駅
「え、そこまで調べんの」
うわびっくりした、と振り返ると先輩が肩越しに僕のパソコンの画面を覗きこんでいた。濃いコーヒーの匂い。この人からコーヒー以外の匂いがしているところに僕は一度も遭遇したことがない。年がら年中カフェイン臭。煙草休憩に行った後ですらコーヒーの匂いをさせていられるのはもはや才能の一種と言ってもいい。
「何がですか」
「いや、それ。駅の中だろ。お前そんなとこまで調べてどうすんの」
「初めて行く駅なんですよ」
文句を言われる筋合いはない、と思う。なにせもう時間は昼休み。僕は午後一でここを発って向かう出張先への経路を調べているだけなのだから。いまどき便利なインターネットの地図というやつで。
「いや、初めて行くにしたって調べないだろ、そんなとこ」
「なんでですか」
「お前もしかして知らない? 駅の中にはさ、案内看板っていうのがあるわけ。日本語読めなくたって行けるよ。中国語とか韓国語まで一緒になって書かれてるんだから。グローバル化」
「知ってますよ、そのくらいのこと」
「んじゃなんで調べてんの」
そんなことを訊かれる理由がわからなかった。これから行く場所だからだ。別に案内看板が出ているかどうかなんて関係がない。トイレの前には必ずトイレの表示があるとしたって、実際緊急のときに使えそうなトイレがどこにあるのかを事前にネットで調べる人間はいくらでもいるだろう。んなもん調べねえよ間に合わなかったら垂れ流しよガハハという人間もこの世のどこかにはいるのかもしれないけど、少なくとも僕の生活範囲圏では見たことがない。
そういうことを滔々と話して伝えると、ふうん、とだけ先輩は頷いた。興味がないなら初めから訊かないでほしい。
「ちなみにそれどこ?」
「蜻ェ縺駅ですけど」
「は?」
「蜻ェ縺駅」
「悪い。俺の耳グローバル対応してないんだわ」
何度言っても蜻ェ縺駅という言葉を先輩は聞き取ってくれなかった。僕の滑舌が悪いのかもしれない。そういえば仕事で電話しているときも結構な頻度で聞き返されるし。
「どんな駅なの、そこ」
「駅に興味津々すぎませんか?」
「いや、変な名前だからさ」
「普通の名前だと思いますけど……。それに普通の駅ですよ。ほら、こんな風に」
画面の中に表示されている地図は、ただの地図じゃない。その場所の周りの風景をパノラマ写真に収めているから、実際にその場に立っているような光景が映り込んでいる。クリックしてやれば、駅の入り口から視点が始まる。
「地下鉄だから、階段から始まるんです。もちろん地下に続いていく階段。何段か数える必要ってあんまり必要ないですよね。ほら、一段一段に雨傘が置いてあるじゃないですか。あれって全部で二百本になるようにみんな気を遣ってるはずなんで。で、こうやってぐーっと下に降りていく。そうしたら突き当りのところに真っ黒な油が捨ててあって、その上で人が首を吊って死んでいるように見える。これが油搾りの仕組みだなんて実際に見てみないと信じられませんよね。その先の通路には必ず十五人の人たちがいて僕たちの子どもの名前を執拗に聞きたがります。もちろん答えてしまっては答えてしまっては答えてしまってはいけないので一番嫌いで一番嫌いで一番嫌いで今すぐにでも死んでほしい人の名前を答えます。心の底から叶ってほしいことに限って絶対に叶わないようにできているから誰も死なずに済むわけで、動く歩道に乗って芋虫を踏みつけにしながら走ってそこを抜けていきます。そうしたら顔じゅうに百合の花を咲かせた人が切符を切っていますから、自分の名前が載った小さな紙を渡します。僕たちの場合は名刺ですけど、でも間違えちゃいけないのは必ず戒名で記載されたものですよ。誰もいないホームに通してくれますから線路の上で仰向けになって鎖に繋がれた女の子に話しかけます。もちろんちゃんと線路の上に降りてです。『こんにちは。僕は元気だよ』って。そうしたら決して許してくれなくなって、黄色い電車がやってきます。女の子の閉じた口から蛙の声が洩れだしていたらもう大丈夫。あとは夜が来るのを待つだけです」
完璧なシミュレートだった。これならたとえ昼休みの終わりごろにお腹が痛くなってトイレに籠ってしまったとしても、十分以内ならリカバリーが効く。決して遅れることなく、僕は辿り着けるだろう。
ふうん、と先輩は頷いた。
「お前んちさ、アパート?」
「え、はい。そうですけど」
「最近夜中によく人来るべ」
「え、まあ……。そりゃ来ますけど」
「何人来た?」
「同時に来た人って何人で数えたらいいですか?」
「頭の数の分だけ数えりゃいーよ」
「九十五人ですけど……」
「その中にさ、顔に干からびたトカゲ貼っ付けてるおっさんがいたろ」
