43.審問官の憂鬱
前のダンジョン討伐から辛くも逃げ延びた、審問官さんのお話です。
街中がユリエルを憎み討伐に気勢を上げる中、その根拠となる判定をした審問官さんはどんな気持ちで日々を過ごしていたでしょうか。
自分と家族惜しさに役目も責任も裏切った代償は、身も心もすりつぶすほど辛いものでした。
いっそ審問官さんがもっと悪人だったら、楽だっただろうに。
そして、インボウズがくれた贈り物も、本気で楽しめただろうに。
学園都市の城門が、朝からにぎわっている。
都市に入る検問には長い列ができ、それを囲むように余った農産物や日用品を売る露店が並んでいる。
市街の通りは物珍しそうに周りを眺める人であふれ、彼らを店や宿に呼び込む声が飛び交っている。
この時期特有の、お祭りのようなにぎわい。
並ぶのが苦でなくなってきた風の中、死肉祭のために地方から冒険者や教会の軍が集まって来たのだ。
そんな彼らは、今年はもう一つの話題で沸いていた。
「おい、ここの女学園から破門されて魔女に堕ちた奴がいるらしいぞ」
「聞いたぞ、聖女だったのが邪淫に染まったらしいな!」
「何でも、教会が管理してるダンジョンを乗っ取ったとか。
今は死肉祭に集中するために立ち入り禁止らしいが、これが終わったらまた討伐を始めるんだと」
「へへへ……こりゃ、手柄ついでに命乞いさせてお楽しみだぜ!」
破門され魔女となったユリエルのことは、ここに来た冒険者のほとんどが知っている。
学園都市のダンジョン乗っ取りはそれなりのニュースとなって世界に広まったし、今年は教会がその鎮圧も兼ねて人を集めているからだ。
ギルドマスターが地方からの移住条件を緩和したこともあり、例年以上の数の冒険者がこの都市に集まっている。
そのうえ今年は、街全体が来訪した冒険者を歓迎していた。
街角で、冒険者にささやかな食事や手造りの道具を配りながら、声を張り上げている者たちがいる。
「どうか、この街の邪を払うのに力をお貸しください!
死肉祭が過ぎても、食事代の割引はいたします!」
「あなた方のお力で、息子の仇をとっておくれ!
そのために必要なら、息子の遺品はどんどん持っていきな!」
ひときわ声を張り上げているのは、前に虫けらのダンジョン討伐で夫や息子、兄弟などを失った家族たちだ。
道行く冒険者たちに応援を込めて自腹で物資を提供し、時には泣いて手を握って武運を祈る。
それを受けた冒険者は、驚きつつもその境遇に同情し、そんなけしからん奴は必ず討ってやると破邪の志を燃やす。
「奥さん、娘さん、安心して下さい。
皆で力を合わせれば、必ず悪は滅びます!」
冒険者の中には、そんな都合のいいことを言いながら未亡人や父を亡くした娘に下心を持つ者もいた。
ちょっと手柄を立てて見せてやれば、この女どもと学園都市の家と楽な生活が手に入る。弱った心などちょっと押せば意のままだ、とばかりに。
だが、そんな下種共に釘を刺す者がいた。
「軽率に大口をたたくものではありません。
被害者に手を出すより、まずは己の本分を全うしなさい。
大切なのは、与えられた使命に誠実に尽くすこと。人も神も、あなた方の言葉よりもやる事を見ています!」
被害者の家族を守るようにそう言ったのは、高位の聖職者のローブをまとったやや神経質そうな男。
その姿を見ると、被害者の家族たちは目を潤ませて駆け寄った。
「まあ、審問官様!前は夫が世話になりました」
「あなたが真実を明らかにしてくれたおかげで、息子が天国に行ったと確信できました。
真実のために、貴い身であんな邪悪な戦場にまでご足労いただいて……その正義のお志に心から感謝しております!」
被害者の家族たちは、大黒柱を失って苦しい家計の中から惜しみなく金を包んで渡す。
「どうか、魔女を倒す足しにしてください」
「たとえ貧しくなろうと、心は常に正義と真実の御許にあります」
審問官は己を労わりなさいと拒もうとしたが、被害者の家族たちはとにかく受け取って役立ててくれとむせび泣く。
結局、寄付として受け取らざるを得なかった。
それを、冒険者たちは羨ましそうに見ていた。
「いいよなぁ……俺も聖職者になりてえよ」
「いや、ちょっと頑張りゃなれるかもよ。
前の討伐で将軍が裏切ったせいで、衛兵がだいぶ減ったって話だ」
「例の魔女にはスゲエ懸賞金がかかってるって話だ。身内の裏切りさえなけりゃ、嘘つき小娘を殺すだけでこいつらの英雄に……」
冒険者たちは、これを成り上がるチャンスと見て野心を燃やしている。
審問官はそれを牽制するように一睨みして、その場を離れた。
人気のない路地に入ると、審問官はさっきもらった寄付の袋を取り出した。それを見つめる目と握る手は、震えている。
(こ、こんなものを……真実でもない判定のために……!)
