウジがたかった腐りかけの死体を呼び出した。そのあまりのグロさに、神官たちが悲鳴を上げる。

「ひいいぃっ!!一体何を!?」

 震え上がる神官たちの前で、ユリエルは死体に何千と蠢くウジを容器に払い落とし、差し出した。

「この中から、この子と同じか少し小さいのを選んで。百匹はほしいかな。

 そうしたらさっきのハーブを煮出した水で洗って。死なないように冷ましてから洗ってよ。

 この子たちが、腐った部分だけ食べてくれるから!」

 それを聞いて、神官の内二人が反応した。

「もしかして、ウジ療法……ユリエル様が戦場でやっていらしたという!」

「嫌あああぁ!!汚らわしい!!」

 アノンと同じ孤児院出の神官は希望にすがり、元ミエハリスつきの神官はあまりの嫌悪に絶叫した。

 戦場に出たことがあるこの二人は、戦場でユリエルが負傷兵にウジをつけていたことを知っている。

 ミエハリスは、汚い虫で兵士を虐めていると思ってやめさせたのだが……。

「大丈夫、きれいにして使うから、何のために洗うのよ!?

 これでたくさんの兵士が助かったのよ」

 ユリエルは、希望を確信した目でウジを差し出す。

 悪臭を放つ腐りかけの死体に大量に蠢く、白い小さなウジ。普通なら、見ているだけで吐き気を催す光景だ。

 しかし、魔物学の教師は這いずって手を伸ばした。

「やってくれ……どうせこのままでは、いや腕を切っても、助かるかは分からん。

 ならば最期になっても、その実験を見届けてやる!」

 そこには、学者の執念もあった。

 自分は狭い分野に囚われて、ユリエルの広い知識に負けた。だから少しでも、知らないことを知りたい。

 そして少しでもユリエルの真実にたどり着ける可能性があるのなら、自分の体で実験してもそれに賭けたい。

 魔物学の教師本人が望む以上、やらない理由はなかった。

 それでも、元ミエハリスつきの神官は心を痛めてさめざめと泣いた。

「ああ、先生がこんな迷信の犠牲になってしまうなんて!

 だいたいウジやハエなんて、邪気の塊じゃない。この世を汚すために、汚らわしいものから湧いてくるものなのに!」

「えっ!?」

「え?」

 元ミエハリスつきの神官の言葉に、孤児院出と平民出の神官が奇異なものを見る目を向けた。

 それに気づき、元ミエハリスつきの神官も二人に理解不能な顔をする。

 ユリエルは、呆れて突っ込んだ。

「ああ、迷信はそっちね。身近に虫を見てる二人は、知ってるわね。

 ハエだって蝶やカブトムシと同じように、卵から生まれて増えるただの虫なんだから。それを化け物みたいに言わないで!」

 元々裕福なミエハリスやお付きの神官は、虫をただ気持ち悪いと嫌ってろくに知ろうともしない。

 その結果が、この偏見だ。

 もっとも、これは教会がそう教えているせいもある。聖人教会の古い聖典に、虫が邪悪の使いであるという記述があるのだ。

 それが、死体や汚物に群がる嫌悪感により信じられてしまったのだ。特にそれらに慣れていない高貴な者たちは、そう固く信じて広める側になっている。

 だがユリエルは、これもチャンスだとほくそ笑んだ。

「そこまで言うなら、洗ったウジたちに清浄魔法をかけてみてよ。

 本当に汚れと邪気の塊だったら、消えるはずよね」

「も、もちろんよ!先生を、汚させはしないわ!」

 元ミエハリスつきの神官は、主人に似て高潔っぽい覚悟を決めている。これなら、一生懸命ウジをきれいにしてくれるだろう。

 死体についていたウジは、その時点でどんな病原体を持っているか分からない。だから、浄化せねば使えない。

 浄化効果の強いハーブ水で洗い、できれば清浄魔法で体内まできれいにしないと。

 ユリエルとしては、これはウジをきれいにするだけで敵の治療ではないのでセーフと言い訳するつもりだった。

 だが、神官が別目的でやってくれるなら渡りに船だ。

「うふふふ、全部消せるといいわね~!

