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「水遣者H」

その世界は、手を差し伸べる娘たちの物語。


だけれど、明末良音は納得できていなくて。


それでも、物語を変えるしかない。


確かに、ひずみは溜まっていく。

                    ―*―

 「明末さん、結局、今までの4つの世界は、明末さんの想像の中だったってことですか?」

 「…それだけ?」

 「…想像の中の世界であっても、ひとたびリアリティを持てば、それが現実と区別できないから、実在する世界となる…?」

 「そうね…おおよそ正解だけど、そもそも、『ゲーム』がなんだったか、覚えてはいるかしら?

 『私の能力の正体を解明すること』。

 貴方が私と共に入った世界の謎は、その一端ではあるけど、全てじゃない。」

 「…それは…」

 「あと一歩、のようね…まさか私があんなにも喋り過ぎるだなんて、私自身思わなかったし、妥当なところかしら。」

 

                    ー*ー

 私はきっと、甘くなってしまっている。

 もう社会も人類も優しさも信じまいと、いっそすべてを貶めようとすら思っていたのに。

 完璧主義も性悪説も、すっかりくすんでしまった気がする。

 それもこれも、全部、材村君のせい。

 いや、材村君だってわかってるはずー「どれだけ私たちが介入したところで、何もかもうまくいくわけじゃない」と。

 確かに、幸福の総量は保存しない。

 例えば、平和な2カ国があって、戦争が起きれば、敗戦国の幸運が戦勝国の幸運に移る…というように、幸運の総量は保存し、幸福を誰かが望めばどこかでそのしっぺ返しを受ける人がいてひずみが不幸として現れる。けれどもそこには作為が介在しない。

 幸福の総量を押し上げることは、確かにできる。

 だけど。

 …例え、私たちが介入の限りを尽くして幸福を押し上げても、それで何もかも幸福にできるわけではない。

 そう。

 仮に私が「あらゆる世界のすべてを作り直すアルゴリズム」を手に入れたとしてもーそんなアルゴリズムはありえないけどーそれで世界のすべてを幸せにできるわけもない。

 戦争をなくしても犯罪はなくならず、犯罪をなくしても虐待はなくならず、虐待をなくしてもいじめはなくならず…

 …最終的バグとして、個人個人の個性というものがある。

 世界のリソースは限られ、利害は対立し、すべての需要を満たせるわけもなく、「○○があってほしい」という嗜好と「○○があるのは許せない」という嗜好がぶつかり合う。

 すべての人に不満なく幸せでいてほしい。だからこそ、そんなことが不可能なおよそ世界というものにはすっかり絶望していて。

 すべてを幸せにすること、万人を満たすことができない「世界」という仕組み。それは、「本質的には誰かの不幸を前提にして成り立っている、不特定無数を踏みつけて成り立つシステム」に過ぎない。

 そんな仕組み、要らない。

 誰かの不幸せを土台に幸せを確立しないといけないような社会なら、世界なら。

 幸せの総量を押し上げ続けても、100/100には決してならないのなら。

 私は、そこまでして生きたくないし、誰かを踏みにじって幸せになっている人すべてを尊重する気はとても起きない。

 ー何も、いじめがどうとかではなくて。

 例えば安い服なんかは、途上国での奴隷同然の労働で。

 例えば普通に生活していたら、二酸化炭素を排出して、それは太平洋の島国の人々を海に沈めているのとおんなじで。

 そんな理不尽を、私は認められない。

 それに、そんな理不尽が間違いなくあるはずなのに見なかったふりをして「幸せに暮らしましたとさ、ちゃんちゃん」で済ませる、物語と言う世界の欺瞞にも、耐えられない。

 100にすることが決してできないのなら、私はいっそ、すべてを0の段階にまで引きずり落して、やがては虚無に返してしまいたい。

 ーそう、思っていたのに。

 目の前の登場人物の笑顔を見て、満足してしまう私がいて。

 そんなの欺瞞だ。私がすべきはデリートだけだ…とわかっているのに。

 「喋り過ぎているし、妥協し過ぎているし、初心を忘れ過ぎているし…」

 なんでかって?

 彼は、あまりにも純粋で、分かりやすすぎて。

 「…材村君、貴方のせいよ…っ!」


                    ー”世界H”ー

 「いたぞ!捕まえろ!」

 叫ぶ警官隊。

 「ちっ、見つかったか!

 おいてめえら、とっととトンズラすんぞ!はよせいやこんクソボケがァ!」

 威嚇射撃を受けた時にはすでに、4人組で頬かむりをした盗賊団は走り出していた。

 「撃ち返せ!ブツのあるところを突き止められちゃ商売あがったりなんだよォ!」

 リーダーと見られる眼光鋭い男自らが、アサルトライフルを振り回しデタラメに乱射する。

 倉庫街にばらまかれた銃弾はあっちこっちで跳弾し、慌てて警官隊は建物の影に逃げ込んだ。

 銃声が止んだ時、もはや誰も、盗賊団を見つけることはできなかった。

 

                    ー”世界H”ー

 海底都市「イスファハーン」。

 大陸棚の上に立つ巨大な透明ドームは、今日も数十万人を包み、海上に露出する頂部から暖かな太陽の光を受けている。

 中央部に立ち並ぶ高層ビル群、そしてその周囲の低層広面積建物群。

 「彼女」が見つかったのは、その、工場などが立ち並ぶ低層群と居住区である高層群の境目あたりであった。

 「ねえ、何してるの?」

 少女に声を掛けられ、すっかりやつれて目に隈が深く刻まれた彼女は、虚ろな目で少女を見上げた。

 その時になって初めて、少女は、声をかけた相手が尋常な人間ではないことに気が付いた。

 悪魔のように細長い両耳。

 足首まである白いワンピースと、彼女がへたり込む植え込みの葉々の合間から、青い鱗の肌が覗いている。

 「に、んぎょ…?」

 その呟きを聞き、人魚はビクッと怯えを見せた。

 「なんで、『中』にいるの…?」

 「…え?」

 コテッと、人魚は驚きと恐怖と警戒の混じった表情で、白い上品かつ涼しげなドレスに身を包んだ少女を見上げて、首を傾げー

 ーそして、くたりと倒れこんだ。

 「ちょ、ちょっとアンタ!?」

 抱え上げて身体を支え上げようとした少女だったが、思いのほか人魚の身体は重く、一緒になって倒れこむ。

 「…爺やを、呼ばないと…」


                    ー”世界H”ー

 「…ここは?」

 私は、うっすら目を開けて…

 …飛び起きました。

 「どこ!?」

 「ちょっとアンタ!寝てなきゃダメよ!」

 「うわっ!

 離して!

 離してくださいっ!

 ここから出してっ!」

 押さえつけてきた誰かを押しのけ、私はー

 ーあれっ、身体に力が…

 「お嬢様!大丈夫ですか!?」

 「爺や、私は大丈夫よ。

 それよりアンタ、2日も寝てたんだから!身体だって傷だらけだったし!」

 …え?

 「だいたい、足ないんだから、どうにもならないでしょ…」

 …でも、逃げないと…

 …力が入らない…

 「…やっぱり、何かあったのよね…?」

 …もしかして、この女の子は、何も、知らない…?

 「人魚なんて、いくらなんでも街中に転がっているはずないし、それに乗り物もなく、飛び跳ねてきたみたいに尾びれがボロボロだった…

 誘拐されたの?

 ねえ、教えて?」

 両側のほっぺたを、ぎゅっと押さえられて、顔を近付けられて。

 「お嬢様、親切なさるのはいいですが、ぶしつけが過ぎますぞ。下品でございます。」

 「それどころじゃないでしょ?

 私たちは、貴族なんだから。

 ノーブレス・オブリージュ。困ってる人は、助けないと。」

 …信じて、いいのかな?

 どうせ、ここから逃げれるわけでもないし。

 賭けても、もう、何も失わないし。

 「話、聞いてください…」


                   ー”世界H”ー

 「私たちの一族は、ずっと南の海、サンゴ礁で、暮らしてきました。

 けれど、3週間ほど前に、巨大な空飛ぶクジラがやってきて、そうしたら、みんな痺れてしまって。

 …一人残らず、連れ去られてしまったんです。」

 父も、母も、おばあちゃんも、妹も…と泣く人魚を、私は見てられなかった。

 「…ずっと檻に入れられてたけど、1週間前、檻から出されて、移動させられて…

 …その時に、なんかすごい走るのから落っこちて、なんとか跳ねて逃げたけど、力尽きて…」

 「…そうだったのね…」

 …許せない。

 「私が。」

 この、夏海伯爵家当主の、私が。

 「この夏海姫乃なつかわひなのが、栄誉と爵号に賭けて、アンタの家族を救い出して見せるわ!

 アンタ、名前は?」

 「は、はい…

 クリスティアナ・アンデルセンって言います!」


                    ー”世界H”ー

 「おい!

