第二章『奪』
【第二章 『奪』】
違界では珍しく、その男は老人だった。早死にが常の違界でその歳まで生きることは、並大抵のことではなかっただろう。
老人は瓦礫の隙間に身を潜める幼い少女に手を伸ばした。
少女は、ここで私は死ぬのだろうと恐怖を感じた。
だがその後ろに歳の近い少年が立っていることに気付いた少女は、何故だろう恐怖が薄れるのを感じた。
差し出された嗄れた老人の手は変わらず怖かった。だから少女はその後ろの少年に助けを求めるように小さな手を伸ばした。
少年は少し驚いたように目を丸くして、ほんの少し躊躇った後に手を差し出した。
体温のある手。もう随分と触れていない温度だった。
少女は老人に拾われ、名を与えられた。少年も一緒に、それからは三人で過ごした。
老人は技師で、あれやこれやと製作していた。依頼される時は少年と少女は瓦礫に隠れ様子を窺った。装置を作る様は興味深く、よく手元を覗き込んでいた。それでも難しくて、少女には上手く理解できなかった。
そうした時間も長く見れば僅かで、老人が二人を別の安全な世界へ送るためにと作った転送装置は何処かの誰かに嗅ぎつけられ、襲われた。咄嗟に少女は少年をその装置の中に逃がした。もう二度とその血の通った手を繋ぐことはできないと覚悟して。
それでも老人は、もう一度転送装置を作ろうとした。今度は少女を転送させるために。
丁度その頃、先の転送装置の噂を聞きつけ、装置を作ってほしいと依頼があった。依頼者は二人の女性だった。少女は老人に、彼女達を優先してほしいと頼んだ。作りかけの装置は、彼女達の物になった。
それからもう一度、装置を嗅ぎつけ別の者達に襲われた。
その少し前、少女は自分の身に異変が起こっていることに気付いた。尻尾が生え始め、耳が聞こえにくくなっていた。怖くなった少女は老人達と距離を取り、襲われる数日前に姿を消した。
老人達の前にそんな姿を晒せるはずもなく、老人が殺される瞬間も何もできず、瓦礫の隙間から見詰めることしかできなかった。置き去りにされた感情が空白の中で燻っていた。
頼れる者は何もいなくなり、徐々に蝕まれていく体に為す術なく震えることしかできなくなった。
やがて人の耳は完全に聞こえなくなり、代わりに頭に生えた大きな耳から音が聞こえるようになった。人間の耳はただの飾りになったと気付いた。顔の横の耳は飾りだし頭の耳は邪魔で、防御展開装置は装着できなくなった。違界で生きるためには絶対に必要不可欠な生命線を使うことができず、少女は焦燥し混乱した。何も身につけず水中や宇宙に放り出されるようなものだが、少女は水中も宇宙も知らない。ただ死だけが近くに蠢く感覚を肌で感じていた。
一人きりで少女はパニックを起こし、過呼吸で倒れてしまう。
きっとこのまま死ぬのだろう。ほら、もう手を繋ぐことはできなかった。そう、それだけ思った。
目を閉じて、もう恐怖など見ないよう、喘ぎながら地面に丸くなる。
その時肩に手を置いてくれたのが彼でなければ、本当にそこで命が終わっていただろう。
少女は恐る恐る目を開け、肩に手を置いた人物を見上げた。外套を羽織りフードを目深に被った防毒マスクの顔が見えた。その時は性別がわからなかったが、一度両手を上げ、少し考えた後に手を下ろして言葉を話した時は、男の子だ、とわかった。
地面に転がる防御展開装置を一瞥し、拾い上げる。
「大体は理解した。後天性の畸形か。呼吸が苦しいか?」
「っ……」
防毒マスクは少女の頬を両手で挟んだ。
「息を吐け。火を吹き消すように」
胸を小刻みに上下させながら、少女は涙目でか細く息を吐こうとする。
「畸形には少し興味がある。安心しろ、助けてやる」
防毒マスクは少女を抱え上げ、返事を待たずにそこから忽然と姿を消した。
次に視界に広がったのは、一面の緑だった。見たこともない木々、葉が揺れている。
防毒マスクは少女を地面に下ろし、立ち上がる。