 攻撃魔法はダメよ、じゃ頑張って」

 ユリエルはウジを神官たちに任せると、魔物学の教師に歩み寄って慈悲の短剣をすらりと抜いた。

「さあ先生、腐った部分を切開しますね。

 先生が暴れないように、ちょっと糸で縛りますんで」

「ヒエ……!」

 麻酔なしでの切開に、魔物学の教師は思わず悲鳴を上げた。一瞬、純潔を認めてしまおうかと心が揺れた。

 だが迷っているうちに、オリヒメの糸でぐるぐる巻きにされ、傷に慈悲の短剣を突き立てられた。

「ムグゥ~~~!!」

 のどかな湖沼の神殿に、オッサンのくぐもった叫びがこだました。


 数時間後、ようやく傷の処置が終わった。

 魔物学の教師の腕は切り開かれて腐った組織が抉り取られ、そこに数えきれないウジが群がって蠢いている。

 魔物学の教師は痛みに脂汗を流しながらも、それをじっと見つめていた。

「す、すごい見た目だねえ……ゾンビみたいだ」

「あら、見えた方がいいって言ったのは先生じゃないですか。

 それに、ウジが湧いてるのはなりたてのゾンビだけです。アンデッドとして安定すると、ウジは離れるんですよ」

「……君と一緒にいると、勉強がはかどるよ。

 できれば、もっと長い事ここで学びたいものだが……」

 魔物学の教師はそれだけ言うと、気を失った。

 ユリエルは急いで血まみれになった南国舞踊衣装を脱ぎ捨て、聖女服に着替えながら神官たちに指示を出す。

「今からあなたたちとミエハリスを、もっと下の階層に送るわ。

 私がそこに撤退するまで、先生の処置をお願い。ウジは四日ごとに替えればいいから、多分間に合うと思うけど……」

 処置が終わったら、もうこの階層に長居は無用だ。

 もうすぐ聖騎士がやって来て、ここは修羅場となる。

 ミエハリスと魔物学の教師には、巻き込まれてもらっては困る。必ず真実を認めるまで、生きていてもらわなければ。

 そうして時が来ればミエハリスも、従者のように盲信から解放されるだろう。

「ねえ、何で……あんなに浄化しても、ウジが消えないよ……。

 せ、聖典は正しいんじゃないの?本当に、ただの生き物なの?」

 戸惑っている神官を魔法陣に蹴り込み、ユリエルは捕虜たちを下の階層に送った。

 これでここに残っているのは、心を許せる仲間たちのみ。共に聖騎士を迎え撃つ、同志たちだけ。

「さあ、限界を学びに行くわよ!」

 ユリエルたちは処置の血に汚れた神殿で、聖騎士たちを待ち構えた。

 疫病泥棒の酢は、ヨーロッパのペスト流行期の話として伝えられる「四人の泥棒の酢」が元ネタです。殺菌作用の強いローズマリー等を漬け込んだハーブ酢で、これを使って泥棒が疫病患者の家を狙ったという。


 ウジやハエが腐肉から自然発生するという考え方も、かつてヨーロッパで普通に信じられていました。

 それを否定したのが、外界からの汚染を防いだフラスコ内の肉に虫は発生しないというパスツールの実験です。

 病気の原因についても、悪臭や沼地のミアズマ(瘴気)が原因だと本気で考えられていました。


 宗教的観念にばかり囚われると、人は簡単におかしいことでも信じてしまいます。

 進化論を未だに否定する、敬虔すぎるキリスト教徒のように。

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― 新着の感想 ―
魔物学の教師…、胆力有るな…。瀕死になっても信念は曲げず、最期になろうとも学びの姿勢は崩さない。でも蛆虫が集る腕と痛みで気絶はする。 まだ名前すら貰ってないのに、良いキャラしてやがる。 生きろよ…。
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