切なる信心とともにこれを渡してきた被害者の家族たちの顔を思い出すと、審問官は吐き気がした。
皆、自分の真偽判定を信じてユリエルを憎んでいる。
自分の亡くした大切な人は正義と真実のために戦って死んだと信じ、悲しみに暮れながらもそれを無駄にせぬよう苦しい身を削っている。
偽りと邪淫の魔女ユリエルを倒せば、全て報われると信じて。
せめて自分たちが、少しでも亡き人の正しき行いの手助けをするのだと。
その、全ての根底にある『真実』が、間違っていたとしたら。
彼女たちは何を思い、どんな顔をするだろうか。
(違う!!違うのだ!!
そんなつもりではなかった……私は、こんなに多くの人を騙すつもりではない!偽りで世を支配する気など、なかった!!)
審問官は、肩を震わせかぶりを振った。
自分のやってしまったことが、恐ろしく罪深い。
自分は教会の都合……いや、あの枢機卿たちほんの一部の都合のために、数知れぬ人々を騙して苦難に引きずり込んでいる。
人を導き救う教会の教えと、自分の役目と、全く逆のことをしている。
(私は……私はただ、家族と平穏な暮らしを守りたかっただけなのだ!!
決して、あかの他人を弄ぶつもりなど……!)
いくら言い訳をしても、現実は日々容赦なく押し寄せてくる。
ユリエルを魔女と信じて戦死した人々にだって、謝っても謝り切れないのに、その遺族が自分に感謝して金品を差し出すのだ。
自分たちより教会に誠を尽くした聖女を貶め、横暴を通すばかりの教会幹部に、自ら寄付をするのだ。
こんなひどい詐欺はない。
もしこれを本物の悪魔が見たら、手を叩いて大喜びするところだ。
(私は……とんでもないことに手を貸してしまった!)
日々多くの人が巻き込まれていくのを見て今さら事の大きさを思い知ったが、もう遅い。やり直すことはできない。
それに、あの時別の答えを選んでいたら、今頃自分と愛しい家族は……。
「殺せ殺せ!!」
「裏切り者め、報いを受けろ!!」
広場に集まった群衆が、盛んにはやし立てている。怒りと憎しみの飛び交う中心には、ボロボロになった数人の女子供が磔にされていた。
それは、前の討伐の失敗の理由として濡れ衣を着せられた将軍の家族だ。
教会が失敗をもっともらしく見せるためだけに、裏切り者に仕立て上げられた将軍。そのショーのためだけに、世の全てから唾を吐かれ殺される家族。
「イヤーッ!お父さん、そんな事しない!!
私たちだって、何も知らな……ヒィッ!!」
「黙れ裏切り者め、もう欺かれんぞ!!」
どこまでも正直に知らないと叫ぶ娘に、処刑役人が容赦なく鞭を振るう。これまで大切に守られてきたであろう白い肌に、残虐な傷が刻まれていく。
「やれやれー!息子の仇だ!!」
「虐げられる人の気持ちを、思い知るがいいよ!!」
娘がどんなに正直に否定して哀れに泣き叫んでも、群衆は聞く耳持たない。
むしろ自分たちの大切な人を嘘で奪ってまだ白を切り続けるのかと、ますます怒りを燃え立たせる。
やがてその怒りが形を成したように、娘たちの足下に火がくべられる。赤い炎が女子供の体をなめ、絶叫とともに炙っていく。
その光景に、審問官は胸を抉られるようだった。
(惨い!!ここまでされる謂れがどこにある!)