驚きのあまり呼吸が止まりそうになる少女に向かい、徐ろにマスクを外した。白い髪と整った相貌、眼帯の目を少女は見上げる。
「上手く呼吸ができるようになってるな。名前はあるか?」
その言葉で少女は過呼吸が治っていることに気付いた。――わざとだ。わざと呼吸から意識を逸らし驚かせるためにここへ連れて来たのだ。
「ここでは何の装置も必要ない。ここならお前も生きていける」
少年は片膝をつき、少女に目線を合わせた。歳の近いあの兄のような少年のことを思い出し、少女は少年の手を握った。両手に手袋をつけていたので勝手に外し、握った。少年は何も言わなかった。体温を感じる手に、少女は安心した。
「私は……色羽」
「そうか。色羽、俺は紫蕗と言う」
聞いたことのある名前だった。天才技師と呼ばれている、あまりに有名な技師の名前だった。こんなに歳の近い少年だとは思わなかった。
ここでは何の装置も必要ないが、紫蕗は色羽に、形骸化した人間の耳でも使える装置を作って与えた。いざという時のために一人用の転送機能も付与した。それは特殊な物で、紫蕗だけが遠隔操作を行える物だった。彼女を生かすも殺すも彼次第、まるで命を握られているかのようだったが、不思議と怖くはなかった。むしろ優しい気持ちを感じた。
いざなんて一生来ないと思っていた。ここは壊れた違界の中で唯一のオアシスで、冒されることのない安住の地だと。
いざなんて、一生来ないと思っていたのに。
* * *
病院の簡素な寝間着を纏った軽装な紫蕗は、年相応の子供に見えた。改めて見るとまだ幼い顔つきをしている。頭には彼の物ではない治療用の違界の装置をつけられているが、それ以外は青界の患者と変わらなかった。
ベッドの脇から色羽はじっと紫蕗の寝顔を見詰め、動かない。
ルナと佑一は壁際に椅子を並べ、その様子を見守る。
天利っていう看護師なかなか来ないな、と思い始める。怖そうだったり気難しそうだったりしない人がいいな、と思いながら待っていると、部屋に二回ノック音が響いた。
「来たかも」
壁に背を預けていた佑一が身を起こすので、ルナも背筋を伸ばす。色羽もドアへ顔を上げた。
散々緊張はしたが、静かにドアを開けて入ってきた看護師に思わずルナはきょとんとしてしまった。
「久しぶり佑一君。そっちの二人は初めまして。違界担当の天利だよ」
爽やかな水色の髪に感情が稀薄な双眸。七枝よりも随分と若い、女性だった。看護師らしくキャップを被っているが、下はミニスカートだった。看護師の制服と言うよりコスプレだ。
「天利さんこんな格好だから一般外来には出ないんだけど、入院患者の世話はしてるんだよ。皆驚くらしいけど。けど結構人気なんだって」
だろうな、と天利の姿を見て思う。いきなりこんな派手な色の髪の看護師が現れたら驚く。
視線に気付いた天利はルナに目を合わせスカートの裾を抓んだ。
「可愛いでしょ。スカート」
こういう時、どう返せばいいのだろうか。そうですねと言えば、途端に見ていたと責められたりしないだろうか。
佑一は慣れているのか、特に気にしていない。
「天利さん胸大きいから、親父のお気に入りなんだ」
「それは……」
本人を前に言っても良いのかと天利の方を見、つい胸元に視線が行ってしまい慌てて逸らす。
「! ユウ、あれ……」
「え?」
ドアの隙間から、佑一の母親が静かな殺気を湛えて覗いていた。以前家を燃やそうとした一件が脳裏を過ぎる。
「お前ん家、大丈夫か……?」
「大丈夫じゃないかも……」
ドアは静かに閉められ、気配が消えてゆく。
「電話しといた方がいいかな、拓真に……」
天利も一度振り返って背後を確認し、再びこちらに向き直る。
「話をするのはこの三人でいいの?」
母親のことは気掛りだが、とりあえず頷く。
「じゃあ……何から話そうかな。紫蕗君がいかれてるって話をしようか」
「師匠はいかれてません! 優しい人です!」
聞き捨てならないと透かさず色羽が反論するが、構わず天利は続けた。