 貴様、娘をどこへやった!?」

 「…知りませんよ…」

 床にまき散らされた、血に濡れた鱗。その上で、妙齢の女性人魚が倒れ伏し、鞭を振るわれていた。

 「だいたい、外と連絡も取れないし、私たちは陸上じゃ歩けないんですから…」

 元気であればさぞ妖艶な色気で周囲を魅了しただろうが、ボロボロであってはただただ哀れを誘うばかり。

 「ならどこ行ったって言うんだ!

 どうせ、『祈り』でなんとかしやがったんだろ!

 きりきり吐きやが…いたっ!何すんだてめえ!

 …!?」

 赤くシミができた鞭を後ろに向かって振るおうとして、男は青ざめた。

 「お、親分…」 

 「お前、何してんだ?

 そいつはうちの商品なんだぞ!」 

 ガタイのいい、頬に三筋の切り傷が深く刻まれたおっさんが、鞭を奪って引きちぎりながら重々しく口にする。

 「傷つけて死んじまったら鮮度が落ちるしもう採血できなくなるんだ。

 そうなったらてめえ、わあってるだろうなぁ?」

 「へ、へえもちろんでさぁ、親分!」

 「俺たちにだって、カネだけじゃねえ、利益が手に入るんだ。

 分け前が一杯あれば、それで俺たちは無敵になれる。

 忘れんなよ?そいつは生かさず殺さずで、無限の富になるんだ。」

 「…んまぁ、難しいこと良くわかんねけど、一生ついていきやす、親分っ!」

 よろしい、と「親分」と呼ばれた男が歩き去ろうとしー

 ーそこへ、ひょろながの男が小走りにやってきた。

 「親分、2つ、お耳に入れたいことが。」

 「なんだ?」

 「客が話がしたいって言ってきたのと、あと、目撃情報ですぜ。」

 「娘人魚か。

 思春期のころ、結婚できる年齢でフェロモンが出ててまだ処女の人魚が、一番美味しいからな。

 どこで見つかった?」

 「それが、夏海家に保護されたてえ話で…」

 「ちっ、伯爵家か…

 いやでも、夏海家の当主って、年端もいかねえガキだったかな。」

 「カ、カチコミですかい親分…」

 「こいつさえ終わりゃ俺たちは無敵なんだ、貴族様恐れたって仕方ねえ。

 またなんかわかったら教えろ。俺は客のとこ行く。」

 ズカズカと、盗賊の親分は歩き去っていった。


                    ー”世界H”ー

 「わかっているんだろうな?

 血の量も質も、契約に届いてないんだぞ。

 いいか、我々が官憲の捜査を抑えるにも限界がある。

 特に、娘の血はどうした?」

 「今回収中だ。

 うわさにゃ夏海伯爵家がパクったって聞いたが、てめえらじゃねえだろうな?

 おんなじ貴族様どうしで不老不死のクスリを独占して、俺たち下々にはなんも寄こさねえつもりだろ。」

 「そんなことがあるか。

 夏海姫乃の両親なんて死に損だろう、あんな貴族ノーブレス義務オブリージュなんて一銭にもならないものに馬鹿正直で。」

 「ふん。

 ま、欲望に正直な奴は嫌いじゃねーぜ。自分にウソをつかねえからな。

 大丈夫、娘人魚の血も全部、回収する。

 だから、だ。

 分け前はカネだけじゃなく、寄こせよ?

 俺たちだけでいいなら、人魚を殺して肉を喰っちまえばいいんだ。不老不死、絶対に死なない最強の身体になるには、それだけでいい。」

 「ああ、知っているとも。

 人魚の血から、肉を直接食べるのと同じだけ、いやそれ以上の不老不死・肉体強化を得るクスリを抽出する。

 技術も初期投資も膨大に必要だが、既に生産には成功しているし、量産ラインを動かし始めれば、人魚を生かし続ける限りいつまでもクスリを生産し、売りさばくことができる。特に中途半端なものを売ることで、生き続けることへの執着を覚えた者どもは永久に卸元である我々に逆らえない。

 分け前は忘れないよ。キミたちが最強になれるだけのクスリをやろう。」

 「早くしろよ。『天罰』の時戦うのは誰かわかってんだろうな?」

 

                    ー”世界H”ー

 「お嬢様、そもそも、人魚を捕獲するなどという大それたことができましょうか?」

 「…『天罰』でしょう?

 でも、一族まとめて、海中から引き離せば、人魚は水に祈ることはできない。もしそれができるのなら、彼女だって戦えたはずよ。

 だから、『天罰』について考えてはいないはず。」

 年端もいかない、とまでは言われなくても、15,6ほどでしかない少女に過ぎない夏海だったが、貴族であるというだけではない、親を早くに失くした重責が醸し出す憂いを秘めた表情で足を組み、すーすーとベッドの上で眠る人魚を見下ろしていた。

 「…それでも、襲撃の時に取り逃がせば。」

 守り役として、100人弱に登る家臣たちを束ねる家令長としてずっと夏海に付き従ってきた爺やが、脇で重々しく口にする。

 「そうね。

 人魚は不老不死を与えるとされ、その肉を食べることで強健となり若返ることができると言われている。きっとそれで狙われたんでしょうけど、一方で、水に祈って『天罰』って伝えられるほどの奇跡を呼び起こす。

 第一撃で制圧できなきゃ、しっぺ返しを受けるし、にもかかわらず生かし続けているのは…」

 すぐに肉にしなければ、逃げられた後で海底都市「イスファハーン」ごと吹き飛ばさないとも限らないのだ。よっぽどの理由があるに違いない。

 「ろくでもない理由なのは確かでしょうが、それが何であれ、逃げた一名がいるとなれば決定的な危険要素でしょう。

 バレれば、犯人は必ず…」

 「わかっているわよね?」

 「しかし、お嬢様!」

 決然とした表情の夏海に、険しい声と顔で、爺やは叫んだ。

 むくっと、驚いた感じで、人魚が起き上がる。

 「人魚をさらい、官憲からかくまう。

 賊の犯行でしょうが、不良貴族と結びついているのは確実ですぞ!

 夏海伯爵家は家格こそ高いですが、家勢は落ちているし、御存じでしょうが御父上と御母上が海難事故救助で命を落とされてからは、没落しかけております。」

 「名誉の没落よ…」

 「不良貴族が本気で傭兵を雇ったなら、イスファハーン建国以来773年の夏海伯爵家の歴史も、終わってしまいます。それでなくても騒擾を起こせば、婿に入ってくれる貴族を見つけるのはますます難しく…」

 「家名を汚して存続させるくらいなら、私は私の代で夏海伯爵家の歴史に幕を下ろす!」

 「なりませぬ!

 御両親から御預かりしたお嬢様に傷が付けられるようなこと、まして裏世界へ流されるようなこともあるやもしれぬと思えば、なりませぬ!」

 白熱してきた口論に、怯えを見せながら、人魚がおずおずと呟く。

 「私が…

 私が、いなくなれば、いいのですか…?」

 「…え?」

 ギョッと、夏海も爺やも、人魚の方を向いたーそれまで、すぐそばで彼女が起きたことにすら気づけなかったくらい、2人は真剣だったのだ。

 「そんなことは…」

 「私が、何も祈らないって約束して、いなくなれば…」

 「そんなの、絶対ダメ。

 …爺やが、私のことを大切に思ってくれているのは知ってる。

 だけど。

 私が、私が守るって決めたの!」

 高椅子から飛び降りて、人魚クリスティアナに抱き着き。

 「…どうして?

 あなたは人間で、会ったばっかりで…」

 「そういう性分なんだから、仕方ないじゃない?

 懐に飛び込んできたアンタを、私は放り出せない。私たち伯爵家はそんな人のために今までいたんだし、私は出会ってしまった、そして一度守ったアンタが、何より守るべきもの守り続けるべきものなの。」

 「…でも。」

 「安心して。

 アンタを守れない私は、私じゃないから。」

 何も不平を言わせまいとするように、夏海はクリスティアナの頭を抱き寄せる。

 「はぁ…

 …お嬢様がそこまで言うのなら、爺やも覚悟を固めますかな。」

 晴れ晴れとした表情で、爺やがうなずいた。


                     ー”世界H”ー

 夏海伯爵家は、さすがイスファハーンとともに歴史を重ねてきただけあり、郊外で庭園を囲むコの字型の豪勢な3階建て屋敷を誇っている。

 しかし、衰退甚だしき悲哀、警備をいくら入念にしようと頑張っても、200メートル四方の敷地に目を行き届かせることすらおぼつかない。

 ーだから、爺やは最初から、屋敷の警備を捨てた。

 賊が伯爵邸に侵入した時、屋敷は完全に静まり返って、人間の気配を感じることすらできなかった。

 「どこだ!?」

 「親分、もう逃げちまったかもしれませんぜ…」

 「いや…

 …匂うな。下だ。」

 数十人からなる盗賊たちが、ドタドタと、絨毯を土足で汚して廊下を走り、階段を駆け下りていく。

 「散らばれ、地下室への入り口を捜すんだ!」

 一度1階は調べた。しかし、地下階への入り口など見当たらなかった。だから盗賊たちは床板を叩き、壁にかかる絵画をひっくり返し、地下地下地下と呟きながら荒らしまわった。

 「親分、音も響かねえし、ほんとにあるんですかい?」

 「うるせえ、俺の鼻を疑うんか?」

 そう言いながら親分も蛮刀を壁に刺して回っている。

 「でも、このままじゃ夜明けちゃうっすよ!?」

 「焦り過ぎだ、バカもんが!