この家族たちも、完全に無辜とは言えない。将軍が不正に中抜きした金や部下から分捕った手柄の報酬で、肥えてはいただろう。
しかし、さすがにここまではやりすぎだ。
何より他の将軍やその家族は、今も何食わぬ顔で富を貪っているのに。この差はあまりに理不尽だ。
しかし、その理不尽を通してしまえるのが、教会の力である。
教会が示す真実は疑うべくもない、教会は常に正しい。そう信じる群衆の力と神の名を借りた権力で、いとも簡単に真実を捻じ曲げてしまう。
そして標的は、世界の全てに否定され絶望の中で死んでいく。
燃え上がる将軍の家族たちに、審問官は涙を流して祈りをささげた。
(すまなかった……せめて死後は、相応の罰だけ受けて後は安らかに)
同時に、愛しい妻と娘のことを思った。
(私は、許されざることをしたかもしれない。
しかし、そうしなければ……あそこでああして燃やされたのは、私と家族だっただろう。私は、あの災いから家族を守っただけだ!
悔いはない!!)
審問官は、心の中で吐き捨てた。
こんな世の中で、こんな組織の中で生き残って出世し、妻子を幸せにするには仕方のない事だ。
だが、そう思い込もうとするたびに、ダンジョンで見たユリエルの顔がちらつく。
どんなに本当のことを言っても、信じてもらえない。真偽を司る役目の者にすら真実を握りつぶされ、絶望と怒りに狂った修羅の顔。
それでも、あの娘の救済と自分たち家族の安寧は両立できない。
あの娘がせめてこれ以上苦しまずに死ぬ、以外では。
(……何とか、早いとこあの魔女を……ユリエルを倒さねば。
私と愛しい妻子が、刑場の火にくべられる前に!)
審問官は、さっきもらった寄付の袋をローブの下で握りしめた。
たとえユリエルの罪が本物でなくても、そいつが死ぬことで多くの人が救われるならば。そのために、これを使うならば。
審問官の足は、引きずるようながら近くの教会へと向かっていた。
「ただいま、帰ったよ」
「お帰りなさい、あなた」
ドアを開けると、美しい清楚な妻と、似ているが意思の強い目をした娘が迎えてくれた。審問官の、大切な我が家だ。
どんなに外が辛くても、ここだけは自分の楽園だ。
ここにいる妻と娘は、自分の全てを優しく包み込んでくれる。何があってもここだけは守り抜くと決めた、自分の聖域。
……だというのに。
「あなた、今日もお勤めご苦労様。
街中が、あなたの真実に仕える勇気を称えているわ」
「お父様は、本当に素晴らしい方です。
今日も街の方々が花を持ってきてくれて、教会にも何度か持って行ったのですけど……」
少し困ったように言う娘の後ろには、所狭しと花が活けられていた。純真や誠実を花言葉とする、白い花が特に目を引く。
「私もお父様の娘なんだから、正直に誠実に生きることを心掛けなきゃ!」
娘はそう言って純白の花々に囲まれて、くるりと回った。
しかし審問官は、いかめしい顔で戒めるように言った。
「教会のために捧げられた花を、自分のために使うんじゃない。すぐ荷馬車を手配するから、教会に寄贈しなさい」
「……はい」
娘は、少ししゅんとした。
それを見て、審問官は自己嫌悪に襲われた。
今のは、自分がこの花々を遠ざけたくての言葉だ。この汚れない花々が、嘘と罪に汚れた自分を責めているように思えてしまって。
娘は何も悪くないし、以前なら朗らかに笑って許してやれたはずだ。なのに、人に言えない自分のモヤモヤで娘を傷つけて……。
思わず頭を抱える審問官の耳に、妻と娘の会話が聞こえてくる。
「どうしちゃったのかしら……お父様、機嫌が悪いみたい」
「きっと疲れているのよ。例の魔女も倒せていないと聞くし。
あの人は真面目だから、きっとそのことで気に病んでいるんだわ。邪淫のうえ嘘つきなんて、あの人が一番嫌いな悪よ!」
「そっか……いるだけでお父様を苦しめるなんて、何て悪い女なの!
絶対に許せないわ!さっさと死んで神に裁かれるべきよ!」
あの汚れなき聖性の化身のようだった妻と娘が、冤罪で殺されそうになっている元聖女を憎み罵っている。
こんなの、聞きたくもない。
(違う……違うんだ!全ては、私が……!)