「まず出血なんだけど、血糊が混ざってた」
「血糊……? ってことは、見た目ほど失血してないってことですか?」
ルナの質問に少し間を空け微妙な頷き方をする。
「すぐには理解できないと思うけど、胸から背に掛けての一撃の間に心臓があって、本来なら貫いてるんだよね。でも心臓は無事」
「え……?」
「ここからがいかれてるんだけど、心臓が体から切り離された痕跡があった」
「ど、どういうこと……?」
「通常ならそれで死ぬと思うんだけど、彼は害毒で、しかも血を操るそうじゃない? それで出血を止めたみたい。切り離したのは一瞬だと思うけど。自衛でも相当いかれてるよね」
全く理解ができなかった佑一は、ルナと色羽を交互に見る。色羽も困惑しているが、ルナには一つ心当たりがあった。
「それ……部分的に装置に収納したってことか……?」
大鎌を部分的に出し入れできないかと紫蕗に相談したのはルナだ。あの時の紫蕗の反応は、それまでそんなことを行ったことはない風だった。ならば、あのルナの発言をこの件に利用したことになる。
「確かに切り離された腕や脚は物と見做され収納が可能だけど、その理屈でいくと心臓でも収納できるってわけか。できるとしてもやらないけどね、普通は」
納得したように天利は呆れながら頷く。
「でもそのおかげで彼は今生きてるんだから、その判断は正しかったってことかな」
咄嗟にそんなことを実行に移す精神力だけは感嘆する。
「あと、攻撃してきた人も相当上手いよ」
「上手い?」
「細い刃物だと思うけど、周りの骨や内臓は傷つけず正確に心臓を狙ってる。偶然じゃなく狙ってやったんなら、相当上手い。紫蕗君も黙って立ってたわけじゃないだろうし」
もし本当に狙ってやったことなら、躊躇いなどはなく本気で殺そうとしたということだろう。その正確さがわかっていたなら、紫蕗も心臓だけを切り離し守る判断を下せたのかもしれない。お互いのことをわかっていたのなら相手は、紫蕗が回避しやすくなる遣り方で実行したのは少し引っ掛かるが。
「じゃあ次の話。紫蕗君は相当有名人だよね?」
ルナと色羽は頷く。佑一だけは、え? そう? ときょろきょろするが、違界では相当な有名人であることに間違いはない。
「そんな紫蕗君が意識不明の重体で身動きが取れないってことが知れ渡ると危険だからね、なるべく噂を広めないでね。何かあったら私も対応するけど」
これには色羽は唇を引き結んで強く頷く。いつも守ってくれていた紫蕗を、今度は自分が守るのだと決意を新たにする。
「あとは……聞きたいのは、紫蕗君が目覚めるかってことかな」
「はい」
「うん……難しいな。今の所は安定してるんだけど、このまま急変もなければ、目覚めると思う……んだけど、毒の薄れた体が受け入れられなかったら、目覚めないと思う」
「え……」
「根気よく長い目で見てあげて。その間に何か良い手でも見つかれば施術するから」
「…………」
色羽は俯き口を噤む。このまま目覚めないかもしれないなんて、あまりに残酷すぎる。
「他に違界患者もいないし、ずっと見ておいてあげれるけど、どうする? 泊まる?」
「泊まってもいいんですか……?」
元よりそうしたいとは思っていたが、他に患者のいる病院でそれは可能なのかと心配していた所だ。願ってもないことだ。
「畸形も大変でしょ? そこの二人の家に泊まるならそれもいいけど、行く場所がないならと思って」
「はっ、はい! 泊まります! 師匠の傍にいたいです!」
「じゃあ後で病院の案内するね。一般の方には行かない、ってことだけ守ってくれればいいから」
怖かったらと思っていたが、天利は優しそうな人だった。
「私も彼のこと聞きたいな。技師で……あと医師もやってるんだよね? 思ったよりずっと子供でびっくりしたよ。害毒の血と医師の知識に今回は助けられたね。隅々まで調べたいなぁ、害毒」
最後の言葉は引っ掛かったが、怖い人ではなさそうだ。
「――あ。ちょっと仕事残ってたんだった。少し外すけど、何かあったら呼んで」