 …まあ、粘らせても不利、か…

 おい、庭木の枝を刈ってきやがれ!」

 「えぇっ」

 「つべこべ言いやがんなさっさとしろぉ!」

 直接怒鳴りつけられた数人の部下が、あわあわと逃げるように走り出し、しばらくして両手いっぱいの木の束を手に戻ってきた。

 「よし。

 こいつに火をつけて、叫べ。

 『燃やせ!全部燃やしちまえ!』ってな!」


                    ー”世界H”ー

 「燃やせ!燃やせ!全部燃えちまえ!」

 その叫びとともに、天井の隙間から白煙が垂れてきた。

 「お嬢様。」

 「ブラフだって言うんでしょ、わかってる。

 でも、でも…」

 「爺やだって、見ていられませんですな…

 …でも、ここで籠っていなければ、勝ち目はありませなんだ。」 

 「…そうよね…」

 車椅子にクリスティアナを載せ、60人ほどの若くて元気な家令にぐるり円陣を組んで囲ませ。

 夏海姫乃自身、レイピアの透き通るように綺麗な細い刃をしならせ、落ち着かない様子でじっと天井を見上げる。

 「どれだけ、時間を稼げるか…」

 ーその時、だった。

 ゴホッ

 誰もが、ぎょっと振り向いた。

 「お嬢様すみませ、ゴホッ、ゲホゲホッ!」

 ーメイドの1人が、なぎなたを地面に下ろし、両手で音を抑えようと口をふさぎながらしきりに咳をしていた。

 「喘息…っ!」

 空気の入れ替えが難しい上にたまった埃が自然に吹き去られることのない海底都市では、それゆえ喘息持ちは十数%、一説によれば20%を占めると言われている。責めることはできなかった。

 完全に音を抑えることは出来ない。それに、いつまでも煙の降りてくる場所にいさせるわけにもいかない。

 ドタドタと真上へ迫る足音を聞いて、一同は覚悟を決め。

 「半分はお嬢様と人魚様の守りを。

 あとは、爺やと打って出ますぞ!」

 「「「「「おう!!!!!」」」」」

 叫び声の中で、爺やが階段脇のボタンを押した。

 ドタンと、大きな音がして、暗い地下室に明かりがさした。


                    ー”世界H”ー

 「壁に、穴が空いて…!?」

 「クソッ、そういうことか!

 どうして地下室が見つからないのかと思ったが…

 奴ら、壁を分厚くしてそこに階段の入り口を隠して、地下室の本体は庭園の下か!」

 親分は考えたーもし、地下室が、貴人が逃げ隠れすることを前提に建設されて隠蔽されているのなら、コの字型をした建物のどこからでも逃げ込めてどこからも建物の方へうって出られる、袋のネズミにならない仕掛けになっているはずだ。いや、それどころか、庭園の下の地下室へ逃げ込みやすいように屋敷がコの字型に作られた可能性もある。

 「3方向を全部固めろ!いいか!取り逃がすんじゃねえぞ囲え!」

 盗賊たちの一部がガヤガヤ蛮刀を持って庭園に向いた壁際に散らばっていく中で、親分が向き合う壁の穴の中から、いきなりハルバードが突き出された。

 「おっと、危うく砕いちまうとこだったじゃねえか…」

 「あなたこそ、危うく斬り殺してしまうところでしたよ…?」

 つぎはぎだらけのマントの盗賊の親分と、モノクルにフロックコードの家令の爺やが、蛮刀とハルバードを手ににらみ合い、そして互いに一歩引き、刃を突き出した。


                    ー”世界H”ー

 「時間は…」

 まだ3時。

 …作戦の要諦は、一度の迎撃で賊に攻撃意欲を失わせるところにある。何度も襲われたら、我が伯爵家は保たない。

 周囲・一般人の目が厳しくなり防ぎきれなくなる朝までに陥落させられないと思わせるーそれは既に失敗した。地下室の場所が早くに割れたからには、賊に大損害を与えて再襲撃を躊躇させるしかない。

 「地下への出入り口を守る。

 私たちも、闘うわよ!」

 「「「「「はい!」」」」」

 実戦なんて初めてで、怖くて、手は震えるけど。

 「クリスティアナ」

 「は、はい…」

 「絶対、守るから。」

 「はい!待ってます!」

 「いい返事ね!

 侍女1番隊、付いてきなさいっ!」


                    ー”世界H”ー

 壁を厚くして階段を仕込むくらいなのだ。

 伯爵家邸は、知らなければ存在することすら気づけないような、認知の隙をついたトラップに溢れていた。

 隠し扉や階段、錯視通路で、巧みに盗賊は誘導されていく。

 あっという間に、屋敷中が戦場になった。

 「ちっ、バラバラに分断されちまったじゃねえか…

 おい、相手が素人だからって、逆に囲まれちゃおしめえだ。

 頭を、当主を押さえやがれ!そうすりゃ全部勝ちだ!」

 

                    ー”世界H”ー

 「お嬢様のところへは、行かせませんぞ!」

 私の目の前で、爺やがつばぜり合いをしている。

 そして、後からも多数の走る音…この品の無さは、私の家令ではない…!

 「お嬢様、お逃げください!」

 「できないわ!この階段の向こうは地下室よ!」

 2番隊はおばさんの集団と言っていい。彼女らではクリスティアナを守り切れない。 

 「ヘッヘーイ!見つけたぜクソガキガァ!」

 「散々てこずらせやがって!落とし前付けてやるぜ…」

 あからさまに邪なことを考えている、蛮刀の集団。

 「っ…」

 「お嬢様、お下がりくださいませ。ここは、私たちが食い止めます!」

 「…任せたわよ。」

 私は、階段を駆け下りた。


                    ー”世界H”ー

 「…もはや、これまで、ですかな…!」

 「意外に長生きしたじゃねえかクソジジイ…!」

 すげえバックジャンプで、ジイサンが俺から離れる。そして、穴ん中に飛び込みやがった。

 「はっ、逃げたって袋のネズミだっての。

 おい、ケガしてねえ奴だけついてこい。

 クソガキもクソジジイも、隠れ鬼のお時間はおしまいだぜ…」

 ぶっつぶす!

 うっとうしいバリケードなんか作りやがって、時間稼ぎにもなってねえんだよ!

 「オラァ!!!」

 ガッシャ―ン!!!

 

                     ー”世界H”ー

 「よしっ!」

 全員が、手を叩いたり握ったり、飛び跳ねたり、それぞれのやり方で静かに歓びを表した。

 さんざんにてこずらせて、そしてその末に、地下室に誘い込むー「守り切れなかった」と見せかけて。

 そして、3つの地下室入り口に集まり「やっと勝利できる」と思って地下室に入ってきた瞬間に、地下室と1階廊下に仕掛けた吊り天井を一斉に落下させる。

 「おもりは外したから死にはしないでしょうけど、『次はない』ことは、わかってくれるかしらね!」

 屋上で、小さな高笑いが、朝焼けに溶けていった。


                    ー”世界H”ー

 「イスファハーン市民の皆様にお伝えします。

 南方の海上から発達しつつ北上を続けている熱帯低気圧第24号『ルティーヤー』は、なおも勢力の拡大を続け、中心低気圧は約800ヘクトパスカル、また推定最大瞬間風速は秒速124メートルと、歴史的災害になることが明白となっています。

