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安上がりな文学的厭世観

作者: 鬼火



 ◯


 さて、諸外国の事情に通暁しているわけではないが、さるにても日本人ほど厭世観に親しみ深い民族はそうそういないのではないか、と私は予々思っている。

 無論、海外に厭世観らしいものがないわけではなく、例えば旧約聖書中のヨブが悪魔に苛まされ、そのことで友人と問答した場面などには、激しい自己嫌悪と厭世観がみられる。


 しかしながら日本で言うところの厭世観とは本来、仏教に由来しており、無常観へと発展せねばならない観念である。無常観は『平家物語』に「諸行無常の響きあり云々」とあるのが著明で、この世の流転性を厭い、現世の価値を真っ向から否定する世界観である。

 この点で仏教とキリスト教は対立をみせる。

 現世にあるもの全てが神の創造物であるために、神の被造物である人間がその価値を損なってはならないが、神は人間に対しより階級・霊的に優れた『楽園』の提供を約束しているのだから、その『楽園』をば人間の住むべき真の世界と見做し、積極的にそこへ向かおうという態度がキリスト教のものである。

 先のヨブにしても、切々たる厭世観を吐露したものの、最後には立ち直って神の偉大さに敬服したために、悪魔によって失った財産の何倍ものものを賜ったのである。


 最も顕著な両者の径庭は、キリスト教が外部の奇跡的な力によって引き起こされる帰依心に依拠した、いわば肯定的厭世観であるのに対し、(このことはヒルティの『幸福論』にも示されている)、仏教は否定的厭世観とでも言おうか、たとい外因の働きがあろうとも、本質的には個人の内面からふつふつと湧き上がる、現世に対する烈々たる批判と隔離に依拠している点にあるだろう。


 さて、歴史を振り返れば、仏教の公伝からすでに十五世紀ほどになる。

 仏教はまたたく間に国政へ用いられ、上代においては知識人、それからやがて民間にまで浸透していった。紙の端についた火が素早く全体に行き渡るようなそれは、仏教が日本人の感性に合致したものであったことの証左である。


 そして繰り返しになるが、仏教は本質的に、宗教の側から人間に厭世観を要求するものでもある。それはこの宗教が、この世の儚さを悟った人間の、より霊的な別世界を心に描いた際に訪れる憧憬を体系化したものだからである。

 いわば厭世観によって引き起こされる救済心のネガを現像しようとする試み、その暗室での作業工程が仏教であるといえる。


 私は先ほど、このような本来的・仏教的厭世観を「否定的厭世観」と呼称し、無常観へと発展すると述べたが、日本人における厭世観はより救い難い「デカダン的厭世観」へ留まったようである。その経緯を記せばくだくだしいので控えるが、そこに日本人の死生観が絡んでいることは疑いようはない。

 つまり、応仁の乱以降の武家社会において、日本人と死は特別な関係をもった。死が華々しいものになったのである。戦場での意義ある死こそが人生において最も輝かしい一瞬で、継続し続ける生の瞬間はその一刹那の閃光を放つことへ収斂され、かつそのために鍛錬せねばならぬ前提過程となる。

 しかしそのような死ばかりが現実ではなく、病気による死や不慮の死といった下劣な死を人々は受け入れなければならない。その理想と現実のギャップをどう埋めるのか、という命題に対し、この世の儚さは人間存在に厳しい脅迫観念を要請し、しからば退廃的な厭世観・無常観は生ずるのである。もっとも、デカダン的厭世観は『万葉集』にもみられるのだから、ある意味で日本人の伝統であり、それを正当化する理由がかようにして生じた、と私はみている。


 近代においては浪漫主義や象徴主義の輸入によって拍車をかけられたその伝統は、今日にまで連綿と受け継がれているようだ。

 なぜと言うに、仏教的厭世観にはある種の覚悟が要るが、デカダン的厭世観はそれを必要としない、至極易しいものだからだ。

 デカダン的厭世観は死や信仰の覚悟が要らない。些少の劣等感・絶望感を外因に転嫁し自己保身するための簡単な、それでいて万人の理解を得る方法論の一つとなるのである。


 別に私はここでそういう観念の批判をしたいのではない。

 個人的にデカダン的厭世観は嫌いであるけども、そういう観念を二六時中抱いていたことがあったし、現在の自分自信確たる覚悟を抱いていないのだから、ふとした拍子に顔をもたげることもある。また主観による批判が虚しいことも分かりきっている。

 だからここでは世間にそういう観念が蔓延していることに目をとめ、触れた瞬間に感動するのをやめて、一歩退いてみることを勧めてみる。

 日本人的な厭世観を吐露する歌が人気を博したり、厭世性のあるものが芸術的だと直列的に言われているのは、ある意味でそれが日本の伝統でありお家芸であるためだろう。それが共鳴的な発作にも似る仕草でインフルエンスし続けているのは、万人の深層意識に浸透しているほどに軽々しく厭世観が語られ続けていることによるのかもしれない。

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