「はーい」
「じゃね」
小さく手を上げ、天利は部屋を出る。他に違界患者がいないと言っても、忙しそうだ。
天利が去ると、色羽はくいとルナの袖を引いた。
「何?」
「あの……ルナさんにしか頼めないことがあって」
「?」
「一緒に島に来てもらってもいいですか?」
島。紫蕗が襲われた場所だ。
「……何か忘れ物? 今行ったら危なくないか? 俺じゃボディガードにならないと思うけど……」
正直に言う。ルナの戦力では、あの紫蕗を戦闘不能にした者に歯が立つはずがない。最悪死体になる。
「私はいつも師匠に留守を任されていました。それを今、留守にしてしまって、心配で……。師匠は安定してるって言うし、安心したら島が心配になってきて……少しだけでいいんです。危なかったらすぐに引き返すから」
切願する色羽に、ルナも強く断ることができない。心配させたままでは可哀相だとも思う。結局押されると断れないということか。
「でも俺、転送装置持ってないよ」
「師匠のを借ります」
「……後で怒られないか?」
「私が責任持つので大丈夫です。それに、怒ってくれるなら嬉しい。だって師匠が目を覚ましたってことじゃないですか」
そう言ってにこりと笑う。そんな彼女に一人で行けなんて言えるはずもない。万一一人で行かせて色羽の身に何かあれば、紫蕗に何をされるかわかったものでもない。
何か危険があればすぐに戻ってくる。そう言い聞かせるように心の中で唱え、ルナは承諾した。
「ユウ、少し出掛けてくるから、任せていいか?」
「うん? いいよ。天利さんが戻ってきたら言っとく」
「ありがと」
色羽が差し出す紫蕗のヘッドセットを受け取る。天才技師の生活を支える装置に、緊張感が走る。
頭に装置を装着し電源を入れる。
(――! 頭が軽い……)
まるで雑念のない思考のようにクリアな感覚だった。同じ目的の装置でもこれほどまでに違うのかと、改めて紫蕗の格の違いを知らしめられた。
「座標の履歴があると思うんですが、転送装置は使えますか?」
「え、履歴……」
先日宰緒の件で東京へ行く時に紫蕗が転送装置の座標を設定していたことを思い出す。あの時は途中から見ただけだったが、手元を思い出してみる。
ヘッドセットに手を遣り、画面を展開し手探りで履歴を探すと、案外早く見つかった。
「あ、これか」
「師匠は自分の装置にショートカットをあちこちに仕込んでるので、思念で探しやすいんですよ。大事な所は入り組んでて全然わからないけど……」
要は他の装置とは扱い方が異なるということか。
「思ったより使えててちょっとびっくりしたなぁ」
「え?」
「師匠以外は使えないかもって思ってたから」
そうは言っても、特に違和感もなく使えている。実は誰にでも使えるのではないだろうか。
「では、島の座標にお願いします」
色羽はルナの手を取り握り締めた。女の子に手を繋がれ、少しどきどきした。
島の今の様子はわからない。まだ誰か潜んでいるかもしれない。ルナはポケットに入れていた自分の収納装置を掴み、息を呑んで転送を行った。
固い床から軟らかい土の上に足下が変化し、視界を緑が埋め尽くす。どうやら小屋の裏手のようだ。背中に壁がある。
「ここで合ってるよな?」
「はい、合ってます」
辺りはしんとしていて、人の気配はない。
「じゃあ……行くぞ」
「はい」
小屋の角から向こう側の様子を窺う。誰もいる様子はない。
だが、きちんと手入れされていた畑は、無惨に荒らされていた。
「酷いな……」
「私が師匠を見つけた時はもうこうなってました。師匠はあそこに倒れていたので……」
確認のために畑に足を踏み入れる。紫蕗のものかそれとも血糊か、作物や土に血の染みがあった。他には何もない。紫蕗に一撃を加えた相手のものと思しき血痕も見当たらなかった。あの紫蕗が相手に僅かな攻撃も加えられずにただやられたというのか。
「色羽は何処に逃がされてたんだ?」