 イスファハーン市国自治評議会は本低気圧を『人魚の天罰』の可能性が高いと認定しました。

 本日11時の迎撃艦隊出撃以後、すべての市外海上への出航は禁止され、都市ドームは閉鎖されます。

 出航中の全船は、本日10時までの帰港を命じられます。

 以上、イスファハーン国営放送局よりお伝えいたしました。」


                    ー”世界H”ー

 「案の定、来やがったな…」

 人魚を水に祝って「天罰」を起こす前に一網打尽にするにしても、親戚縁戚すべてを一網打尽にできるとは思えねえ。

 「おい、貴様。 

 娘人魚はどうなった?」

 「ちっ…」

 俺は、忌々しいあの屋敷を指さした。

 「この前はクッソうぜえことしやがって…」

 「…まさか、勝てなかったのかね?」

 「あんなクッソきたねえ手ばっかのからくり屋敷もう行きたくねえよ。」

 俺も左腕を折っちまったし、吊り天井やらなんやかんやのせいで家来どももけがだらけだ。ゴメン被るね。

 「疑獄でもなんでも仕掛けやがれ。」

 「…まったく、あのプライドだけはいっちょまえの骨董品伯爵家が…

 とりあえず、約束のぶんのクスリだ。不老不死の妙薬がこれだけあれば、絶対に傷を負うことも死ぬこともない、最凶の身体になれるだろう。

 粉になってるから、水に溶かして飲むなり打つなりするんだな。」

 「ふん、ありがとよ。」

 「契約通り、闘ってくれるんだろうな?」

 「ああ。

 艦隊が人魚と潰しあってる間に人魚の力で無敵に変身して人魚を殴って、あとは艦隊が復活する前にトンズラだ。それでええんだろ?」

 「頼んだよ。」


                    ー”世界H”ー

 「人間どもよ。

 気ままに泳ぐことのできない罪人たちよ。

 我らに同胞を返し給え。」

 優雅に、海面に首を出したのは、40体ほどの人魚だ。男女は同数、どれも人間と同じくらいつまり大人で、頭に兜をかぶり両手に三叉槍を一本ずつ握る兵士姿で、激しく渦巻き海面をかき混ぜる巨大な雷雲を背にしている。

 「第一艦隊、突進。 

 第二艦隊、鶴翼に開け。 

 潜水艦隊、深度250、人魚の潜航深度より深くしろ。

 戦闘開始ぃ!」

 一方で、イスファハーン市を収める巨大な透明ドームを背に、ロケットランチャーを前部甲板に埋め込んだボート型の小型艦8隻、前後に3連装砲を1基ずつ搭載した大型艦が2隻、そして衝角ラムを備えた潜水艦が水中に3隻、猛波に揺さぶられている。

 最初に、左右にわかれた大型艦から砲撃がなされ、花火のように開いた火の粉が人魚たちが顔をのぞかせる海面に落下、海面を炎で包み込んだ。

 「もはや、奴らに交渉のつもりはないようだな。」

 水中でも会話できる人魚たちは、怒りをあらわにして両手を合わせる。

 「「「「「祈れ」」」」」

 そこへ、小型艦が突進しながら発射したロケット弾が次々と無数に墜落し、海中へ潜り。

 下からは、潜水艦が発射した誘導魚雷が迫る。

 ー万事休すかー

 そして、上からの火の消えたロケットと下からのプロペラの止まった魚雷が、いっせいに起爆した。

 巨大な爆発が、海水を圧力差によって水と水蒸気に分けて真っ白に泡立たせ、人魚の群れを包み込む。

 海面が大きく膨れ上がった。

 「やったか!?」

 直後。

 小型艦たちのすぐ下の海面が、大きくへこんだ。

 海面ごと海抜マイナス50メートルほどまで引きずり込まれ、そして、周りの「海水の壁」が、崩壊する。

 一瞬にして小型艦群が消滅し、花火砲弾が生み出した火の海も、荒くなった波によって消化され。

 「ふん。 

 このような小手先の小細工で、我らに海においてかなうとでも思ったか!

 …むっ?」


                    ー”世界H”ー

 人魚の群れと迎撃艦隊が戦闘している、その反対側で。

 イスファハーン海底ドームの最頂部、海面に接している辺りの出入口につくられた長い桟橋の先端に、100人にも上ろうかと言う盗賊集団が集結していた。 

 「ふん。

 誰があんなおっかないものと戦うかよ。」

 南に見える、水平線を海面から天空まで埋め尽くし渦巻く黒雲をひとにらみ、親分は笑い捨て。

 「出航だ!」

 盗賊衆はまたたく間に、鉄甲板で甲板から艦底まで覆われた丸っこくも細長いタンブルホーム型快速船に姿を消し。

 「アバヨ!」

 水しぶきを上げて、フネは雲が星空を隠し始めている北の水平線めがけて荒い海を飛ぶように去っていく。

 「おい!

 話が違うじゃないか!」

 桟橋で叫ぶ取引相手の男の姿を双眼鏡で認めて、親分は一言「見送りありがとよ!」と叫びー

 ー次の瞬間、桟橋を洗う巨大な高波が、男を海中へ連れ去った。

 「ひやひやすんぜ…人魚はともかく、天気と戦うなんてありえねえよ。

 それにま、大量に人魚の血のクスリも手に入ったし。

 コイツを薄めて売れば大儲け」

 ー親分は、その言葉を最後まで言い切ることは出来なかった。

 両側から突如出現した巨大な掌のような波が、鉄甲船をペシャンコに叩き潰したからであるー

 結局閉じられなかったドーム出入り口から、海水が、海底都市へと降り注ぎ始めた。それは、水密構造で作られたイスファハーン773年の歴史初めての、雨だった。


                    ー”世界H”ー

 滅びの、雨…

 「…どうして?

 ドームの屋根は、何人たりとも開けてはならないはず。それに、水密は厳重を極めて、破れるなんてありえないって…

 さてはどっかのバカがコネで無理矢理開けさせたか…

 爺や、出入口を閉じ直すまでどれくらいかかりそうって聞いたの?」

 「それがですなお嬢様。

 すでに艦隊は壊滅、人魚たちはあの出入口へ攻撃を行っており、修復も脱出も不可能な状態です。」

 海水の流入を止めることは不可能、と。

 「この街は、おしまいね…」

 「…ですな…」

 「地下室に全遺産を隠して水密して。

 せめて、歴史的な遺産だけでも、誇りに賭けて守り抜きなさい。」

 「承知、いたしました…

 …お嬢様、我ら家令団一同、最期までお供いたします。」

 …そうするしか、ないでしょうに…


                    ー”世界H”ー

 水が、すべてを潤していきます。

 母なる海に、すべてが帰ろうとしています。

 「おねえちゃん!」「クリス!」「娘よ!」

 「みんな…

 待って!今開ける!」

 もう、2階までが、海の中に消えました。

 ドームの天井はひび割れてて、どんどん水かさの増す速度は速くなっています。

 もう、姫乃のいるお屋敷も、数分で3階の屋上まで水没するのでしょう。

 カチャリ。

 「クリス、ありがとう…

 ちょ、ちょっと?」

 「おねえちゃん、どこ行くの…?」

 「ごめん、ママ、パパ。

 鍵は渡すから、他のみんなも牢屋から解放してあげて。

 待っていれば、全部沈んで、外に、海に出られるようになるから!」

 「娘よ、お前、何をする気だ…!?」

 「私、行かないと!

 助けたい人が、いるの!」

 「…そうか。

 行って来いよ!」

 「行きなさい、クリス。」

 「おねえちゃん…?がんばって!」

 道も家も水面の下へ呑み込まれていく中、私は、必死に、泳ぎ出しました。

 

                    ー”世界H”ー

 道も家も水面の下へ呑み込まれていくのを、私は、呆然と、見下ろしていた。

 …いや、見下ろしてなんかいない。だって、すでに腰まで浸かってしまっているから。

 「…来ちゃったのね。」

 後ろから迫る波音。でも、私は振り向かない。

 「はい。

 私は、あなただけでも、助けたい。

 私と、来てください。」

 「いえ、それはできないわ。」

 家令の皆は、無様を晒す前に潔く自決して、遺るのは私だけ。それは、私がこの街の終焉を、なるべく見届けたいから。

 「家族も、理解してくれました。

 あなた一人くらい、助け出すことは出来るんです。

 私の方を、向いてください!」

 ドン!と、爆発音が響くードーム頂部出入口につながる高層ビル群が爆発、崩壊していた。きっと、人魚の攻撃で出られそうにない中水面がちゃくちゃくと上がってくるのをみて絶望した誰かが、ヤケになったんだと思う。

 私は、もう胸まで浸かって動きにくい中で、そっと後ろへ向き直ったー

 ークリスティアナが、泣いていた。

 それでも、私は。

 「逃げることは、できない。

 伯爵だから、街を見捨てては置けない。

 運命を、ともにするわ。」

 身体が重いのは、水中で肩までじっとり水を吸ったドレスのせいか、それとも、死ぬのが怖い私の心のせいか。

 それでも私は、レイピアを抜いた。

 

              ー”世界H”ー

 「逃げることは、できない。

 伯爵だから、街を見捨てては置けない。

 運命を、ともにするわ。」

 …そう言って、姫乃は。

 私が助けにきた、私を助けてくれた、私の大事な人はー

 ーレイピアを胸元に突き付けました。

 「姫乃っ!」

 「絶対に、私は生き残ったりしない!