審問官は胸が潰れる思いだったが、さりとて本当のことを言える訳もない。
だって本当のことを言ったら、妻と娘は自分を見限るかもしれない。こんなに責任ある神聖な立場なのに、呆れた嘘つきだと。
逆にそうでなくて自分をかばってくれても、それはそれで嫌だ。愛する妻と娘には、そんな風に汚れに屈してほしくない。
何とも難しい二律背反だ。
苦悩する審問官の隣で、妻がしとやかに紫の花を差し出した。
「分かったわ、他の花はみんな教会に持っていく。
でもね、これだけはお守りとして、あなたの側に置いておきたいの。
このツリガネソウの花言葉は、正義と貞節。そしてツルハナナスは真実。教会の鐘がそれらを守るように、きっとあなたを守ってくださるわ」
妻は、どこまでも誠実な笑顔で、胸に手を当ててそう言った。
「大丈夫、今が辛くても、誠実に真実を守っていればきっと報われる。
あなただから、きっと大丈夫」
何よりも誠実に、夫を信じ切った言葉。
それに審問官は、心臓を焼け火箸で刺されるような心地だった。
痛いなんてものではない。今すぐに全身全霊で奇声を上げてここから飛び出したい。この自分を責める花を、めちゃくちゃにむしってかまどにブチ込みたい。
……が、体が動かない。
自分はこんなにも卑しく嘘で世の中を汚してしまっているのに、それでも守りたいこの清らかな女を手放したくない。
自分がどれほど浅ましいか、叩きつけられるようだ。
そんな自分に、もうこの女を愛する資格はないとすら思えてきて……。
「ええい、おまえまで公私混同してどうする!
今すぐ荷馬車を手配してやる!!」
乱暴にそう言い放って、審問官は妻の手を振り払った。
妻は、怯えてどうしていいか分からない顔で震えている。
その姿に、あろうことか自分が判定した時のユリエルが重なった。信じていたものに裏切られ、なぜ自分がとどんなに自分に問うても分からず途方に暮れる姿。
その視線と幻影から逃れるように、審問官は家から飛び出した。
後から追って来る妻子の切なる祈りの声すら、今の審問官にとっては背中に針を刺されるようだった。
花を運ぶ馬車を手配してからも、審問官は日が落ちた街をさまよった。
あんなに守りたかった我が家なのに、どうしても足が向かない。また妻と娘のあの顔を見ると思うと、帰りたくない。
(ああ、どうしてだ……守りきったはずなのに。
どうしてこんなに、苦しいんだよぉ!?)
胸を押さえてうずくまると、暗がりに恨みに染まったユリエルの目が浮かんでくる。
『絶対死んだ方がマシなくらい苦しめてやるから!!』
逃げ切ったはずなのに、ユリエルにあれから直接何かされた訳ではないのに、言われた通りになってしまっている。
一体これは何なんだ。
恐れおののく審問官の後ろから、不意に声がかかった。
「よお、だいぶ参ってんじゃねえか。
真実を伝えただけたぁ思えねえな」
声にならない悲鳴とともに振り向くと、闇に溶け込むように小学生かと思うような小柄な黒装束の少女がいた。
その大きく黒い瞳が、闇のように審問官を引きずり込もうとする。
「なあ、てめえのおかげでよ……ユリエルの奴、ロリクーンにパンツを渡したぞ。
ロリクーンがそれを嗅いでどう判定したかは……てめえ、知ってるから分かるよな?
ユリエルは、てめえに否定された真実を明らかにするためなら、何でもしようとしてる。次は、どんな手でくるんだろうな?
で、どんだけの奴が巻き込まれるんだろうな?」
マリオンが、地獄から伸びた鎖で締め付けるように審問官を責める。
審問官は、本当に心臓を鷲掴みにされたような恐怖を覚えた。
だが、妻子の姿を脳裏に浮かべてがむしゃらに抵抗する。
「うるさい!!貴様、やはり裏切るか!!