「私は家の中にいたんですが、そこから地下室に転送されました」
「地下室?」
「この家の下に、出入口のない地下室があります。転送でのみ出入りができる部屋です。いざという時のために作ってたものです」
さすが紫蕗と言う所か。随分と用意が良い。
「地下室でおとなしく待機していろと言われたので……暫くはおとなしくしてました。その後、私は自分の転送装置で直接外に出たので、家の中は今どうなってるかわかりません。家の中に人が入ってくる気配があったので、怖くて経由できなくて……」
「それは仕方ないよ。今は……やっぱり様子見る?」
「はい……」
窓から恐る恐る中を覗いてみる。見た所誰もいない。もう撤退したのだろう……。
それでも警戒しながら音を立てないようにゆっくりとドアを開く。ルナの後ろから色羽も恐る恐る中を覗く。
「……どう?」
「誰もいないみたいです」
そう言った色羽の声は沈んでいた。無理もない。椅子は倒れ脚が折れ、部屋のあちこちに痛ましく破壊の傷がある。
「奥の部屋も見てきます」
「あっ」
誰もいないとわかるとひょいとルナの脇を擦り抜け、色羽は奥へ駆けていった。ルナも慌てて追い掛ける。
奥の部屋では以前、雪哉が脳を診てもらった。その場所も荒らされていた。
「……紫蕗を狙うだけなら、その後にこんなに荒らす必要はないよな……。何か他に目的があったのか……何か物がなくなってるか、わかるか?」
「師匠の持ち物は元々師匠の収納装置に仕舞われてるので、それが目的なら装置を持ち去ると思います。もし犯人がリヴルなら師匠のことはわかってるはずだし……」
「確かにそれはそうかも……紫蕗が身につけてた物はなくなってないんだよな?」
「はい、全部預かりました」
「じゃあ何を…………あっ」
考え始めてすぐに、一つ思い当たる物が浮かんだ。
踵を返し小屋を出るルナを、今度は色羽が慌てて追う。
「何かわかったんですか?」
「もしかしたら、だけど」
走ってすぐに、柵の囲いに行き当たる。紫蕗が見せてくれた、転移草の生えていた場所だ。
「やっぱりない……!」
「そんな……師匠が大事に育ててたのに……」
疎らではあるが何本も生えていた転移草が一本も残っていない。
「これが目的だったってことですか? 師匠をあんな目に遭わせてまで……」
「念のため、森の奥の建物も見に行こう」
「……はい」
駆け足で森へ入り、何の建物かわからないと言っていて、幽霊のような手が生えてきたあの場所へ向かう。
草を分けて辿り着くと、入口が崩れていた。
「何で……」
「どっ、どういうこと……? 師匠は結界を解いてないのに!」
「とりあえず中に入ってみよう」
紫蕗が入れないと言っていた建物の中へ足を踏み入れると、中はがらんどうだった。床がなく、剥き出しの地面から好き放題に草木が生えている。建物の中は、穴の空いた天井と壁があるだけだった。天井の穴からは光が射し込んでいる。他にある物と言えば、その真ん中の小さな石の祠のような物だけだ。これも壊されていて、中は空洞。
「この中に何かあったのか、この壁の中に他にも何かあったのか、わからないよな……」
あの謎の手の主もいない。入口が壊されたのだから、出て行ってしまったのか。
「何か手掛りでもあればいいんだけど、何もなさそうだよな」
ここに雪哉がいればもう少し何か知恵もあったかもしれないが、生憎今はいない。改めて雪哉を連れてきた方がいいかもしれない。ルナだけではお手上げだった。
「色羽、他に気になる所とかあるか?」
「気になるのは……一応全部見ました」
色羽の表情が陰り、睫毛を伏せる。
「師匠が目を覚ました時に少しでも役に立てたらと思ったんですが……」
「じゃあ俺が写真撮るよ。城の写真も見てたし、見たら紫蕗なら何か気付くことがあるかも」
「それは名案です! お願いします!」
携帯端末を翳し、ルナは建物の中を写真に収めた。何か力になれれば良い。色羽がそうしたいのなら。