 この街を作り、この街、イスファハーンと共にあった夏海伯爵家は、最期の時だって、海底都市と運命を共にするのだから!」

 …こんなの、助けられるわけない。

 「誰か、助けてあげて…

 姫乃を…」

 私は、耐えきれなくなって、海中に潜り。

 姫乃を、見上げる。

 水上から水中にあるのを見下ろした時は輪郭がぼやけてよくわからなかったレイピアの細い刀身が、海面を背景に見上げられて、くっきり見えました。

 …誰にも、助けられない。

 海の中から見上げた世界は、真実を映すから。

 …姫乃に助けられる気がないのに、誰にも、助けられるわけない。

 「誰にも、できないなら。

 誰かを助けることばかりの姫乃を、誰も助ける運命にないのなら、私が。」

 私が、しないと。

 私しか、できないんだから。

 できなくても、やるしかない!

 「水よ。」

 お願いします…

 …私の祈りを、聞いて!


           ー”世界H”ー

 青空。

 夏海姫乃は、そっと、両目を開けた。

 「…ここは、天国?」

 さっきまでは、闇夜を包む暗雲、暴風雨を、透明なドーム越しに見ていた気がするのに。

 「いいえ。

 私たちの、国です。」

 頭を持ち上げて、きょろきょろと見渡し、四方八方の水平線と、そして右の波間にかすかに見える海底都市てっぺんの残骸を見つめ。

 さわさわと身体を触ろうとして、べったべたに濡れているのに気づき、そっとため息をついて。

 「そう、私、救われたのね…」

 姫乃は、クリスティアナの腕に抱かれて、濡れた髪をかき上げ呟いた。

 クリスティアナは、姫乃を海面に触れさせないように器用に立ち泳ぎしながら、うなずいた。

 「はい。」

 「でも、何もかも、失ったわ。

 家令も。

 伯爵家も。

 街も。

 誇りも。」

 空っぽね、と寂しく自嘲して。

 「私と、来てください。」

 差し出された手を、困惑で顔を一杯にして、姫乃は見上げー

 「え…?」

 「今度は私が、あなたの心を癒やしたいんです。」

 ーそして、ゆっくり、握り返した。

 人魚。

 水に祈る者であり、そして、癒やしをもたらす者。

ーそして、7つの海を巡る物語が、ここから始まる…の、かもしれない。


                    ー”世界H”ー

 「逃げることは、できない。

 伯爵だから、街を見捨てては置けない。

 運命を、ともにするわ。」

 …そう言って、姫乃は。

 私が助けにきた、私を助けてくれた、私の大事な人はー

 ーレイピアを胸元に突き付けました。

 「姫乃っ!」

 「絶対に、私は生き残ったりしない!

 この街を作り、この街、イスファハーンと共にあった夏海伯爵家は、最期の時だって、海底都市と運命を共にするのだから!」

 …こんなの、助けられるわけない。

 「誰か、助けてあげて…

 姫乃を…」

  「『想像は現実化しうる。私、そしてあなたたちの存在の観測こそ、その最たる証明』

 ー創始者A」

 その時、でした。

 私の耳に、海の上から、鋭く冷たい、声が。

 「その願い、確かに、聞いた。

 いえ。

 聞いてしまった。

 だから、私は。

 例え自己満足に過ぎなくても、貴女を、貴女たちを、助けるしかない。」

 え…?

 誰…?


                    ー”世界H”ー

 「はっ!?」

 「クリスティアナ!?」「人魚様!?」

 今、なんか、ヘンな夢を、見ていたような…?」

 「爺や?」

 「ええ、話を聞いて起きたわけではないようですな…」

 「…あら?

 そんな、聞かれたら相手を不快にさせるような話を、していたとでも言うの?」

 「「誰!?」」

 「誰かを名乗らせる前に、先に名乗る。その程度の礼儀も持ち合わせない伯爵家なんて、長持ちしなくて当然ね。」

 「なんという無礼な!

 お嬢様、こやつは爺やがひっ捕らえます。お下がりくださいませ!」

 「そう… 

 … 『力は全てを魅了し惹き付け貶める、何処までも墜ちるその誘惑ごと引き寄せよ』

 ー引力操作者G!」

 「ぐはっ!」

 「一瞬で、触らずに、壁まで吹き飛ばすなんて…

 アンタ、何を!」

 「アンタじゃないわ。

 私の名前は明末良音、そうね、創始者(アルファ)とも言うわ。

 それでこっちが…」

 「明末さん、どうして、いちいち禍根を残すんですか!?

 いきなり戦闘を始めるだなんて、ダークローズ(腹黒茨)じゃなくて、単に手が早いだけなんですか!?」

 「ふーん?

 材村君、まさか貴方、か弱い女の子に対して、ジジイに押し倒されてじっとしていろ、とでも?

 お母さんが聞いたら貴方を産んだことを後悔しながら死ぬんでしょうね。

 あ、コレが、材村海斗。適当に好きなように呼んであげて。」

 「……はぁ…」


                    ー”世界H”ー

 「あらためて。

 姫乃様と家令長さんが心配しているのは、人魚を誘拐できるほどのバックを持つ賊が、娘人魚を奪回しにここを襲撃するかもしれないこと、ですよね?」

 大広間で、お互いが刃が届かないほど充分に距離を取り、そしてやっと会話ができる状態になってから、海斗は切り出した。

 「…やっぱり、私がいると危険、なんですよね…」

 「そうに決まってるじゃない。」

 クリスティアナのおずおずとした声にきっぱりと良音が被せるので、姫乃が眉をひそめる。

 「事実を認めなければ、何事も始まらないわよ?

 その上で、貴女たちがどうするのか。」

 「私は、戦うわ。

 例えそれが、どんなに危険で無謀なことであっても。」

 「…お嬢様の覚悟が、それほどのことならば。

 仕方御座いませんな。」

 「で、でも!」

 「アンタを。

 一度懐に入れたアンタを守れないようじゃ、私が私じゃないから。」

 きっぱりと、姫乃は言い放ち、クリスティアナを正面から見つめた。

 「だから、安心して、私を頼りなさい。」

 「は、はい…」

 少しおかしなふうになった空気を戻すため、海斗がパンパンと手を打ち鳴らす。

 「やっぱり、そういうことですよね。

 僕らは、それに、お力添えしたいんです。

 …明末さんが余計なことをしましたけど。」

 ジトッとにらまれてもまったく意にも介さない良音を見て、海斗はさすがに肩を落とした。

 「…行き違いがあったということで、伯爵家としては水に流すわ。」

 「しかしお嬢様、素性が怪し過ぎますぞ。」

 「…もし私たちの敵なら、爺やを吹き飛ばした後に、私たちも好きにできた。

 今だって、手のひらの上よ。」

 「…ままならぬ話ですな。」


                    ー”世界H”ー

 「材村君。」

 「なんですか?」

 「どうして、守りに徹する提案に乗ったの?

 客観的に見て、貴方は人並み以上に頭が回る。

 盗賊に対しては、防戦一方になるのではなく、先制で叩き潰すべき。わかっていなかったわけではないはずよ?」

 「はい。

 でも、それをしてしまったら、物語の流れを大きく変えてしまうことになる。」

 ー今まで、僕らの旅は、いちおうは物語に沿ってきた。

 ただ、登場人物を2人増やしただけ。それで、エンディングまでを強引にいくつか端折って、不安要素をメイン登場人物の先回りで力づくで叩き潰して、そして、ハッピーエンドへ強制的に途中下車させた。

 でも、ここで盗賊を倒してしまうのは、バタフライエフェクトどころでは済まなくなる。

 「盗賊と不良貴族を倒し、囚われた人魚たちを救って外へ返し、襲来する人魚軍団にもお帰りいただく…

 …考えなくはなかったけど、そうしちゃったら、もう、夏海姫乃とクリスティアナ・アンデルセンの物語はそこで終わって、出会いは何も起こさなかったことになります。

 そんなの、物語の改善でも修正でもない、消去です。」

 「…多かれ少なかれでしかないわ。

 どっちみち、私たちは、物語を破壊するしかない。

 登場人物の役割を奪い、本来あるはずの幸せを生贄に捧げて、それでようやっと、見出した不幸の幸せへの転換と、ついでのオマケとして圧倒的大多数の幸福を得させる。

 そうするしかないのよ。」

 「だとしても、進んでそうすることですべてを解決しようとするのは…」

 「私ー

 ー完璧主義者だから。」

 100でないのなら、いっそ0にしてしまったほうが清々しい。

 海斗は、なんの備えもなく良音の目を見つめたことを深く後悔した。

 瞳に渦巻く底知れない破壊欲求に呑まれそうになって、頭を振り払い己を引き戻し。

 「この話はおしまいにしましょう。

 だいたい、不確定要素をわざわざ増やしてやることもないんですから。」

 「…そう、ね…」


                    ー”世界H”ー

 夏海伯爵家の誇る郊外で庭園を囲むコの字型の豪勢な3階建て屋敷は、完全に静まり返っていた。

 侵入した賊は、人間の気配を感じとることすらできなかった。

 「どこだ!?」

 「親分、もう逃げちまったかもしれませんぜ?もぬけの殻って感じでっさ。」

 「いや…

 …匂うな。下…いや、上もか?」

 数十人からなる盗賊たちが、ドタドタと、絨毯を土足で汚して廊下を走り、階段を駆け下りてあるいは駆け上がっていく。

 「おい、手前らのてめえらは屋上へ回れ。

 あとの奴らは俺についてこい!

