06 江郷逢衣は電車に乗る。
エレベーターは一階へと止まる。扉が開いたので、外に出てみると空は燦燦と世界を照らし、一日の始まりを告げている。逢衣はビル入り口に設置されているダストボックスにゴミを入れてそのまま駅へと向かった。
駅へ到着しスマートウォッチに搭載された搭乗券アプリで改札を潜り抜けると、時計は七時三十四分を示していた。丁度電車が来る時刻だったので足を止める事無く乗車する事が出来た。今日の車内は比較的空いており、空間に余裕が出来ていたので逢衣はスマートフォンのニュースアプリを起動すると、一番上から順に記事を読んでいった。
『進化していくアンドロイド:ロボット工学の権威でもある国際電気電子工学特別研究センターのセンター長の入間雄一郎氏(以降、入間氏とする)が手掛けるアンドロイドの試作機が完成した事を発表した。今着手している研究が実現した暁には、従来の人工知能の常識を覆し、新たな世界の幕開けとなるだろう、と入間氏は語る。入間氏は限りなく人間に近い人工知能を作るべく、脳科学の研究にも携わっているそうだ。人間にも引けを取らないとされる人工知能、果たして人類のベストパートナーとなりうるのか――』
次の記事を読もうとスライドしようとした瞬間、突如電車が大きく揺れ、急停止を開始する。もう片方の手は吊り革を掴んでいたので転倒せずに済んだ。しかし、此方へ向かって大きく蹌踉ける少年の姿があった。
このままでは転倒して負傷する恐れがある。逢衣は直ぐに携帯を仕舞うと今にも倒れそうな男の身体を片腕で受け止めると、そのまま足を踏ん張らせて胸元へと引き寄せた。
「……お怪我はありませんか?」
「あっ、う、うん。あ、ありがとう……。わっ! ご、ごめん!」
見た目からして中高生辺りの年齢の少年は今起きている現状が把握し切れていないのかしどろもどろに答えた。そして男は女子高生に抱き寄せられて密着している事に気付くと赤面しながら慌てた様子で逢衣から離れた。
「ごめん? 何故謝るのですか?」
「え!? いや、その、今のって痴漢になるのかなって……」
「チカン……?」
「な、何でもない! 何でもないから! と、とにかくありがとう! さっきのは忘れて!」
この系統の男性は初めて遭遇するパターンだった。此方に目線を合わせようとせず落ち着きに欠けている。大助の様にすぐ怒る様な性質もなく、琢磨の様に穏やかな性質でもない形容し難い存在。例を挙げるとすれば、常に肉食動物から怯えて逃げ回っている兎に該当する。
『ご迷惑をおかけしております。緊急停止信号です。安全確認が済み次第発車致します』
電車内にアナウンスが鳴り響く。暫く電車は動かないようだ。現在の時刻は七時四十三分。朝のホームルーム活動は八時二十五分。遅刻の可能性は非常に低いと判断し、逢衣は記事の続きを読もうとスマートフォンを起動する。先程助けた少年はというと、じっと彼女の制服姿を見ていた。
「その制服にその色のリボンって事は――」
「東京都立殿羊高等学校。普通科。一年二組です」
「クラスも僕と同じなんだね……今頃どうなってるのかな……」
少年は逢衣と同じ高校の、しかもクラスまで同じだと語る。自身と同じく電車に乗って学校に向かっているのかと思いきや、彼は指定された制服ではなく私服を着ている。この恰好で登校すれば門前払いの確率は非常に高い。つまり不登校であると判断出来た。
「学校には行かないのですか?」
「学校ねぇ……行かなきゃいけないんだろうけど今更行ったってねぇ……。行きたいのは山々なんだけど僕は行っちゃいけないっていうか……」
少年は大きな溜息を吐きながら質問に対して答えになっていない事を延々と口走った。登校したい意志は読み取れたが、何か他に理由があって不登校になっていると推測した。逢衣は少年の登校を手助けをするべく情報を集める事にした。
「貴方のお名前、お聞かせ願えますか」
「え!? な、何で急に!?」
「貴方の事を知りたいからです」
「そ、それってどういう意味?」
「言葉通りの意味ですが」
未知のデータは採取して分析する。そして自身をアップデートする。その思考のもと逢衣は少年の本質を探る為に名前を尋ねた。観測対象は何処か誤解しているようだが、まだ未完成の彼女が知る由も無い。
「これって逆ナン? いやいやそんなまさか。でも何で僕の名前を? これは現実? 夢? こんな可愛い子に僕の事を知りたいからって名前を聞くのはそれ以外に有り得ないよね? いやいや落ち着け僕、いくら不幸続きだからってこんなご都合主義が有るワケないって。けどこの機会を逃したら今度いつ会えるのかも――」
「さっきから何を言っているのですか?」
酷く動揺した様子で少年は後ろへ向き、長々と独り言を呟き始めた。 名前を教えてくれるのか否か。それだけを尋ねただけなのにイレギュラーな行為を繰り広げる男に対して逢衣は前方へ回り込んで顔を覗き込んだ。すると少年は素っ頓狂な声と共に身体を跳ね上げた。
「わああっ! ご、ごめん! ぼ、僕の名前だよね! うんうん、教える! 教えるから! 僕は城戸隆司。 君の名前は?」
「江郷逢衣。そう呼ばれています」
「呼ばれてる?」
江郷逢衣という名前は正体を秘匿する為に戸籍を作り、その際に作成されたもの。彼女からすればコードネームみたいなものである。
「アイ。それが私がマスターから授かった名前。江郷逢衣も私のマスターから授かったもう一つの名前です。マスターの指示により後者の方を通称としています」
「あ、あはは。江郷さんって何かこう……、独特な雰囲気してるよね……」
包み隠さず答えたつもりであるが彼女の事情を知らない隆司には如何せん伝わっておらず、愛想笑いでその場を取り繕われた。その表情から分析して意思疎通が不完全なものであると判断出来たが、逢衣にしてみれば何故齟齬が生まれたのか、これまでのデータを元に解析しても判明に至らなかった。
『踏切内で自転車が立往生しておりましたが、安全が確認出来ました。発車します』
――停止していた電車はゆっくりと加速を始める。逢衣に振りかかる試練もまた、城戸隆司の出会いからゆっくりと加速していくのである。