一通り思う所を撮影し、側だけの建物から出る。中を一周してみたが、やはり他に変わった所はなかった。
「それじゃあ、戻ろうか」
「はい。助かりました」
「誰もいなくてよかったよ」
やっと緊張が解け、ルナは胸を撫で下ろした。もしまだ誰かいて戦闘になってしまったら太刀打ちできない。
来た道を折り返して畑まで戻ると、踏み荒らされた畑はそのままで現実を叩きつけている。
「なあ色羽。襲ってきたのはそのリヴルって人だけだったのか?」
「わかりません……師匠も人数や名前を言っていたわけではないので……」
もう一度畑に足を踏み入れる。今度は先程よりも近く、血痕に歩み寄った。乾いた血は暗くこびり付いている。
「そっか……」
足を踏み込んで覗き込むと、ふと足元に違和感を覚えた。――と言うより、頭の装置が異常を知らせていた。
「!?」
それに気付いた瞬間、足下で何かが爆ぜた。動物的な勘だろうか色羽がルナより一瞬早く、反射的にルナに飛びついた。
足下の爆発音と弾け飛ぶ土。地雷を踏んだ――そう思った。
色羽に飛びつかれたまま、ルナは草の上に尻餅をつく。
足下から勢いよく色取り取りの色が噴き出し、はらはらと舞い散った。
「…………え?」
花片の形をしたそれは、薄い布だった。花吹雪だと気付くまで時間が掛かった。
「地雷じゃ……ない?」
「地雷かと思った……」
一瞬心臓が止まったと思う。死んだ、と思ってしまった。
全ての花片が地面に落ちると、辺りは色の水溜まりのように色取り取りに染まった。
「これ、もしかして紫蕗が何か仕掛けてた、とか……?」
手元の花片の一枚を拾って見てみるが、ただの薄布だった。特に変わった所はない。
「師匠はこんなことはしないです」
「じゃあ、リヴルって人か? 何のためにこんな……驚かせるためだけって言うなら性格悪い……」
「わからないけど、変わった人だとは聞きました」
「変わった人……」
そういえば以前紫蕗は育ての親のことを『人間性はともかく』と前置いていた。それがこういうことなら、紫蕗の気持ちもわかる。育てた人間を殺そうとして、その場所に地雷を疑うような物を仕掛けて去るとは、精神を疑う。
まだ心臓が早鐘を打っている。玉城稔のように体が爆ぜてしまうと、一瞬の内に思い込んでしまった。それが無事でいることに、まだ脳が状況を処理できていない。
「他にもまだこんなのが仕掛けられてるかもしれないし、それに今度は本物の地雷かもしれない。もう病院に戻っていいかな?」
「私もそうしたいです……死んだと思ってしまいました」
まだルナに抱きついたままの色羽は辺りに降り積もった花片に目を落とし、抱きつく手に力を籠めた。
そのままの体勢で転送し、病院に戻る。
色羽がルナに抱きついたままの姿勢で病室に転送された二人は、待っていた佑一にきょとん顔で迎えられた。
「わっ……何かあった?」
漸く色羽は手を離し、ルナも頭の装置を外す。
「物凄く疲れることがあった」
「おお、それはお疲れ様」
同じくドアの脇に座って待っていた天利も「おかえり」と声を掛ける。
「あんまり人前で転送しない方がいいよ。欲しい人は欲しいからね、それ」
「はい、気をつけます……」
軽く頭を下げながら紫蕗へ目を遣る。さすがにまだ目覚めていない。
変わらず固く目を閉ざす紫蕗の傍らに、また同じように色羽は腰を下ろした。再びじっと彼を見守り始める。健気な姿に心が痛む。
「――あ、ルナ。何か落ちたよ」
「え?」
はらりと揺らいで落ちた物を摘み上げ、ルナに手渡す。それは先程浴びた花片の一枚だった。服を払ってみるが、その一枚だけくっついてきたようだ。
「ああ、ありがと」
悪戯の仕掛けだしいらない物だよなと近くのゴミ箱に捨てようとして、指の隙間からふと何かが見える。
「?」
よく見ると何かが書かれていた。何かの記号のようなものが。裏返してみるが、裏には何もない。島で花片を見た時は表にも裏にも何も書かれていなかった。――いや、何か書かれている物もあったのか?