 地下室への入り口を捜すんだ!」

 一度1階は調べた。しかし、地下階への入り口など見当たらなかった。だから盗賊たちは床板を叩き、壁にかかる絵画をひっくり返し、地下地下地下と呟きながら荒らしまわった。

 ガタン。

 「…なんだぁ?」

 ガタン!

 「うわっ!」

 ガタガタ!

 「くそがっ!」

 親分は、バカではない。

 「とんだからくり屋敷だぜ…!ハメられた…!」

 器用に死角で反転する壁や扉や床や天井に巻き込まれ、次々と部下が姿を消し、そして気づけば応える声すらない。

 たった一人取り残された親分は、やっと理解したーこれは、ワナであると。

 蛮刀を握り直し、後へ無造作に振るい。

 ガツンと、音が響く。

 「っ!」

 「おっと、仕留めそこなったかァ...」

 弾き飛ばされて壁に激突した少女を見て、親分は舌なめずりした。

 「…へぇ?

 勝てたとでも思っていたの?」

 壁にもたれかかり崩れた体勢の少女は、嘲るように呟き。

 「『われら構造を知らば万象を想像せん。ならば我が設計、万物掌に創造せよ』ー設計者D!」

 青い六角形の光が照らしだしたのは、冷徹にどこまでも深淵を輝かせる、2つの黒い瞳だった。

 ダダダダダダダダダダ!!!

 淡々と響き渡る機関銃の連射音に交じり、押し殺した絶叫と血しぶきが、暗い廊下に飛び散った。


                    ー”世界H”ー

 明末良音が親分を迎え撃っていたころ。

 屋上へ上った盗賊の1団は、屋上で待ち構えていた爺やと執事隊、そして材村海斗と相対していた。

 蛮刀を撫でながら迫る、てんでばらばらなつぎはぎと血の染みだらけの布に身を包んだ盗賊衆。

 長剣短剣二本持ちで決死の面持ちで構える、黒いフロックコートとモノクルで統一感あふれる執事たち。

 そして、その中間で、ハルバードを構える爺やと、拳銃を震える手で握りしめる海斗。

 緊張感が屋上を野外と思えないほどの閉塞感で包む。

 「僕が、僕が撃てれば...!」

 それだけで状況が一変すること、もっと言えば勝ち確であるとわかっているのに。

 ーそれは、人を殺す手だ。

 たどり着いた真実の一片、「明末良音の『ゲーム』の世界は、明末良音の想像の中の世界であっても、ひとたびリアリティを持ったがために、それが現実と区別できないから、実在する世界となる」は、海斗が思う以上に、海斗の心に残るささくれになっていたらしかった。

 ここで盗賊を撃つのは、もはや「物語を書き替える」にとどまらない、単なる人殺しだ。

 でも、そうしなければ。

 介入者として、そうする責任がある。

 だって、全部、ここまで起こした改変も、ここから行うつもりの改変も、すべて、海斗と良音がいなければ起こらないはずで、だからこそ背負うべきものを投げ出すことは許されてはいないのだから。

 ー指が滑った。

 「あっ!?」

 バンッ!

 銃声。

 戦闘の盗賊の頬に、血の筋が奔る。

 そして、それは文字通り「闘いの引き金を引いた」。

 白刃が舞う中。

 海斗は何もできずにいて。

 「何をゴタゴタと、手間のかかる連中ね。

 『力は全てを魅了し惹き付け貶める、何処までも墜ちるその誘惑ごと引き寄せよ』

 ー重力操作者G」

 震える身体は、重力が全員をもろともに床に縫い付けるまで、そのままだった。


                    ー”世界H”ー

 ー何もできなかったのは、海斗だけではなくて。

 しばりあげられた盗賊の群れの前で、クリスティアナは暗い顔をしていた。

 「明末良音さん。

 御協力いただいたところ悪いんだけど、いろんなしがらみを勘案すると、この盗賊たちを捕まえたままにしておくのは難しそうよ。

 私なり官憲なりが人魚の居場所を聞き出したと向こうに思われれば、不良貴族たちは先に証拠になる盗賊も人魚も『処分』してしまうかもしれないし。」

 「あっそう。

 今さらそれでどうになることでもないでしょうし、好きにすれば?

 まあ…貴女たちが今、大本の不良貴族に手を出せない程度の力でしか、目の前のならず者を追い払うことは出来ても裁くことは出来ない程度の存在でしかないことを心に刻むことね。

 大事にしてきたノーブレス・オブリージュとは何だったのか。

 正義の伴わない力以上に、力の伴わない正義は危険よ。」

 姫乃が「うっ」とうろたえたのを見届け、良音はちらっと海斗を見やってから、しゃがみ込み、車椅子の上のクリスティアナに目線を合わせた。

 「そう言えば、貴女、結局闘わなかったわね。」

 黒髪をかき上げて。

 「貴女なら、人魚なら、『祈り』が使えるはず。

 捕まっていた時なら水に近づけない細心の注意があったのでしょうけど、今ならいくらでも、盗賊に勝つ手段があったんじゃないかしら?」

 「うっ…

 …そ、それは…」

 水の入ったグラスを差し出され、否、突き付けられ、クリスティアナはたじろいだ。

 「見せて、貴女の力

 それとも…使えないのね。」

 「…はい…」

 思えば。

 いくらでも、クリスティアナ自身にやりようはあった。人数依存とは言えども人魚の「水に祈り『天罰』と呼ばれるほどの奇跡を起こす」とされる能力は宗教化されるほど強力だ。なのにしないのは、できないからでしかありえない。

 続きを読まずとも、行間からだいたいのことは推測できる。

 土壇場でクリスティアナが水を操ることに成功できたのは、おそらく。

 「その能力は、強い思いとかで覚醒する。

 貴女がいくら、感謝の弁を尽くして申し訳ない申し訳ないと言おうとも、それがすべてを表しているのよ。

 何を言おうが思おうが、そんなのニセモノでしかない。できない事実の前ではね。」

 言い過ぎじゃないか。

 周囲は、そう言うこともできず、ただ押し黙るしかなかった。


                    ー”世界H”ー

 「イスファハーン市民の皆様にお伝えします。

 南方の海上から発達しつつ北上を続けている熱帯低気圧第24号『ルティーヤー』は、なおも勢力の拡大を続け、中心低気圧は約800ヘクトパスカル、また推定最大瞬間風速は秒速124メートルと、歴史的災害になることが明白となっています。

 イスファハーン市国自治評議会は本低気圧を『人魚の天罰』の可能性が高いと認定しました。

 本日11時の迎撃艦隊出撃以後、すべての市外海上への出航は禁止され、都市ドームは閉鎖されます。

 出航中の全船は、本日10時までの帰港を命じられます。

 以上、イスファハーン国営放送局よりお伝えいたしました。」


                    ー”世界H”ー

 「案の定、来やがったな…」

 人魚を水に祝って「天罰」を起こす前に一網打尽にするにしても、親戚縁戚すべてを一網打尽にできるとは思えねえ。

 「おい、貴様。 

 娘人魚はどうなった?

