02.芽生えた幼い恋心
その瞬間は、春の芽生えのように美しく、蝉が鳴き始めるように唐突で、秋葉の衣ように鮮やかに、粉雪が舞うように優しく、僕に訪れたのだった。
思えば、もう一年前の話になるのか。
「はい、残飯処理班さん」
今日も今日とて、タッパーに入った肉じゃがは僕の机を温める。今回は何だかさやいんげんの緑が沢山あるように見えた。
彼がさやいんげんが好きだとでも言ったのだろうか?
「いつもいつも、本当にどうも」
「……いつもいつも、本当に嫌みなヤツね、あんたも」
「別に、今に始まった事じゃないでしょ?」
それもそうだね。彼女は僕のそんな返答だけで、本当に愉快そうに笑った。弧を描くリップの塗られた口元を見て、僕も少しだけ笑う。
ああ、今日も彼に会いに行く前にはリップを塗ったんだね。僕相手ではないから、露骨な気合いが入っている様子が顕著で、とても可笑しい。
「僕、本当はお腹いっぱいなんだけどね」
「……ばかひろ。昔から胃袋と皮肉を考える脳細胞だけは四次元なみのくせに」
ほんの一瞬。多分、僕たちくらいに時間を共にしなければ共有しきれない刹那の間に、彼女は微量の悲しみを含ませた。
おっと、いつもとは違うようだ。
いつもなら、ここで机を叩いて猛反発してくるはずだ。沈黙の間ではなく怒りの震えを、嫌みではなく直球の文句を、僕は受け取るはずだった。
その微量の悲しみを肌で感じ取り、僕は次の言葉を選ぶ。良いことか悪いことか、昔から変わらず純粋に幼い彼女の精神は、時として思わぬ勘違いにより傷付くことがあることを、僕はよく承知している。
一体、何があったんだろう。
「……何よ」
「いや、別に」
ここで何かあったのかと根掘り葉掘り聞くのは、僕に酷い結果をもたらすだろう。
親しい仲にも云々とはよく言ったものだ。生憎、準備ができていない心にずけずけと土足で入り込むほど、僕の神経は図太くできてはいない。
こんな時は、黙っているのが適策。
「ばかひろ」
「何?」
口をへの字に結んで不機嫌オーラを撒き散らし始めた彼女は、がたりとイスを引いて僕の前に座った。
「言いたいことははっきり言えばいいじゃない」
ああ、いつの間に君はそんな事を感じられるようになったのかな。少し大人になった彼女を垣間見て、僕は小さく笑った。
「そう?」
「うん」
早く食べろという無言の圧力でもかけているつもりだろうか。彼女は未だフタを外すこともなく僕の机のど真ん中に鎮座したタッパーを、ずいずいっと僕の手元まで押しやった。
彼女の言うとおり、僕の胃袋は他人よりは容量が多いだろうし、幾分かは強靭にできているので、もちろんありがたく頂くことにする。
「一体何があったんですか、お嬢様?」
「何それ」
「あれ?お姫様の方が良かった?」
「もう、ばかひろ!いつからそんなに意地悪になったわけ?」
前は本当に優しかったのにな。
彼女は小さく溜め息をついて僕を見た。僕はにこりと笑って返すだけで、彼女の質問とも文句とも取れる言葉にはスルーの姿勢を示す。
こんなタイミングでその答えを言ってしまうバカがどこにいるというのか。
僕はタッパーのフタを外して、赤い赤いニンジンを箸で摘んだ。何をせずとも甘いニンジンは、見た目以上に彼女の愛を吸い込んで、甘く柔らかくなっているのだろう。
「……なーんにもないのよ。なーんにも」
「へえ」
「いっそ虚しいくらいに、いつも通りだったの」
「うん」
「ばかひろなんかにこの気持ちは分からないんだから」
「そうでしょうとも」
ああ、本当に君はバカだ。その気持ちは君と同じくらい、若しくはそれ以上に理解し、現在進行形で感じているというのに。
しかし、僕はあくまでも君の『ばかひろ』だから、それは言わないでおく。
「ねえ、みさ」
「なーに」
「おいしいよ」
ここに真っ白なごはんがあれば、もっとね。
おどけた調子で伝えてみても、彼女はいつも通り僕を見つめながらも僕を見てはいない。どこか上の空の様子はいつもよりずっと彼女の影を薄くしていて、彼と何かがあったのは最早否定の余地もなさそうだ。
「僕はこの肉じゃが、好きだけど」
「ばかひろ。せんせーが好きになってくれないと意味ないの」
「だろうね」
肉じゃがを『君』に変換して言えたら良いのだけれど。今の僕は、変わらない関係にやきもきしながらも、無理矢理にこの時間を終わらせたいわけでもないから、それはしないでおく。
いつも通りは、そんなに悪いことではないはずだ。
「ごちそうさま」
「うん」
きちんと手を合わせて、箸を片付ける。彼女のタッパーもしっかりとフタをして、両手で手渡す。それを受け取る彼女の方は、随分と乱雑な仕草で、微妙によじれたご機嫌斜め具合がありありとうかがえた。
「……明日こそは!」
「うん。明日も楽しみにしてるよ」
「そこは、頑張ってねでしょ。ばかひろ!」
ガンバッテネ。機械みたいな片言でそう告げると、彼女は怒ったように席を立って意地悪とわめいた。僕に背を向け、たむろする女の子の所へかけていく。
ああ、本当に君はバカだ。きっと、君は頑張ってという言葉の残酷さを知らないのだろう。
必要ないから言わなかっただけであって、ばかだと形容される筋合いはさらさらないのだけれど。
思えば、もう一年前の話になるのか。
恋愛対象にはなり得ない腐れ縁に恋をした。初めて君が女性に見えた。
幼なじみが想い人に変わるとき。
その瞬間は、春の芽生えのように美しく、蝉が鳴き始めるように唐突で、秋葉の衣ように鮮やかに、粉雪が舞うように優しく、僕に訪れたのだった。
どうして僕が意地悪になったか知ってるかい?
それは本当に、幼い幼い恋心。
君にだって、分かるでしょう?