貴様がどんな脅しをかけようとユリエルがどんな手を使おうと、私は屈しないぞ!私の大切な家族を守る邪魔をするなら、全て敵……!」
そう叫んで護身用の魔道具を掲げた手を、後ろから強い力で掴まれた。
「見事に恐慌状態になってまあ……それがおまえの本音か。
だがそれで、本当に家族を守れるのかねえ?ずいぶん帰りたくないようだが……その間に枢機卿が手を出さない保証はあるのか?」
鑑定官が、見透かすような目をして後ろに立っていた。
しかし審問官は、それを何とかするより妻子のことを考えてしまった。
自分が帰らないということは、妻子は誰にも守られていない。そしてインボウズは好色で、ユリエルよりずっと簡単に手を伸ばせる位置にいる。
そんな事も気づかず家を空けていた自分が愚かで、涙があふれた。
そんな審問官を見て、鑑定官は呆れたように言った。
「ああ、これじゃまともに反撃もできないな。
なら本題に入らせてもらう。
おまえと教会がいくら嘘を真と叫んでも、俺たちのように何かで気づく奴は必ず出る。真実を探る方法は、神だけのものではないのだから。
そして嘘は、真実よりはるかに守るのが難しい。
その守りが破れた時の覚悟が、おまえにはあるんだろうな?」
言葉もなく震えるばかりの審問官に、さらに大柄なハゲ男が言う。
「俺たちを権力で潰すことは、できるだろう。
だが簡単に全滅させられると思うな!マリオンは逃げの名手だし、俺が殺されれば領主様がすぐさま動く。
それとも、いくら人が巻き込まれて死んでも何食わぬ顔のお前は、そんな事も気にしないでいられるかね?」
ハゲ男は、挑発的に歯をむいてニッと笑った。
奥歯をガチガチ鳴らす審問官の頬を、マリオンの指がすっと撫でる。
「安心しろ、すぐ糾弾したりてめえを殺したりはしねえ。
そんな事すりゃ、俺たちの明日がねえのは分かってるもんで。
けどな、俺たちがユリエルの真実を明かそうとするのは、邪魔すんな。派手な動きはしねえから、ご自慢の事なかれで見逃せよ。
そうしたら……てめえの妻子を他の奴の魔の手から守ってやる!」
審問官は、ただ涙を流してうなずくしかなかった。
うなずかなければ、妻子がどうなるか分かったものではない。ハゲ男と鑑定官は公的に家に来てもおかしくない立場だし、マリオンは暗殺も得意だ。
幸いこいつらは、表立って枢機卿に反抗する訳ではない。ならば枢機卿の支配と二重になっても、隠しきれるだろう。
(ぐっ……くっそおおぉ!
私はただ、守りたいだけなのに……なぜ、こんな!)
闇に消えた三人の気配に安堵することもできず、審問官はただ泣いた。泣きながら、足を引きずるように家に帰った。
どんなに針の筵でも、たった一つの楽園へ。
数日後、審問官はインボウズに会いに行った。
三人のことを告げ口するのではなく、世論を誘導した手柄を主張し、妻子をより安全な総本山に移すために。
幸いと言っていいのか、インボウズは忠実で欠かせぬ駒(特に後ろ暗いこと)に対しては気前よく便宜を図ってくれる。
そうしなければ、好き放題に不正を通せないから。
「……なるほど、総本山で僕のために働きたい、ねえ」
インボウズは、やつれた審問官を見て憎らしいほどの笑みで言った。
「いいよ、気晴らしと新居探しも兼ねて、すぐにでも行っといで。
君、だいぶ疲れてるみたいだし……君みたいな子に倒れられると困るんだよ。イイものつけてあげるから、ちょっと癒されて来なさい」
インボウズは審問官に、チップ代わりに封筒をくれた。
この金で妻子の引っ越し代になるかと思い、帰りながら封筒を開けてみた審問官は……石化したように固まった。
「……は?」
入っていたのは、金などではなかった。
ある意味とても高価だが、この世の汚濁を煮詰めたような下劣なもの。
それはあろうことか、インボウズがこれまで堕としてきた元聖女たちに奉仕させることができる、地下娼館のプレミアムチケットだった。
妻子を守りたい審問官の望みとは、全く逆のもの。
(神よ……どうしろと……)
審問官は見られてはいけない封筒を握りしめ、魂が抜けたように立ち尽くした。
嘘は真実より守るのが難しい、それを守ろうとすればするほどひどい目に遭う、がこの作品のテーマの一つです。
審問官はユリエルの恨みより、自分が抱えてしまった矛盾に苦しむことになりました。
そしてマリオンたちが懸念したように、ユリエルは喉から手が出るほど真実を示す方法を探しています。
次章、新たな仲間とともに与えられたその手とは……。