思い直してポケットに入れ、考える。あの大量の色取り取りの花片。あの中に何か書かれている物が混ざっているなら、それは何か意味のある物なのではないだろうか。ただの悪戯ではないとすれば。
だが記号の意味はわからない。本当に意味のない、思わせぶりな悪戯の可能性もある。リヴルという人間の考えが全く読めなかった。紫蕗が目覚めるのを待って訊くのが一番確実だろう。色羽が紫蕗の力になりたいと言っていたが、結局彼に頼ることになるのだなと複雑な心境だった。
「二人は泊まらないんだよね? そろそろ面会時間終わるんだけど」
「えっ、もうそんな時間?」
落ち着いた天利の指摘に佑一は慌てて携帯端末で時刻を確認する。
「ごめんね、心臓切り離すいかれた患者は初めてで、手術に時間掛かっちゃって。先に害毒の血と普通の血を外で混ぜて拒絶されないか見てみたりもしたし」
「今日は天利さんがメインで手術してたの?」
「先生が話聞いてる間は私が対応して、あとは私が執刀して先生に手伝ってもらって……ああ、私がメインだね」
今思い出したように言う。
ルナは少しだけ心配になり、大丈夫なんだよなこの人? と小声で佑一に耳打つ。
「腕はいいって聞くよ。注射も痛くないとかで結構評判。ここは近所のお年寄りが来ることが多いんだけど、結構人気らしい」
「へえ……じゃあ安心かな?」
「親父が複雑骨折決められて入院した時もよく他の人に声掛けられてるの見たし」
複雑骨折の理由と言うか原因は聞かない方がいいだろうとルナは察した。
「それじゃ帰ろっか。母さんも食堂で待ってるだろうし」
「ああ、うん。食堂があるのか」
「小さいやつだけどな。あんまり人数いると色羽ちゃんが警戒するだろうからこっちに来てないだけで、たぶん暇してると思う」
一度最悪のタイミングで様子を見に来ていたが。あのまま車で帰っていたら帰りはどうしようと思っていたのでひとまず安心したが、帰りは急ぎではないがあの狂った速度で走るのならもう一度覚悟が必要かもしれないとルナは身震いした。
「またね、佑一君。……と、そういえばそっちの子は名前聞いてないな」
「青羽ルナだよ。天利さん」
「そ。私は天利リノだよ。じゃあまたね、青羽君」
手を振る天利に会釈し、ルナと佑一は部屋を後にする。一度振り返るが、色羽は暗い顔をして紫蕗に視線を落としてこちらには気付いていないようだった。島に様子を見に行った時に、少しは気持ちが落ち着いただろうかと思ったが、ルナもいたためか気丈に振る舞っていただけなのか。
帰りの車は穏やかなもので、ルナは命拾いした。
その夜、天利は色羽にベッドを用意したが彼女は首を振り、頑なに紫蕗の傍から離れようとしなかった。
「心配なのはわかるけど、少しでも寝ないと駄目だよ。あと食事も摂らないと」
「師匠はごはん食べれないのに、私だけ食べれない」
「紫蕗君は点滴でごはん食べてるから大丈夫だよ。あと紫蕗君は寝てるから、君も寝るといいよ」
「でも……」
「目が覚めて君が倒れてたら、紫蕗君も困っちゃうよ」
「…………」
「そこで寝るって言うなら毛布持ってくる」
色羽に視線を落とし、天利は踵を返す。
色羽が苦しんで倒れている時に助けてくれたのは紫蕗なのだ。今度は自分が、紫蕗を助けたい。支えたい。そればかりがぐるぐると頭の中を駆け巡っていた。
様子を見に行った島では焦燥ばかりが募り、何を見ても何も思えなかった。紫蕗が育てて色羽も手入れをした畑は滅茶苦茶で、紫蕗と過ごした家の中も荒らされ、苦労して栽培を成功させた転移草も奪われ、最近は特に熱心に調べていた結界の建物まで壊された。色羽にはまだ短い時間だったが、紫蕗と過ごした大切な場所が一瞬で踏み躙られてしまった。悲しいのか悔しいのか、それ以上に、眠り続ける紫蕗を見ていると空虚な気持ちになった。これからどうすればいいのかわからなかった。大きな耳が力なく悄気る。