「おっさんって年でも……。まあはい、来ましたけど」
「郵便受けに何分くらい手ぇ突っ込んでた?」
「六十七分」
「何色に塗って帰った?」
「黄緑です」
「そのあと郵便受けに何か入れて帰っただろ。持ってたら貸してくれ」
はい、と僕はズボンのポケットから舌を取り出して先輩に渡した。先輩はそれを自分の口の中に放り込む。あっ、と僕が言う間もなく先輩はコーヒーを啜ると、たっぷり四分二十三秒に渡って長いうがいをした。
そしてそれを、ぺっ、と僕の頭の上に吐き出す。
「うわぁ!」
「わり」
「わり、じゃないですよ! うわ、どうしよ。今日替えのシャツ持ってきてないや……」
「へーきへーき。気付かれねえって」
「気付かれないわけないですよ!」
僕は職場の備品に置いてあるウェットティッシュで何度も何度もそのコーヒーの跡を拭ったけれど、結局落ちるわけもなく、とにかく大急ぎで会社から出る羽目になった。どこかでシャツを買うしかない。駅の売店にでも売ってるだろうか。
蜻ェ縺駅への行き方だってちゃんと調べている。会社を出て最初の角を左に折れたらそこから目を瞑って左に百五十歩。ほら着いた。きっちり二百段。ステップの上に雨傘が寝っ転がった下りの階段。その先の首吊り死体と滴り落ちる黒い油。その中で泳いでる小さな金魚は息ができなくて口をずっとパクパク開けているし、その先の十五人の人たちはずっと耳元で僕の子どもの名前を訊いてくる。僕はずっとこの世で一番嫌いな人の名前を唱えてる。自分の名前を言う羽目にならないってところに、きっと僕の幸せさはある。動く歩道の上の芋虫たちはもうとっくに寄生蜂に食い荒らされていた。丸々と太った幼虫たちが芋虫一匹につき何十匹も這い出てきて繭を作り始めている。踏み潰して走りながら僕は小学生の頃を思い出している。モンシロチョウを羽化させようって授業のときに、何度もあいつらに邪魔されたっけ。
そこまでは順調だったのに、駅員さんの顔に咲いた百合の花が、僕が近付いた瞬間にざあっと一瞬で全て枯れてしまった。あんなにうじゃうじゃ夥しい数が咲いていたのに、今じゃ痩せた老人の骨に垂れ下がる皮みたいに顔にしがみついているだけ。
「あの……、あのー!」
何度も呼び掛けたけれど、駅員さんはもう動かない。どうしよう。このままじゃ電車に乗れない。とりあえず出張先に遅刻するかもしれないという断りの電話を入れなくちゃいけない。
そこまで考えて、ふと僕は気付いた。そういえば僕は、これから自分が向かう出張先がどこなのかを知らない。
他にかける人もいなかったから、先輩に電話をかけた。
「もしもし」
「あ、あの。駅が、駅で、電車に乗れなくなっちゃって。僕の机見て、出張先の電話番号教えてほしいんです」
落ち着けよ、と電話先で先輩は言うけれど、僕はそれに憤った。他人事だからそんなことが言えるんだ。実際自分が周到に準備してきた出張で遅刻をかますかもなんて思ったら、普通はこんな風に慌てるものなんだ。
「夢だよ」
「え?」
「そんなに都合の悪いことが起こるわけないだろ。全部悪い夢。お前、ちゃんと目を開いてみろよ」
「ちゃんとって……」
「難しけりゃ手のひらを見ろ」
言われたとおり、手のひらを見た。それで僕は気付いた。なんだかいつもと手の形が違う。これは指じゃなくてトカゲの尻尾だった。手相に見えるのは傷だった。ぼとぼとと血が流れ始めている。
じーっとそれを見つめていたら、いつの間にか本当に目が開いていた。僕の部屋の天井。ほっと息を吐く。無事だったんだ。なんて束の間の安堵で時計はもう七時四十分。僕は大慌てで会社に向かう。今日は月曜日。
満員電車を這う這うの体で切り抜けて事務室に入ると、もう先輩は出社していた。コーヒー片手に僕に向かってよう、と声をかけてくる。
「珍しいな。お前が遅刻ギリギリなんて」
「寝覚めが悪かったんです。酷い夢を見て……」
「へえ。どんな夢」
「出張のために訳のわからない駅に行くんですけど、そこで電車に乗れないっていう夢で……。すごく焦りました」
ふうん、と先輩が頷く横で、僕はパソコンの電源を入れている。
「その駅ってさ、なんて名前だった?」
「え? なんでそんなことが気になるんですか?」
駅マニアですか、と僕が訊くと、違う違う、と先輩は笑う。
「夢マニアなんだよ。人の夢の話を聞くのが好きなんだ」
「変わってますね。普通、人の夢の話って退屈って言いませんか」
「俺は違うんだよ。で、なんて名前の駅だった?」
「蜻ェ縺駅ですけど……」
へえ、と頷いて、先輩はコーヒーを一口啜った。どういうわけか途方もなく濃い匂いが漂って、先輩は言った。
「ごめんな。俺じゃ無理だったみたいだ」