 …まあ、言わなくてもわかるが。」

 「ちっ…」

 貴族サマは、アゴでもって俺様のなくなっちまった左腕のあたりを指しやがった。

 「この前はクッソうぜえことしやがって…」

 「…まさか、勝てなかったとはね。」

 「雷みてえなのが来やがって、一瞬で、触れてもいねえのに俺様の左肩から先を消し飛ばしやがった。」

 「『天罰』ではないのだな?」

 「ありえんさ。

 ありゃ、鉄の筒かなんかから吹き矢みたいに金属塊を噴き出してるんだ。家来どもの話まとめたがまあそうだろ。

 なんとか全員連れ帰ったがな。」

 …捕まって、あえて見逃されたことは言えねえ。ボロボロの今の状態でそれを口にしたら、内通を疑われてみんな消されちまう。

 「とにかく、正攻法じゃ娘人魚は無理だ。疑獄でもなんでも仕掛けやがれ。」

 「…まったく、あのプライドだけはいっちょまえの骨董品伯爵家が、傭兵だか魔術師だかを引き入れるとはな…

 とりあえず、約束のぶんのクスリだ。不老不死の妙薬がこれだけあれば、絶対に傷を負うことも死ぬこともない、最凶の身体になれるだろう。その鉄の筒とやらにも勝てる、な。

 粉になってるから、水に溶かして飲むなり打つなりするんだな。」

 「ふん、ありがとよ。」

 …そうできりゃええんだがな。

 「契約通り、闘ってくれるんだろうな?」

 「ああ。

 艦隊が人魚と潰しあってる間に人魚の力で無敵に変身して人魚を殴って、あとは艦隊が復活する前にトンズラだ。それでええんだろ?」

 バカバカしい…

 …でもまあ、もしまたあのクソアマが出てきやがるのなら、左腕のお礼くらいはくれてやってもいいのか。

 「頼んだよ。」


                    ー”世界H”ー

 「来たわね、予定通り。」

 桟橋の先端で、暴風に髪を巻き上げられながら、良音は呟いた。

 「明末良音、危ないわ。戻りましょう。」

 クリスティアナが乗る車椅子を押しながら、姫乃は爺やがさす傘の下から呼びかける。

 「いいえ。

 …すべて、予定通りだから。

 そうでしょう?」

 「え…?」

 ビシッと、振り返った良音に指をさされて、自分のことかと身体を見下ろし、どうやら違うらしいぞと振り向いて...

 「『われら構造を知らば万象を想像せん。ならば我が設計、万物掌に創造せよ』ー設計者D!」

 ガシャン!

 「クソガキァ!」

 突如青光の中から出現した檻が、停泊中の快速船の前に集まろうとしていた集団を包み込んだ。

 見覚えのある盗賊たち。みんな、包帯だらけとなっている。その中に一人だけ金銀宝石をびっしり付けたコートの貴族が混じっていた。

 「そこで、おとなしく、見ていなさい。

 『(gravity)』!」

 空中に赤い渦巻きが発生したかと思うと、竜巻のように、海面が吸い上げられて、その上の艦隊が波に翻弄された。

 「ちょ、ちょっと、やりすぎ!

 爺や、通信を!」

 「はっ。

 こちら夏海伯爵家でございます。

 艦隊の皆様、我等に考えがありますゆえ、しばし、撤退をお願いします。」

 海上の艦隊が、沖合へと移動していく。それと入れ替わるように、暗雲を背に、彼らは現れた。

 「人間どもよ。

気ままに泳ぐことのできない罪人たちよ。

我らに同胞を返し給え。」 

 車椅子から、するりと、クリスティアナが滑り落ちて、海へと飛び込む。

 「皆さん、待ってください!

 人間だって、悪い人ばかりじゃないんです!

 私を救ってくれました、そして、私たちを救ってくれようとしているんです!」 

 「知らぬ。

 悪い人間がいるのも事実。

 おぬしを救おうとしているのは人間だが、さらったのも人間であろ?」

 「…それは、そう、だけど…」

 「ならば罪人よ、罪を償い給え。

 我らに詫びるところと悔いるところがあるだろう?」

 「それは…」

 「しかねるわ。

 仮にも盗賊と不良貴族がやったことに対して、市民すべてに頭を下げさせるわけにはいかないもの。」

 姫乃は、胸に手を当て、非常に申し訳なさそうに、真摯に告げた。

 「わからぬ、同じ人間ではないか。

 人間の過ちを人間が悔いるのは当然のことであろ?」

 「同じ人間ではないのです。

 名も知らぬ誰かの咎を追う必要がどこにあるのですか?」

 「おぬしらが、同じ人間だからだ。

 人間が罪を犯したのならば、それは人間の罪。何もおかしいことはあるまい?」

 「わかりあえないようね。考えが甘いわよ、姫乃。」

 「そんな…」

 「言っても通じぬ貴様らは、死んで詫びるしかないようだな!

 「「「「「祈れ」」」」」」

 海水が持ち上がり、さながら大蛇となって鎌首をもたげた。

 「『力は全てを魅了し惹き付け貶める、何処までも墜ちるその誘惑ごと引き寄せよ』

 ー重力操作者G」

 水の蛇が、海面に引きずり落されて崩れ落ちる。

 「何っ!?」

 「小手先の小細工が通じないのはもう知っているから、正攻法で行かせてもらうわよ…!」

 明末良音は片目をつぶったままに、指した指先を滑らせていく。その先で、大きく持ち上がった海面が移動し、沖から迫る波を打ち返す。

 「む…

 空よ、雲よ、雨よ!我が祈りを聞け!」

 雷鳴がとどろく。

 暗雲が渦巻く。

 横殴り、いや、あらゆる方向から叩きつけるような雨が降り注ぐ。

 桟橋が、今にも壊れそうなほど、上下左右に揺れ。

 まるでジェットコースターのように激しく振り回されるその先で、しっかり足を踏みしめ、良音は独り、指揮者のように指と腕を振り回す。

 海面にズボッと穴が開いたかと思えば、見えない糸に吊り上げられたかのようにして、三叉槍を両手に持った人魚が空中へ投げ出される。

 それはどこか、大魚と格闘する伝説の釣り人のようでもあって。

 どこか神々しさをまとった、前が見えないほどの荒天が、水平線まですべてを包み込んでいた。


                    ー”世界H”ー

 「ちっ、引力だけじゃさばききれないっ…!」

 遠くから、明末さんの声が聞こえる。

 ーだって、そりゃそうだ。

 あまりに、条件が、制約が、かかり過ぎている。

 明末さんの引力は、面か点にしか効かせられないはず。「銀河戦争(ギャラクティカウォー)・シミュレーター」からしてそういうふうだった。三次元立体的に四方八方から襲い掛かる風・雨・波・海のすべてを迎え撃てるわけがない。

 しかも、それに輪をかけて最悪なのは、積極的に攻撃できないこと。

 僕らが目指すべきハッピーエンドは、人魚も救われ海底都市も夏海伯爵家も無事、というシチュエーション。明末さんはその気になれば機関銃や爆弾を作り出すこともできるけれど、襲来した人魚をそれを使って傷つけるわけにはいかない。

 防戦しか、許されない。

 明末さんは、いったい、どうするつもりなのか…

 とにかく、ただ桟橋にしがみついて降り飛ばされないようにするしかない僕には、歯がゆいだけの話だ。

 でも、いつまでも全員が持つとは思えな...

 ガッ!!

 「きゃあっ!」

 「なっ」

 「お嬢様!」

 「姫乃!?」

 僕は見た。

 車椅子が飛ばされないように必死で左手でつかんでいた夏海姫乃が、波で振り回された車椅子で頭を打ち、桟橋の手すりを掴む右手がほどけ、海に弾き飛ばされるのを。

 海の中へと落下する姫乃を、海中からジャンプしたクリスティアナが空中でキャッチする。

 「姫乃、しっかりしてください姫乃!」

 「う…

 …クリスティアナ、ごめんなさい…」

 「謝られることなんて、何も...

 姫乃!?姫乃!」

 「どうしましたクリスティアナさん!」

 がっくりとうなだれた夏海姫乃ーただごとじゃない。

 「脈が、弱いんです…!」

 「頭を打ったショックか、それとも…

 低体温症...!」

 嵐の中長い間体力を浪費しすぎてる。僕だって寒い。そんな中で海に落ちて意識を失ったら…

 「早く雨を止ませて、陸であっためないと!」

 「でも…

 …このままじゃ、姫乃、死んじゃうんですか…?」

 「最悪の場合...」

 後ろで爺やが「お嬢様、今助けますぞー!」などと叫び、数人の家令に「死にますよ老体なんだから!」などと必死に抑え込まれているー救援は望めそうにない、か。僕は泳げないし。

 「…姫乃...

 今度は私が、守る番!

 水よ…

 …私では奇跡には足りないし力を出し切ることもできないけれど…

 …私の願い、聞いてください!」

 嵐の中、海面が泡立つのが見えた。

 波の向こうで、明末さんが振り向くのも、確かに見えた。

 「待っていたわ…!」

 あれは…ガラス玉を右目に当てている...?

 「『あらゆる力は解釈の相違。ならば汝全てを捉え直せ』ー複製者C!」

 青い六角形の光が、上下左右に目まぐるしく揺さぶられながら波間に立つ明末さんの右目を中心に広がり、その中心のアルファベットが「C」から「H」に移ろい。

 ああやって、能力、アルゴリズムとやらを集めてるのか…

 気付けば、周りの波が収まり、足元の揺れもなくなっていた。

 雨も相変わらず激しいけれど、方向の無頓着さだけはなくなった気がする。

 「私は、私はっ!

 できなくても、やるしかないじゃないですかっ!」

 ゴロゴロ...ピシャン!

 「!?」

 雷の中に、巨大な、龍!?