「このまま……目が覚めなかったら……」
ぼそりと呟いた言葉が静寂に消える。まるでこの世にたった一人しかいないように。
その直後、静寂を引き裂くように、窓が派手な音を立てて割れた。
「!?」
驚いて勢いよく顔を上げる。大きく砕け散った硝子片の中に、男が一人立っていた。
「何……?」
知らない男の来訪に色羽は立ち上がり、片手を背に回して島から持ってきた包丁を形成する。
「畸形……やっぱり畸形だ! 危険だ……殺してしまわないと! また娘のように死人が出る!」
「……?」
娘というものに心当たりはない。人違いか、そもそも畸形という存在自体に恨みがあるのか。
色羽は姿勢を低くし、男から紫蕗を隠すようにベッドの前に飛び出す。
(師匠を狙ってるわけじゃない……なら、師匠の存在を悟らせない内に私が何とかしないと)
色羽も包丁を構え、応戦する。
その時、部屋のドアが勢いよく開け放たれた。
そこからは早かった。弾丸のように部屋に飛び込んできた天利は素手で男を捕らえ、掴んだナイフの腕を背に回し床に組み敷き、奪ったナイフを男の首筋に当てた。
「っ……!?」
「病院ではお静かに」
身動きの取れなくなった男は必死に足掻こうとする。
「殺されると思った? 病院内では殺さない」
口元を男の耳に寄せ、脅しとも取れる囁きを送る。
「色羽ちゃんもそれ仕舞って。大丈夫だから」
「…………」
警戒しつつ、色羽は言われた通り包丁を仕舞う。今の動きを見ると、逆らってもこの天利という看護師には勝てそうにない。こちらには身動きの取れない紫蕗もいる。おとなしく従う方が良い。
「クソッ……! こんな女一人に!」
「女だからって舐めてるからだよね。でも舐めてなくても勝てる。だからおとなしく帰ってほしいんだけど」
「放せ!」
「窓は出入口じゃないんだよ。こんなに風通し良くして」
天利は冷ややかに男の首にナイフの刃を食い込ませる。
「もう襲わないなら殺さない。病院内では殺しはしないけど、言うことを聞いてくれないなら、外に出てから何をするかわからない」
「くっ……!」
殺気を向けられていない離れた所にいる色羽でも背筋が凍りつく。
「廊下まで聞こえてたけど、畸形に恨みがあるの? この子は危険な子じゃないよ。そこは私が責任を持つから」
「…………」
どう足掻いても勝てないと理解したのか、男は抵抗を止めた。
「お前か……病院の戦闘担当と言われている白衣の悪魔は」
「誰が言い出したか知らないけど、その言い方恥ずかしいからやめてくれないかな」
おとなしくなった男の腕を捻ったまま体を起こし立たせる。
「じゃあこの人出口まで送ってくるから。割れた硝子は危ないからそのままにしてて」
気圧されつつ色羽は無言で頷く。
男は毒突きながらも天利に連行されていった。
残された色羽は硝子のなくなった窓を見遣り、紫蕗のベッドに戻る。そのままにしてと言われたが、ベッドの上まで飛んだ硝子片だけはこのままにはしておけなかった。紫蕗に当たらなくて良かったと安堵する。もし紫蕗に傷が増えてしまっていたら、それこそ疎まれる畸形のように理性が飛んであの男に危害を加えていただろう。
今回の件は畸形である色羽が原因だ。きっと病院に来るまでに何処かで姿を見かけたのだろう。自分の所為で紫蕗を危険な目に遭わせてしまい、ここに泊まると言ったことを後悔する。
だがそれでも、傍についていたい気持ちは変わらなかった。紫蕗のお世話係なのだから。
夜風が吹き込む病室で色羽は椅子に座り直し、ベッドの上に腕を畳む。
不安が目に染みるが、できるだけ穏やかに言った。
「師匠、明日は目を覚ましてくださいね。寝過ぎは駄目ですよ」