マスクと彼女
マスクの品薄が続いていますね
レジには行列が出来ていた。
それは店側の過失ではないし、俺もそれについて責める気は無い。現に数メートル先のレジは二つとも店員が入ってせっせと会計をこなしている。問題があるとすると、強いて言えば客側である。
並んだ人々は老若男女揃い踏みで、俺の前は整髪料で髪をぺったりとまとめた初老の男性だ。それぞれの手にはマスクの箱が平均して三つほど積まれている。全員、このドラッグストアの品出しに合わせてマスクを購入しに来たのだ。
おそらくテレビと新聞に踊る感染症の文字に煽られてやって来たのだろう。その気持ちは痛いほどわかる。なんだかよくわからないものが、なんだかよくわからない内に蔓延していると言われれば誰だって怖いだろう。目に見えないものならば尚更だ。しかし、最近はどうにも全国的、あるいは世界的なマスク不足とそれによって引き起こされる混乱の方がある意味深刻では無いだろうか。噂によると、ネット上ではあり得ない価格で素人同士の売買も行われているらしい。便利なツールも、何事も利用する人間次第である。需要と供給のマジックによって、あの白くて薄っぺらいものがダイヤモンドに化ける日も近い。
かくいう俺は、花粉症対策のために並んでいるわけだが。
じりじりと前の男性が進んだ。それに合わせて俺もじりじりと進む。どういう訳か、ムカデ競争を思い出した。
「はあ」
後方からささやかなため息が聞こえた。振り向くと、大ぶりのマスクをしっかりとつけた女性が並んでいる。黒髪は肩ほどですらりとした長身をトレンチコートに包み、両手には制限ギリギリの量のマスクが抱えられていた。
「どうしました?」
「いえ、その、列の進みが遅いもので」
何気なく話しかけると、気落ちした声で返ってきた。確かに列はなかなか進まない。
「確かにゆっくりですね」
「せっかちなもので」
「なるほど。おや、そのマスクはご家族用ですか?」
「いいえ、私のです。どうして?」
手に持ったマスクの箱には『ゆったり大きめサイズ』と印刷されてある。どうにも、彼女には大きく思えた。よく見ると、彼女が今つけているマスクも心なしかサイズがあっておらず左右に余っていた。
「サイズが大きいんじゃないかと思っただけです。よかったら交換しましょうか、普通サイズ持ってますよ」
「いえいえ、大丈夫です。大きいマスクが欲しかったんです。顔が隠れるし、口紅もつきにくいので」
彼女はそう言って目だけで薄く微笑んだ。そういう選び方もあるのかと納得しつつ、前の男性と距離を詰める。
「実は酷い花粉症で、マスクがないと外に出られないんです」
「まぁ、大変。私も出かけるときはマスクが手放せなくて、今年は難儀してます」
なんだか妙なシンパシーを感じる。そうだ、そうなのだ。俺たちは毎年マスクを必要としている常連なのに対し、今年は駆け込みでマスクを買い漁るマスクにわかが多いのだ。流石に買うなまでとは言わないが、もうちょっと思慮とか遠慮を求めたい。そうこうしてるうちに、列は随分すすんで前にはもう数人しかいない。
「よかったら順番代わりましょうか、一人分しか早まりませんけど」
「いいんですか!ありがとうございます!」
思いつきを口に出すと、彼女はぱっと顔を明るくした。別に急ぐ買い物でもなければ、この後に用事があるわけでもない。たまたま知り合った気の合う人に親切にする程度の余裕はあった。
後ろに下がるとと、彼女は俺の前にするりと入った。
その次の瞬間、甲高い悲鳴が響き渡る。
「きぃぃぃぃぃぃあぁぁぁぁぁぁあ!!」
発生源である彼女は怪鳥のように叫びながら頭を掻きむしって取り乱す。落としたマスクも気に留めず、肩を怒らせて地団駄を踏んだ。前の男性も、その前の主婦も、会計中の青年も揃って振り返り目を点にしていた。店員も呆然として、スキャナーを持った手が止まっている。後ろから見つめる俺も突然の豹変具合に呆気にとられるしかない。
彼女は悲鳴の間にこんちくしょう、鼻がもげそう、最悪だ、と悪態を吐きながら店の外へ出て行ってしまった。
その反動か、店内には深い深い沈黙に満ちた。下手なことをすれば彼女がぱっと戻ってくるような気がして、俺は無意味に息を潜めてしまった。
やがて店員は会計を再開し、青年は財布を取り出した。主婦は前に向き直り、男性は固めた頭を整えるような動きをしながらしきりに瞬きをしている。気づいたら、彼に話しかけていた。
「彼女どうしたんでしょう」
「さぁ、なんとも……」
首をかしげる彼の買い物かごには、マスクと愛用品であろうポマードが目一杯詰め込まれていた。
ちなみに私は花粉で鼻水が止まりません