 …いやいや、水で作った虚龍だ。だけど。

 雨がやみ、夕焼けが水平線を彩る。

 「…おぬしら…

 クリスティアナと言ったか。

 そなたらの本気は、伝わった。

 人間を許そう、その本心からの人間を救いたい想いに免じてな。

 済まなかった。」

 「いえ、よいのです。

 そんなことより、早く、姫乃を...」

 「我らの祈りで水気を飛ばし血行を速めれば調子も戻ろう。

 水よ、この者に癒しを。」

 暖かな水滴の輪に包まれたかと思うと、顔に血色が戻ってきた姫乃が、クリスティアナの腕の中から起き上がったー人魚の奇跡、すごい。

 「ありがとう。伯爵家として、夏海姫乃として、深く礼を述べるわ。

 そして...

 …騒動の発端となったアンタら、キツイお仕置きが必要みたいね。」

 

                    ー”世界H”ー

 人魚に貴族の生意気クソガキはまだいい。

 あのクソアマのせいで全部崩れた。

 「クソがっ!

 お仕置き?

 おとなしく受けるわけがねえだろうがよっ!」

 どうなったとしても、俺は、ぶっ潰してやる!

 「てめえら全員、ぶっ殺すぞ!」

 「おい、貴様、いくらなんでも濃縮人魚妙薬をそんなに呑んだら...!」

 「知るかよ!

 うぉ…」

 力が、むかむかと湧いてくるぜ…!

 「お、親分...」

 「うぉぉぉぉぉぉォォォォオオウーーーーーッッ!」

 ツブスツブスツブス...

 「貴様、何をする!

 余は貴族、貴族なるぞぉーっ!」

 ミンナ、ツブス!


                    ー”世界H”ー

 「馬鹿がっ!」

 人魚を食べれば不老不死の身体になれるっていう、八百比丘尼の伝説。だけど、それが傷ついた細胞を無尽蔵に修復する再生能力だというのなら、無限の修復能力を持つ細胞を得ること、それも過剰にその能力を得ることは、身体の細胞全てを癌化させることと完全に同義。

 「檻を呑み込むとは思わなかったわ…

 …あの分では、盗賊たちも不良貴族も、誰一人生きてはいないでしょうね。」

 でも、その代わりに、奴は人間を辞めた。

 「もう、躊躇する理由は、何もない!

 『(design)』!」

 さあ、最強に至る無敵の力とやらをもらった肉団子くん?

 機関銃弾幕に、どこまで耐えられるかしら?


                    ー”世界H”ー

 その巨大な肌色と赤色とピンク色の入り交じったぶよぶよは、殺到する無数の鉛玉に切り裂かれ、爆発する代わりに血の雨を降らせて弾け散った。

 だが、姫乃はその見たこともない強烈な攻撃でも盗賊の成れの果ては仕留められないだろうと悟り、血の雨から遠ざかりながらレイピアを抜く。

 桟橋に降り注いだ血の雨、そして盗賊の快速船にかかった血の雨が、まるでアメーバが這うようにして動く。

 当然良音は銃弾を快速船へと降らせた。ものの数秒で穴が空く。

 だが、次の瞬間ー

 ー快速船が左右にぱっくり割れ、中から翼をたたんだ飛行艇が海面に滑り出した。

 「空飛ぶクジラって、あれのこと...!」

 機関銃の再装填は間に合わない。

 飛行艇の表面がみるみるうちにぶよぶよでおおわれていく。

 翼が両側に開き、それは、「肉でできた巨大飛行機」となって、宵闇へと汚らしく飛び立った。

 翼や胴体のあちこちに、目がぎょろりと浮かび上がる。

 だらり、細い触手が、見上げる人魚の方へと垂れさがっていった。


                    ー”世界H”ー

 「「「「「「「「「「祈れ!!!!!」」」」」」」」」」

 海面から無数の水のムチが伸びて、空中から数百メートルも垂れ下がる触手の群れをはたき返す。

 上空と海上のせめぎあい。

 しかし、徐々に、海水のムチの高さが、太さが、弱りを見せていく。

 「水を吸って、成長しているだと...!」

 「人魚の蘇生能力は祈りと癒しの力に同根なんでしょう?

 だったら、人魚の祈りで操った水が、人魚の祈りの力で無限再生する肉塊を元気にするのは不思議でも何でもないわ!

 撃ち落とすっ!」

 良音が機関銃を放り投げて肩撃ち式対空ロケットを作り出し発射するーが、肉の触手の群れははしっとそれを叩き落とし、遠くの海面に爆発のしぶきを上げさせるに終わった。

 「明末さん、重力でどうにかなりませんか!?」

 「材村君、飛行艇を引きずり落せるほどの重力をこの距離で使ったら、津波じゃすまないし私たちも無事では済まないわよ?」

 不定形の海水のほうが動力で動く固体より引き寄せに弱いに決まっている。海空がひっくり返りかねないし、良音どころか海底都市のドーム自体がその引力により発生するひずみに耐えられない可能性も高い。

 「じゃあ、明末さん、どう...」

 「簡単なことよ。」

 良音は、すっと右腕を暗い虚空へと伸ばした。

 「私たちは、読んでいる。

 私たちは、知っている。

 私たちは、今、ここにいる。

 何もない、貴方たちに妥協する理由は、何も。

 消えなさい、運命が、まるでそうだったように!

 『全てを運び押し流す、水は万物の父にして万生の母』ー水遣者H!」

 水を(hydro)乗っ取り遣う(hack)ー人魚の祈りの時点でそれは、天地の水に祈り、身体を癒し海を動かし雲を湧き出させることができた。けれど、それは人魚の祈りにかけた想いと力に依存するもので、決して無制限に水なら何でも操れるものではなかったはずなのに。

 遥か空高く、渦巻いていたままの暗雲が、ギューっと集まっていき、巨大な透明な塊と化して晴れ上がった星空の下で威圧感を顕す。

 海水が持ち上がり、白い塩粉を纏いながらぷよぷよ丸い塊となって浮上していく。

 2つの巨大な水の塊が、飛行する肉塊の上下を取り、そして、ヒュンっと残像を飛跡に残した。

 爆発音が夜空に響き渡り、肉塊が巨大な水滴に包み込まれ。

 ピシリ。

 凍り付いて。

 「そんな、ただの人間に、そんなことはできるはず…!?」

 砕け散った。

 満天の星空の下、キラキラ降り注ぐ無数の雪の結晶を背に、良音は、まるで己が世界の支配者でもあるかのように、両手を広げて見せた。


                    ―*―

 ー人魚は、全員救われた。

 ーイスファハーン市は、滅ぶことはなかった。

 ーそして、結局、夏海姫乃はクリスティアナ・アンデルセンとともに航海の旅に出ることになった。自分を見つめ直したいんだとか。

 「明末さん、いろいろ、しくじりましたね…」

 「しくじったのは貴方だけでしょう?」

 …確かに僕は、盗賊に引き金を引くのに躊躇して、そして、結局最後まで撃てなかった。

 「でも、それは、明末さんもです。

 明末さん、何度も、盗賊を仕留められる機会はあったんですから。」

 屋敷を襲撃した時でも、桟橋にやってきた時にでも、銃撃しておけばよかった。親分を殺しておけば、わけのわからない空飛ぶ肉塊になって原作にないことで僕らを煩わせることはなかった。

 「…できるわけがないじゃない。

 私たちの正当性は、なんにも担保してくれないのよ!

 正しさ!

 幸せ!

 どうせそんなものは独善的に過ぎないって!」

 「っ、それは…」

 「盗賊の親分にだって、子供の幸せを願って産んだ親がいる。

 死刑囚にも大量殺人犯にも!

 ヒトラーやスターリンやポル・ポトにだって、幸せを望んだ家族がいて、愛する人や仲間がいて!

 ...命の軽重なんて、しょせん決まらない。

 大勢の人の幸せのために、悪だからと少数を踏みにじることは、世界を握りつぶすにも等しい冒涜的な行為だ...って、愚鈍な貴方じゃわからないでしょうけど。」

 「…だから、やらないとどうしようもなくなるところまで、仕方がないところまで...

 親分が人間を辞めるまで、手を出せなかったんですか?」

 「良くも悪くも、私は平等主義で完璧主義でありたいの。

 そうしないと、私は、自分の力に自信が持てない。」

 「…明末さんが最初の頃、全部滅茶苦茶にしようとしてたのは、もしかして...」

 「ええ。

 私がしてることなんて、結局は。

 ...誰かを不幸にして、そして、物語を乗っ取って。

 幸せにしてるかなんて些細なこと、私は物語を奪って、幸福を再配分した、ただ、それだけ。そして、私はそんな優れた身の上じゃない。

 貴方に言われるまでもなかったの!

 私は、本当に、すべきだったの?

 数十万の幸せに、何の価値があったって言うの…?」

今回獲得したアルゴリズム


水遣者Hydrohack 略称H アルゴリズム「全てを運び押し流す、水は万物の父にして万生の母」

効果:すべての水を、自由自在に操る

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